変わらぬ日常の崩壊
思い出すのは口を噤んだ母の顔だった。
別れは十二歳の時、月の綺麗な夜、薄ら笑いを浮かべる鬼の口に放り込まれるのをただ見守った。
思い返せば母は笑ったことが一度も無かった。鬼が父と祖母を殺すまでは。
「怨みにまみれた人間の肉は美味い。お前も美味くなるだろう」
呆然とする俺にそう言い残して鬼は霞のように消え去り、残されたのは八つ裂きになった父と祖母だけだった。
それから三年、俺はまだ生きている。父の遺産で毎日を食い繋ぎ、日々を垂れ流している。葬式が終わってから知らない親戚がやっては来たが、狂ったふりをして追っ払ってやった。しばらくは怪しい奴もうろついていたが、その中の一人に噛みついてぶん殴ってやったらそれも来なくなった。
母は父も祖母も、生まれてきた俺さえ呪いながら死を望みそれでも己の手では死を選択しなかった。まさしく弱い人間の典型だったといえるだろう。自分は変わろうとせず、周囲の人間が変わることだけを望んでいたのだから。
原因は俺の髪や目の色だった。こんな田舎では近所はおろか隣町まで噂が広がり、物珍しさで見物人が来る有り様だった。
「あれは鬼の子だ」
「人でない化け物だ」
「山神様の怒りに触れた」
取り上げた産婆が“獣付きだから殺せ”と勧めるくらいだったらしい。産婆の言う通りその時にくびり殺してくれれば良かったものをわざわざ生かしておいて自分らはとっとと死んでしまうとは。なんとも迷惑な話だ。
今も苦労は変わらない。血のような赤黒い髪に夏の山野のように深い緑色の瞳はどこにいっても目立つ。これで鬼の様に強い力があればもっと生き易かっただろうが、腕っぷしはそこらの連中とたいして変わらない。
「おい、あいつまた来てるぞ」
「なんで生き残ったのかしら」
不便だったのは家族が死んでから食い物を買うのに外へ出なけらばならないことだ。父も祖母も外聞を気にして部屋から出してはくれなかった。それが伝手のない今では金をケチって自分で買い出しに行かなければならない。ガキどもに石を投げられることもあるがどうやったって腹は減る。
買い物だって簡単ではない。祟りがうつるとか厄が来るとか根も葉もない噂のせいで敷居すら跨がせてはくれない。一人を除いて。
「おぅ、来たが」
石をよけそこなって頭をかち割られた俺を拾って介抱してくれたのがこの爺様だ。昔は名の知れた侍だったらしいが、体を壊したとかで今は土をいじって生計をたてている。俺がものを買えるのはこの爺様のおかげだ。
「これ、金」
「なに、 立山がら来たんでねぇがら、まんずねまれ」
(なに、立ち話もなんだから上がっていきなさい)
「いい」
「やらねぞ?」
「……わかった」
こんな調子で爺様はいつも俺を引き留める。俺が立ち寄っているせいで立場が悪くなっているのを知らない訳じゃない。できるだけ頼らずにいたいが、考えとは裏腹にここはとても居心地が良い。爺様は物を売らないと理由をつけて俺を家へ上げてくれる。
「まんず来る頃だと思ったはんで、豆湯げだがら、け」
(そろそろ来る頃だと思って枝豆を茹でてあるから食べなさい)
「いいのかよ」
「まずよ、童ゃ食わねばわがねのさ」
(子供は食べなきゃならないのさ)
カラカラと笑う爺様は俺が十五になってもまだガキだと言う。だが、じいさんにそう呼ばれるのは不思議と気持ちがよかった。言われるがままに枝豆のさやを絞って口に放り込む。
「うめが? たいしたおがってへらねがら、けでやるじゃ」
(うまいか?たくさんできて減らないからわけてやる)
「それくらい払う。これ以上迷惑かけれねぇ」
爺様はまた楽しそうに笑うとしわの深く刻まれた手で俺の背中をバシバシと叩いてから台所に向かう。
「おめがでっけぐなってからなは、まんず、け。でねばおがらねじゃ」
(お前が大人になったらな。まずは食べなさい。そうでないと大きくなれないから)
爺様の顔には左目をえぐるほどの深い傷がある。俺が聞いても悲しそうな顔を浮かべて教えてはくれなかった。
周りの連中はその傷を槍玉に挙げてスジ者だの、人さらいだの言いがかりをつけて村八分にした。そこに俺が来るようになったものだから嫌がらせは度を越した。豆がたくさんできたと言っていたが、爺様の畑は盗みに入られて収穫するほどでもないくず野菜しか残っていない。その中でも"まし"なものを俺に売ってくれるのだ。
「ごめんな、爺さん」
夕飯まで世話になり申し訳なくてそんな言葉が出る。そんな俺の顔を見て爺様はまた笑う。
「おめが来ば俺はおもしぇんだ、気ぃもむなじゃ」
(お前が来れば俺は面白い、気にすることはない)
親にすら見捨てられたがここに来ると俺は人になれる。あまりに居心地が良くて夜になってしまい、結局泊まることにしてしまった。明るい月の中、年甲斐も無く爺様の布団に潜り込む。爺様は嫌がらずに頭を撫でて抱いてくれた。感じたことのない腹の中がぽわぽわと温かくなるような、そんな気持ちで眠りについた。
「れ」
だが、気持ちのいい眠りは最悪の形で終わることになった。
「起きれっ!」
爺様の鬼気迫る声でハッと目を覚ます。爺様の向こう、月明かりに照らされたのは紛れも無く母を食った鬼だった。爺様は刀を抜いて背中でもわかるほど殺気立っていた。
「お前の母は美味かったはずだが…… なんでお前は不味そうなんだ?」
鬼は記憶を確かめるように右手で頭を掻く。左手に女の首が二つぶら下がっている。爺様を気にしている風は無い。俺は息を吸うのも忘れて腰を抜かした。
「けつが仇が?」
(こいつが仇か?)
