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働かなくてよい世界  作者: 水無月 黒


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14/14

再考、働かなくてよい世界

 想定していた未来社会に対する妄想はあらかた書いたので、最後に私の考えていた「働かなくてよい世界」とは何だったのかを振り返ってみたいと思います。


 私が最初にこのエッセイを思いついたときは、デストピアが透けて見える理想社会的なものが描ければよいなぁ、と考えていました。

 まあ、いろいろ書いてみた今でも一つ間違えればデストピア一直線な世界だとは思っています。

 働かなくてよくなった人々が何もしなくなって、ただ機械に生かされているだけの死んだような世界になるかもしれません。

 複雑になった無人システムに手が出せなくなって、機械の都合に合わせて生活する不自由な世界になるかもしれません。

 無人システムの提供する衣食住だけでは生活できず、一部の楽で高給な定職に就いた富裕層と、辛くて危険で低賃金な日雇い職を奪い合う貧困層に分かれる格差社会になるかもしれません。

 人がいなくなった後も動き続ける無人システムによって衣食住の保証された終末世界というのも、物語の舞台としてはちょっぴり魅力があります。

 しかし、書いているうちに本気で「働かなくてよい世界」を目指した方が良いのではないかと思えるようになりました。

 働きたくねぇ~! と言う魂の叫びは置いておくとして。


 考えが変わったのは、『序』の部分を書いていた時です。

 この『序』の部分は、働かない生き方を認めるための理論武装を行うために書きました。

 今の世の中、働かない人に風当たりが強いと思いませんか?

 親の収入に依存するニートは親が突然亡くなったり、病気や怪我で仕事ができなくなると途端に苦しくなります。だから、将来のため自分のために安定した収入を得られる仕事を見つけさせようとすることは正しいと思います。

 しかし、既に十分な財産があったり、不労所得があったとしても、若い人間が無職なのは悪いことのように感じていないでしょうか?

 収入以外にも仕事をする理由としては、仕事を通して社会との繋がりを持つとか、社会に貢献するとか色々とあると思います。

 しかし、社会との繋がりを持つとか、社会貢献をするといった事柄は、必ずしも仕事を通して実現することが唯一の手段ではないはずです。

 だから、そもそもなぜ働かなければならないのかという点から考え直し、多様な生き方を模索できればと思っていました。


 しかし、『序』を書いているうちに一つ思い出したことがありました。

 私は以前から、今の経済は何かおかしいと感じることがありました。

 私がもう一つ連載しているエッセイの『駄文庫』で、『科学は悪か?』という話を書きましたが、根本には「科学技術の罪悪とされていることの多くは経済が原因ではないか」という思いがありました。

 他にも、「経済活性化には設備投資が重要」みたいな話にも疑問を感じていました。

 工場などの生産設備を増強すると、生産能力が上がって売り上げが増すだけでなく、設備を増強するために機材やら資材やらを購入するから他社にもお金が回る。

 他社の設備投資で大きな売り上げを得た企業は、その資金をもとに事業を拡大すべく自社でも設備投資を行う。

 こうして設備投資が新たな設備投資を呼び、資金がどんどん流通して経済が活性化するというものです。

 おそらく高度経済成長期のように景気の良い時期はこの理屈が成り立ったのでしょう。

 しかし、ちょっと考えてみてください。

 ある企業が設備投資に投下した資金を、売り上げとして受け取った企業がその全額を次の投資に使えるわけではありません。

 売り上げから様々なコストを差っ引いた残りが利益です。その利益分だけを次の投資に当てたのでは、投資の連鎖はどんどん先細りし、すぐに止まってしまうでしょう。

 投資の連鎖が続くには、利益に加えてプールしてあった社内の資金や借金して得た資金を投下して新たなる設備投資を行う必要があります。

 当然のことながら、他社の投資による特需だけでなく、本業において投資に見合う利益が見込めなければなりません。

 投資の連鎖による特需だけを当てにして新たな投資を行えば、それはバブルであり、いずれ弾けます。

 投資バブルにならず、各社がそれ以前から考えていた設備投資が一通り終われば新たな設備投資はいったん終わると思うのです。

 設備投資による経済効果は一時的なものと考えるべきではないのでしょうか?


