赤子の泣き声
沙夜子を鬼救寺に送り、そのまま吉良は自宅へと帰ってきた。予想を超過しての帰宅時間。時刻はもう深夜に迫っていた。
真っ暗な車内で時計をチェックする。愛姫からのメッセージが何通か送られていた。
【ご飯は、昨日のカレーです。温めて食べてください】
【優希ともう寝ます。おやすみなさい】
【お土産楽しみにしていますね】
子どもの名前は優希と言う。愛姫と一緒に名前辞典やインターネットで調べて考えた名だが、主に愛姫が案を出した。あやかしの中でも固有の名前を持つものは少ない。大抵は人間がつけたそのあやかしを指す名で呼ばれ、お互いも呼び合うが、たとえばあやかしの代名詞でもある鬼であれば固有の名前をつけられた者も多数存在するように、名を持つ者が存在する。
「名は体を表す」というように、固有の名を持つものはアイデンティティが極めて高い段階で確立されている。抽象的な形ではなくより具体的な形を持ち、ほぼ人間と同等の精神構造を持っている。違うのはやはり特有の力や能力だ。
愛姫、川瀬愛姫は同じくあやかしである母親からその名を授かった。あやかしがあやかしに名をつけること自体珍しいことではあるが、やはりそれだけ精神構造が発達している証左でもある。名の意味は、あやかしとしての総称である「川姫」をもじったものであるが、愛の字は誰からも愛されるようにという願いが込められているらしい。愛姫の母親は、若くして人間の襲撃に遭い命を奪われていた。
愛姫はだから優しい子がいいと言った。とにかく優しい。人間もあやかしも分け隔てなく愛せるようにと。そして希望の持てる子がいいとも言った。どんな逆境でも希望を持って歩けるようにと。
吉良は、助手席に置いた鬼灯を手にする。沙夜子に言われたことが気に掛かっていた。お守りにでもなればという意味でもらったこのお土産で果たして喜んでくれるのだろうか。
今さらもう仕方がないかと鬼灯と小さなバッグを手に車を降りる。静かにシャッターを下ろすと若干狭いが縦に長い3階建ての自宅へと戻った。
細心の注意を払ってドアを開ける、がーー。
優希の泣き声が降ってきた。今までの吉良の経験では、どんなに静かにドアを開けたとしても泣くか泣かないかは五分五分といったところ。一日中家にいて疲れているだろう愛姫を起こすのは忍びなかった。
(……あれ?)
妙だった。いつもならすぐに起き出して優希をあやす音や愛姫の歌声が聞こえてくるはずなのに、起き上がる際のベッドが軋む音も聞こえない。
泣き声はどんどん激しくなっていく一方だった。吉良は玄関脇の棚に鬼灯とバッグを置くと、寝室にしている3階へと早足で上がっていった。
「愛姫、どうしーー」
寝室のドアを開ける。泣き声は一層大きくなり、吉良の耳を突き抜けていった。夜でもすぐに対応できるようにとつけていた常夜灯の下、ベッドの上で愛姫は長い黒髪を乱れさせたまま仰向けに倒れていた。
「愛姫!」
吉良の呼びかけに黒髪が波打つように揺れた。
「大丈夫。ちょっと目眩がしただけだから」
愛姫は顔を上げた。作り笑いだった。いつもそうだ。辛いとき、苦しいときほど愛姫はこの表情をする。張り付いたような笑顔というか、感情の起伏を感じない笑顔というか、どんなに綺麗な笑顔でも目だけがいつも笑っていなかった。
「ごめん、無理させて。休んでて。優希は僕が見るよ」
「……でも、伸也くんも疲れているから。沙夜子さんに呼ばれたなら、何か大きな出来事でしょう?」
上目遣いの瞳は熱を帯びているようにも見える。心配の色が大きな瞳にくっきりと浮かんでいた。愛姫の瞳に見つめられるとつい甘えたくなってしまう。その理由と意味についても、吉良は十分熟知していた。
だから吉良は嘘をついた。
「大丈夫。それほど大したことはなかったよ。まあちょっと入り組んでいるけどすぐに解決できる」
「本当? だったら、いいんだけど」
赤子の泣き声がさらに激しくなり、会話を中断させた。吉良は急いで優希を胸に抱く。
「お腹、空いているのかもしれない」
「ミルクだね」
「それがダメならオムツかも」
「確認してみる」
「それでもダメならーー」
「大丈夫! 何とかするよ!」
心配したらキリがない。そういう性格だと知っている。この場にいては愛姫が休めないので階下へ移動した。
オムツを替えてミルクをあげた。ミルクが半分くらいに減ったところで優希は目を閉じながらちゅぱちゅぱと哺乳瓶の乳首を吸っていた。ゆっくり、ゆっくりと吸う速度が緩やかになっていく。
ふわっと、この時期特有の柔らかな匂いが漂い、温かさも相まって吉良の瞼も少しずつ少しずつ夢の世界に誘われるように落ちていった。