爺様は振り返らずに聞く。俺は答えたかったが、はっはっと言うのが精いっぱいで息を吸えずに言葉が出ない。
「じじぃ、お前のせいか!俺のご馳走をこんな糞に変えたのはっ!!!」
言うが早いか鬼は爺様に飛び掛かる。獣のような怒りに任せた鬼の動きに対して爺様は流れる水のように緩やかな一閃で応えた。襲い掛かった鬼の左腕はするりと落ち、真っ黒な血が噴き出した。たまらず鬼が後ろに飛び退いた。
「がぁぁっああああ!!!俺の!俺の腕があぁぁぁあ!!」
だが、勝ったはずの爺様も膝を付いた。たまらず駆け寄り息を吸い込んで声をかける。鉄錆のような鼻を突くにおいが辺りを包む。
「爺様!爺様!!」
爺様の前に回ると腹は裂け、臓腑が零れ落ちていた。必死に戻そうとするが収まってくれない。爺様は刀を鞘に納めて俺に差し出した。
「へでげ、俺と旅さあべ」
(連れて行ってくれ。俺と旅に出よう)
「死ぬな!死なないでくれよ!!」
俺の言葉に爺様は応えず、ふうっと息を吐くと動かなくなった。鬼は切り落とされた腕を抑えてのたうち回っている。悲しみと怒りが襲ってくる。
それなのに俺は走った。歯をがちがち鳴らしながら爺様を見捨てて逃げた。貰うばかり貰って恩も返せずにみっともなく逃げだした。鬼の叫び声が響く村を捨てて連れていけと言われた刀を持って俺は息が切れて足が上がらなくなるまで逃げた。結局川べりでぶっ倒れてただただ泣いた。
「爺様!爺様ぁぁぁぁぁあ!!」
刀に頭を擦りつけながら喚くしかない。感情の整理ができず、ただ月明かりの川べりで泣きじゃくる。
「おい、ガキ」
ぞっとするほど美しい声が聞こえて振り返る。そこには同い年くらいの美しい女が立っていた。刀なぞ振った事は無いが震える手で鞘から抜いて声の主に向ける。
「鬼の匂いがする、お前が鬼か?それとも”巻き込まれた”か?」
目に浮かぶ腹を裂かれた爺様の姿。巻き込まれたのではない、巻き込んだ。巻き込んでしまったのだ。俺がさっさと死んでいればいや、せめて今日家に帰ってさえいれば爺様があんな最期を迎えることはなかった。後悔でまた涙が流れる。
「ほぅ?お前の目…」
女はゆっくりと近寄ってくる。こんな田舎の夜更けに出歩く女なぞまともなものであるはずがない。切ることより突くことを考えて体の中心に狙いを定める。
「鬼忌か! これは、これは良い物を見つけた! ん、いや待て・・・標が?」
こちらの構えなぞまったく無視するように女は歩みを止めず近づいてくる。一間ほどまで寄った所で持てる力の全てで突く。しかし、感触は無く女の姿を見失う。それと同時に首筋へ鋭い痛みが襲ってきた。
「ハハッハハハハ!!お前!お前!!会ったのか!!あの鬼に会ったのか!!」
振り向けば口から血を滴らせた女が歓喜とも狂気ともとれるような顔で笑っていた。首筋をさするとぬるりとした感触。あの一瞬で血を吸われていた。
「お前、これからは私の物だ。目的は同じ、あの鬼をぶち殺すこと!」
月明かりに照らされた女は美しく、その声はまるで風鈴の如く涼やかで聞き惚れる。だが、漠然と感じていた違和感が徐々にその理由を明らかにしていく。角だ。ぼんやりと頭に三本の角が見える。あの鬼と同じように。
「お前、名は?」
爺様から貰った命、鬼などにくれてやるわけにはいかない。息を七割まで吸い、ゆっくり吐く。幸いあの鬼よりは小さい、刺し違えても鬼を討てばあの世で爺様も許してくれるだろう。
「答えろ、名は?」
俺の事を敵として見ていない女は一歩、また一歩と近づいてくる。
半間、いざ死途の旅。爺様の魂を振るう。
読んで下さった方の暇つぶしになれば幸いです。
よろしくお願いします。