 今の経済は異常なのではないかと思うのです。

 以前GDPの推移のグラフを見たことがあります。産業革命以前は現代に比べれば0に近い水準で横ばい、ところが産業革命以降、特に二十世紀に入ってからは恐ろしい急勾配で上昇し続けています。

 これが異常でなくて何なのでしょうか?

 お金は社会の血液と例えることがあります。

 上手い例えだとと思います。

 お金の流れに乗って社会を構成する人々に必要とする物が届きます。

 血流たるお金の流れが滞れば細胞たる人は壊死し、組織は機能不全に陥ります。

 私達はもう貨幣経済以前の単細胞生物には戻れません。経済活動という血流を止めることはできないのです。

 しかし、この例えで言うと経済成長とは何なのでしょう?

 体全体が大きくなって血液が増えるのならば自然ですが、人口が停滞から減少に向かっている日本で経済が成長するとは何を意味するのか。

 個人の立場からすれば、経済成長とは収入が増えることでしょう。

 つまり、血液で例えるならば、経済成長とは各細胞に届く血流が増加することを意味します。血液の総量の増加というより、血流の速度が速くなる感じでしょう。

 そう考えると、経済が成長を続けるということは、そのうち高血圧で死にませんか?


 今の経済は暴走しているのではないでしょうか。

 経済は成長せねばならず、後退どころか停滞――現状維持でも不況となり、困る人が大勢出てきます。

 政府は様々な経済対策を行いますが、狙い通りの結果になるとは限りません。そしてどこの国でも借金が増えて行きます。

 経済の理論は色々と考えられましたが、経済の動向を完全に予測したりコントロールできる理論はありません。

 景気の良い時期が続いてもいずれは破綻し、不況に襲われます。それは別に自ら繁栄を放棄するような失策を行ったわけではありません。

 そもそも、なぜ経済は成長しなければならないのでしょうか?

 給料が上がらなくても、その給料で十分に生活できる程度に物価が安定していれば生活に困ることはないはずです。

 これまであまり考えたことはなかったのですが、『序』を書いているうちに気が付きました。


 全ては生産能力が過剰になっていることが原因ではないでしょうか。


 ケインズ経済学で有名な経済学者のケインズ氏は「今後は余暇の使い方が重要になるだろう」みたいなことを言ったらしいです。

 需要を大きく上回る供給能力があるのだから、毎日遅くまで仕事をしなくても需要を十分に満たすだけの生産を行うことができる。だから毎日午前中だけ仕事をするとか、週に三日だけ仕事をするといった働き方が一般的になって、増えた余暇をどのように過ごすかが重要になるだろう。

 もっともな意見です。

 しかし、現実にはどうでしょう?

 かつては働き過ぎと非難された日本でも週休二日制が定着しましたが、そこまでです。

 世界的に見ても、有り余る余暇を優雅に過ごしている人は非常に少数でしょう。

 ワーカホリック気味に必要なくても過剰に働く人や、医療関係のように人手不足で長時間労働になっても働かなければ命に関わる仕事も確かにあります。

 しかしその一方で、バイトやパートを掛け持ちしたり、フリーランスで安い収入で長時間働かないと生活できない人もいます。

 仕事を減らしてのんびり暮らしたいと思っても、そんな余裕のない人の方が多いでしょう。

 なぜこのような状況になってしまったのか?

 それは、過剰な生産能力によって、労働の価値が下がってしまったからです。

 市場原理は時に非情です。

 需要より供給の方が多ければ価格は下がります。

 必要とされる労働力よりも供給可能な労働力の方が大きければ、労働の価値、つまり賃金は下がってしまいます。

 だから、たくさん働かなければ必要なだけのお金が手に入りません。

 そして、労働力は足りているのに皆がたくさん働けば、職にあぶれて失業する人が出てきます。

 極論すれば、全世界の半分の労働力だけで、全世界の人が必要とする全ての製品とサービスを提供できるなら、全世界の半分の人は働く必要が無い――企業は新たに雇う必要はありません。就職せずに自分で商品を作ったとしても需要は既に満たされているから売れません。結局、大量の失業者が出ます。

 失業した人は放置しておけば生活に必要な物も購入することができずに生きていけません。

 それだけでなく、仕事にありつけずに収入のない人は物を買うことができないので、潜在的に需要があっても売り上げにはつながりません。

 つまり、需要ぴったりに生産していても余ります。需要はあっても金が無いから買えないのです。

 売れないから生産量を減らしてその分従業員を解雇すると、失業者が増えてさらに売り上げが落ちます。

 何も手を打たなければ、餓死する失業者を大量に出しながら、デフレスパイラルで経済が縮小していくことでしょう。

 需要と供給のバランスが取れていないのだからある意味必然です。


 もちろん、大量の失業者が出る時点で社会的に大問題です。だから無理やりにでも需要を作り出して新たな雇用先を作り、景気を活性化しようとします。

 世の中には過剰な生産能力をフル回転させても豊作貧乏にならずにガンガン売れまくるタイミングがあります。

 それが、経済が成長している時なのです。

 経済が成長している時には社会が大きく変化します。

 道路や鉄道が整備されて人の往来が激しくなったり、新しくて便利な商品やサービスが現れて生活が変わったりします。

 社会が変わり、個人の生活が変わり、古いものを捨てて次々に新しいもの買う。

 世の中の変化に応じて大勢の人がたくさんの物を買うから、生産が追い付かないほどの巨大な需要が生まれ、大量の消費によってお金が回って好景気になります。

 しかし、この好景気はいつまでも続きません。

 社会の変化も、生活の変化も、やがては変化の過程から変化後の日常へと移行します。

 交通網の整備も新たな人や物の流通から、交通機関があることを前提にした日常になります。

 便利な商品も、行き渡ってしまえば後は壊れた時の買い替え需要のみになります。

 社会の変化に伴う経済成長は、変化が落ち着けば終わります。

 爆発的な需要の増加が無くなれば、需要を超える過剰な供給能力が残ります。

 すると、非情な市場原理によって不況になります。

 今の世の中、好況と不況を繰り返しているのではありません。

 本質的に不況に向かう社会構造ができていて、世の中が変化したりバブルが発生した時に一時的に好景気が存在するだけです。

 近年、世の中の変化が激しいのも、イノベーションがやたらと叫ばれるのも、古いものをどんどん捨てて新しいものをガンガン売り出さないと好景気を作り出せないからです。

 異世界転移/転生もので現代の知識を利用して内政チートを行う話は多いですが、今の経済の常識を以て経済政策を行っても失敗する危険が大きいと思います。

 今の世の中は需要を大きく上回る供給能力があり労働力が余っているからこそ、需要を喚起するだけで経済が好転します。

 しかし、需要と供給がトントンのところに需要だけを増大させたらどんな弊害が起こるか分かりません。

 例えば、経済活性化のために公共事業を乱発したら、農家の働き手をそちらに取られて食糧不足が発生する可能性もあります。


 諸悪の根源は、お金さえ出せばたいがいのものは手に入る代わりに、お金が無ければ生きていくことすら困難な今の世の中の仕組みにあります。

 何をするにもお金が必要になった結果、短絡的に目先の利益を優先するようになりました。

 貧困者に必要なのは今日を生きるお金であり、「来年になればもうかる」話は余裕ができた後のことです。

 崖っぷちの企業に重要なのは今期を乗り切る利益であり、十年先の利益に投資する前に倒産したらそれまでです。

 しかし、目先の利益に固執していれば、様々な問題が発生します。

 例えば林業は本来百年先を見据えて行う仕事です。孫とかひ孫の代に切り出す木を育てているのです。

 これを、売れるからと言ってジャンジャン伐採して行ったらたちまちはげ山が出来上がってしまいます。すると孫の代で困るだけでなく、土砂崩れが起こりやすくなったり、森林の保水能力を失って水害や渇水が起こりやすくなります。

 木の根が押さえ込んでいた土砂が流されないようにコンクリで固めたり、川が氾濫しないように高い堤防を作ったり、雨水を調整するためにダムを作ったり、それでも対応しきれずに災害が発生したり。

 目先の利益に囚われたあまり却って高くつくことも十分に考えられます。

 戦時中に木材を伐採しまくってできたはげ山に、戦後に頑張って植樹して花粉症を引き起こした杉などの木がそろそろ木材として利用できる頃合いなのだそうです。

 しかし、はげ山とまではいかなくても、一定範囲をまとめて伐採して一度にたくさんの木を切り出すことがよく行われているそうです。

 ゲリラ豪雨とか線状降水帯とか、異常な気象による水害も増えてきている昨今、目先の利益を優先して被害を拡大しないか心配です。

 別に百年後の子孫や近隣住民を困らせたいわけでも、どれだけ被害が出ても金儲けしたい業突く張りというわけでもないでしょう(そういう人もいるかもしれませんが)。

 今の世の中木を切るにも切り倒した木を運ぶのにも機械を使い、燃料費などの経費が掛かります。経費を支払い利益を出すにはそれなりの量を売る必要があります。

 しっかりと利益を出さないと生活ができなかったり、仕事を続けられなかったりするのです。

 長い目で見ればそうした方が良いと分かっていても、そこまで待てない。世の中の変化が速くなればなおさらです。

 社会全体を考えればそうした方が良いと思っても、自分(達)だけが負担するのは納得できない。金額が大きくなれば余計にです。


 今の世界を支配しているのは経済です。

 それも、どこかの陰謀論にありがちな、経済を牛耳る黒幕がいて世界を支配しているわけではありません。

 実体も意思もなく、目的すら持たない経済という怪物が、人々の生活に様々な影響を及ぼしています。

 経済という化け物を制すことは困難です。

 近年はグローバル化によって経済は国境を越えて大きくつながることになりました。

 下手な弱小国の国家予算よりも大きな金額が、複数の国にまたがって動くのです。たとえ国が動いても経済を抑え込めるはずがありません。

 計画経済を行う社会主義国でも経済をコントロールすることは不可能です。

 国内の経済はまだしも、他国と貿易を行えば市場原理の影響を免れません。国内の経済についても完全に制御することはできないでしょう。

 以前、北朝鮮でチョコパイが通貨の代わりになっているというニュースが流れたことがあります。国家の統制する経済とは別個の経済が民間に出来上がっていることは間違いありません。


 国とか大企業とか言った大きな話だけではなく、一般消費者の心理にまでその影響は及んでいます。

 金を稼がなければならない。損をしてはならない。そんな価値観が多くの人に染みついています。

 ポイントを得るために余計な買い物をしたことはありませんか?

 期間限定とかタイムセールとかで安売りしていると、ついつい不要なものまで買ってしまったことはありませんか?

 政策に対して、ただのバラマキ政策だ、無駄遣いだと非難する人も、実際に施行されて給付金なり補助金なりをもらえるならば、とりあえず受け取る人が多いでしょう。

 そこで自分の信念に従い、頑として受け取りを拒否すると、よほどの頑固者、ひねくれ者として変人扱いされるのではないでしょうか。

 還付金詐欺などは、心当たりのない還付金でも貰えるならば受け取らなければならないという心理を突いてくる犯罪です。

 「慈善事業じゃないんだから」という台詞を実際に言ったことのある人はいますか? 今の世の中は慈善事業という大義名分がない限り、無料で人助けすることは悪という認識なのです。

 お金よりも大切なものを説く人は大勢いますが、お金が無ければ生きていけない以上、最低限の生活費は必要です。

 そして今日生きるためのお金、あるいは次の給料日までの一ヶ月を生き延びるためのお金があるだけでは不十分です。

 病気や怪我で突現働けなくなったらどうするか? 保険に入っていても手続きをしなければ保険金は下りず、病気や怪我の内容によってはすぐに手続きをする余裕もないかも知れません。

 生活に必要な耐久消費財が突然故障したら? 事故や自然災害で家に住めなくなったら?

 普通に生活していても、結婚した、子供ができた、子供が進学した、就職した、結婚した、親が要介護になった、自分の老後はどうする? 等々、様々な場面でお金が必要になり、無いと困ったことになります。

 様々な場合を想定すれば、お金はいくらでも必要になります。だから頑張って稼ぎ、必死になって節約して、少しでも多く貯め込もうとします。

 しかも世の中の変化が激しいため、「先祖代々こうやって生きて来た」が通用しないどころか、「親の世代はこのくらい頑張れば十分だった」すらも参考になるか怪しいのです。

 なおさら必死になって働かなければなりません。

 ところで、先に述べたとおり、世の中の変化が激しいのは経済を活性化させて景気を向上しなければならないからです。

 つまり、経済の都合で経済(お金)最優先の生活を強いられることになっているのです。

 この状況から脱することは難しいでしょう。

 お金を必要とする人々が集まってできた社会は、お金を必要とする社会になります。

 人がお金が無いと生きていけないように、企業は利益を出し続けなければ倒産します。

 お金が無いと企業や多くの人を動かすことができない以上、政府や地方自治体もお金が無ければ効果的な政策を実施することができません。

 こうして、個人から国まで経済に依存し、経済に振り回される社会になるのです。


 市場原理は社会の問題を解決してはくれません。たまたま解決してくれた問題はあっても、市場に任せていては悪化する一方の問題も必ず残ります。

 民間に任せておけないことは、国や地方自治体がどうにかする必要がありますが、巨大化した経済が足を引っ張ることになります。

 どのような政策を行うにしても、経済への影響を無視することはできません。

 例えば、地球温暖化の問題についても、中国に抜かれるまで最大のCO2排出国だったアメリカは、エネルギー産業を中心につい最近まで「地球温暖化なんて嘘だ」などと主張していたわけです。

 結果、アメリカは経済発展を優先して環境問題から目をそらしました。政治的思惑から進化論を否定した旧ソ連を笑えません。

 最悪全人類が滅びかねない環境問題よりも、自国の経済の方が優先されてしまったのです。

 新型コロナウイルス対策でも、感染対策と経済対策を同時に進める必要がありました。

 多くの国で、国の借金が増えて将来的に困ることが明白であっても、給付金などのお金をばらまく政策を実施しました。

 たとえ病気に罹ることは防げても、仕事ができずに収入が途絶えてしまえば食っていくことができなくなるからです。

 日本でも個人や企業向けの各種給付金に、コロナ禍で収益の落ちた企業への貸付制度、大打撃を受けた観光産業や外食産業の復興を促すためのGo Toキャンペーンなど色々とやっています。

 特にGo To トラベルキャンペーンなどは感染対策と相反する政策です。コロナ禍が終息したらダメージを受けた業界にテコ入れするつもりが、キャンペーンを始める前に感染が再拡大して混乱を生じました。

 さっさと流行を終息させて損害を被った業界を復旧させようとする経済重視の皮算用が外れてあたふたした感じです。

 一方で、国によっては衛生状態の悪い貧困層で感染が広がるような事態も発生しました。

 経済をどうにかしないと疫病対策すらまともにできない場合もあるのです。

 他にも、世の中の役に立つ、世の中の問題を解決できる新製品が開発されたというニュースはよく耳にします。しかし、あとはコストの問題だけ、で終わって一向に普及しないことも珍しくありません。

 地域の住民が協力して画期的な取り組みが行われた事例が紹介されることもありますが、素晴らしい取り組みでも全国に波及することなくいつの間にか話題に上らなくなることもよくあります。経済的なメリットが無いとなかなか広まらないことも多いのです。

 世の中の問題を解決する技術や手法が、経済的な理由で普及を阻まれているのです。

 無農薬で作られた農作物とか、人権問題に配慮したフェアトレード、環境に優しいと謳われる各所商品など、多少割高でも売れている商品はあるでしょう。

 しかしこれらの商品も、「健康に良さそう」「人権に配慮した」「環境に優しい」という付加価値を売っているのです。

 その付加価値も商品の一面を強調した売り文句であり、本質的な問題解決になっているかはまた別問題です。

 例えば「環境に優しい」商品ならばどれだけ大量に消費しても環境問題は起こらない、などと言うことはありません。「ダイエット効果のあるサプリを飲んだからと油断して却って体重が増えた」みたいなことも起こりえるのです。

 それから、クリーンディーゼル車の不正問題を憶えていますか? 排ガス規制と性能の両立ができずに、ヨーロッパの名だたる自動車メーカーが不正に手を染めました。

 利益を優先すると、このような不正行為や、法律や規制の穴をすり抜けるような行為が必ず行われます。

 それに、社会の問題に対処する付加価値を買えるのは、ある程度お金に余裕のある人です。

 今日を生きる金にも不自由している貧困層や、貧困層に落ちることを危惧して必死に節約して遣り繰りしている人には、余計なものを買う余裕はありません。

 だからなおのこと経済を活性化して好景気を生み出さなければならない、と思うかもしれません。

 しかし、今ある問題の多くは経済活動によって生まれています。

 農作物の残留農薬が問題になったのは、害虫退治に農薬をガンガン使うようになったから。農業の効率化と大量生産の産物です。

 人権問題は昔からありましたが、フェアトレードとして商品の売買関わるようになったのは、コスト低減のために安く買いたたく労働力を利用するようになったからです。

 公害や環境問題は、作れば売れる好況時に資源やエネルギーをガンガンつぎ込んだ結果の副産物です。


 正直、私は今の社会の未来について、悲観的に見ています。

 世の中の様々な問題をどうにか解決して今の社会が生き延びたとしても、必ず不況に向かう社会構造は残ります。

 この先何度でも不況は発生します。

 グローバル化によって世界が繋がってしまった以上、世界中が連鎖的に経済危機に陥る大恐慌だって起こるでしょう。

 特に格差が広がり、貧困層を切り捨てるようになったら要注意です。

 貧困層が経済的に脱落していくにつれて市場が縮小し、どんどん景気が悪くなるデフレスパイラルが発生します。

 こうなると富裕層も安心できません。目に見えて収入が減っていくのですから。

 金に余裕のある富裕層までも守りに入ったら、この流れはもう止められません。

 最悪、過剰な供給能力が失われるまで経済が縮小します。

 もう一つの可能性として、何とかして好景気を維持し続けた場合、資源が枯渇するのではないかと考えています。

 好景気の時はとにかく物が売れて消費が増えます。どうしても資源とエネルギーの消費が激しくなります。

 最近ではメタバース等、仮想空間の中でのコンテンツを販売するような商売も出てきていますが、それでもエネルギーは消費しますし、インフラの維持拡張に資源を消費します。

 エネルギーが尽きれば、過剰な供給能力そのものが失われます。

 CO2削減のた再エネの推進も行われていますが、未だに石油石炭天然ガスは使われ続けています。

 天然のエネルギー資源が完全に枯渇とまでいかなくても、極端に利用が制限されてしまうと、あらゆる生産設備の運用コストが跳ね上がります。現に、ウクライナ情勢に関連してロシアからの輸入が不安定になるだけで様々な物の値段が上がっています。

 エネルギー不足である工場が生産を停止すると、その工場で生産していた部品や道具を利用していた別の工場も操業が困難になります。

 設備投資の経済効果の逆みたいなもので、連鎖的に物の生産が滞ることになります。

 インフレが進み、どれだけ働いてお金を稼いでも生活必需品を購入できなくなった辺りで、社会ごと経済も破綻するでしょう。

 私の予想する今の経済の終焉は、全世界を巻き込んだデフレスパイラルか、資源が枯渇してハイパーインフレになるかどちらかです。

 どちらにしても、現代文明を巻き込んで破滅するでしょう。

 まあ、経済からあぶれた貧困層がどこかで自給自足にチャレンジするだろうから、多大な犠牲を出しても人類滅亡まではいかないと思いますが。


 かつて、産業用ロボットによって仕事が奪われると反対した労働者がいました。

 その危惧は正しかったのです。

 現代は、AIに人の仕事が取って代わられると心配する人がいます。

 それは間違いではありません。

 しかし、それだけではありません。

 創意工夫を凝らして作業を効率化するだけで人から仕事を奪い、労働の価値を下げることになります。

 例えば、作業を効率化して一つの製品を半分の時間で作れるようになったとします。すると、時給で働いている労働者は同じだけの製品を作っても賃金が半分になってしまうということです。

 働いている本人は気が付かないかもしれません。同じ時間働いて倍の製品を作って同じ給料をもらっているだけですから。コストが下がって売り上げが伸びたり利益が増えたりして会社が儲かればボーナスも増えるかもしれません。

 しかし、不況になったり、製品が普及しきった結果売り上げが頭打ちになると状況は変わります。

 売れる数以上の製品を作っても無駄。業績が悪化すれば遊んでいる社員は解雇するしかなくなります。

 この際、効率化によって製品を作る作業に必要な人員は半分になっているわけです。効率化によって、仕事が奪われた人が確実に発生しています。

 景気の良いときは効率化してどんどん売り上げを伸ばし、売り上げが伸び悩むときはコストを削減して利益を確保する。効率化とか生産性の向上とかは無条件で良いことだと思いがちですが、それはどちらかと言えば経営者側の視点で、労働者側から見れば仕事を奪い失業率を押し上げる要因になっています。

 業務の効率化、生産性の向上は、労働の価値を低下させ、長時間労働を強いたり、失業者の増加を招いたりします。

 実際に、OA機器とかパソコンとか、便利な道具を導入して仕事が楽になるはずが、その結果仕事の量が増えて前よりも忙しくなったという経験をした人も大勢いるのではないでしょうか。

 プロは技術の安売りをしてはいけない、とよく言いますが、プロの労働者は効率化という形で労働力の安売りをしてしまっているのが現状です。

 本当ならば、効率化して、あるいはロボットやAIに任せて余った時間は、仕事を休めばよかったのでしょう。

 そうすればケインズ氏の予見した余暇を有意義に過ごすことに頭を悩ませる世界になったかもしれません。

 しかし、そうはなりませんでした。

 企業にとって利益を上げることは使命です。特に景気の良いときは利益を上げる=社会に貢献する=正義です。

 景気の悪い時には利益が上がらない=自由競争に負けて淘汰される運命です。

 過酷な経済的自由競争は、多くの新しいもの、素晴らしいものを生み出してきました。反面、様々な問題と未来への不安を作り続けています。

 暴走する経済は国でも押さえ込めません。むしろ、自国の利益を優先するために却って問題を拡大してしまう国も出ることでしょう。

 世界中の人々の良識に訴えて意識改革をしようとしても、たぶん無理です。

 負ければ命に関わりかねないデスゲームで、本気で自分を蹴落としにかかって来るライバルもいる中、目の前の勝ち筋を捨てて全てのプレーヤーのために最善を尽くせる人がどれだけいるでしょうか?


 今の社会の大きな問題の根本には過剰な供給能力による需給の不整合があると考えましたが、これを是正することは非常に困難です。

 たぶん、社会的には需要に供給がちょっとだけ追いついていない、くらいの状態がちょうど良いのだと思います。物が不足しても死ぬほど深刻ではなく、頑張って働けばその分報われます。

 しかし、需要を無理やり喚起しても一時的なものに過ぎず、好況時は資源とエネルギーを浪費します。

 逆に供給を減らすことも無理です。働かなくては生きていけません。

 技術を後退させ、生産性を引き下げて雇用を確保するという方法も無理でしょう。生産性を高めれば勝てるのに抜け駆けしないはずがあませんし、単純に技術レベルが産業革命前まで後退すれば大量の死者が出るでしょう。

 ならばいっそ、全ての問題を解決できるところまで技術を進めるしかないのではないか?

 そう考えたところで、「働かなくてよい世界」と結びつきました。

 人々が経済の支配から逃れられないのは、お金を稼がなければ生きていけないからです。

 だったら、お金を稼がなくても生きて行けるようになれば、経済の都合に振り回されずに済みます。

 一人二人ではなく、国民全体が経済と関わらずに生きていけるならば、国としても経済に遠慮することなく必要な政策を行うことができます。

 良いこと尽くしではないでしょうか。

 もちろん、簡単に実現するものではありません。

 技術的にもいくつもの壁がありますし、いざ実現しようとすれば少なくとも最初は経済的な問題があるでしょうし、政治的な課題も色々と出て来るでしょう。

 無人システムの安全性を検証するのにも時間がかかるでしょう。

 けれども、私には今の経済は破滅に向かうチキンレースを強いているように思えるのです。

 暴れる経済を騙し騙し破局を先延ばしし続けるよりも、経済と生活を切り離した「働かなくてよい世界」を目指すのも一つの方法ではないでしょうか。


 まあ、元々は「やりたくもない仕事をしたくね~!」が本音なのですけれどね。


この連載はこれで完結となります。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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