二章・異変の兆候(2)
──ところかわって、浮草 雨楽の世界。
『……』
レインは無言のまま浮草家の廊下に佇んでいた。
あれから一週間経つ。雨楽はまだ二度目に挑戦しようとしない。それはそれで彼の寿命が延びているということだから、彼女は気長に待ち続けていた。そもそも人ならぬAIである彼女にとって時間の長短による苦痛は存在しない。何十年待ち続けることになっても一向に構わないのだ。彼女自身はまだ誕生してから五年ほどだが、自殺防止プログラムの履歴にはそれ以上の長期に及んだ案件も記録されている。
自死を防ぐ。その目的さえ達成されていれば良い。ネットワークの創設者はそう考えたらしい。だから二度目以降の跳躍には本人の承諾が要る。
対象者には開示されない情報だが、この自殺防止プログラムは三段階に分かれている。
最初の段階では理不尽な死を体験させ、死への恐怖を植え付ける。よってこの時点では本人の意思確認など必要無く、むしろ強制的な跳躍こそが望ましい。
二度目と三度目は対象者に自身の秘めたる可能性を探ってもらう段階だ。それぞれ違うアプローチを行い、才能の開花や精神的な成長を促して意識の変革を起こす。
もし、この三度の跳躍でも自殺願望を取り除くことができなかったなら──その時には、以前雨楽に説明した通りプログラムは終了となる。
そして自殺防止プログラムと異世界に関する一切の記憶を消去し、後は対象者の意志に委ねる。場合によってはそれでも思い直して死を回避してくれるかもしれないし、結局はカッターで手首を切ってしまうかもしれない。
自分で決める。それが大事。
レインボウ・ネットワークの創設者は自由意志を愛していた。直接面識があるわけではないが、ネットワーク上に残されたわずかな情報から彼女はそう読み取った。創設者は人の意志が他者の介入によって曲げられることを嫌っていたと。
だから少しでも自死する者を減らしたいと考えつつ、反面、自殺防止プログラムの跳躍回数には制限を設定した。三度のチャンスを蹴って、それでも死にたいと願う者達は望み通り死なせてやろうと。悲しいが、それが彼等の決めたことならばと。
(雨楽様はどちらを選ぶでしょうね)
先日のあの悲惨な死を体験した後でも、やはり彼の中の自殺願望は消えていない。この世界の現在の社会は、彼のような人間には“死に”辛いのに。
安全すぎるからだ。他の、もっと過酷な世界でなら弱者は簡単に淘汰される。けれども日本の社会は、そんな弱者まで救おうとしてしまう。だから死に辛いし生き辛い。ここで死にたければ自ら命を絶つのが最も手っ取り早く確実な方法。いや、それ以外が難しいと言うべきか。
(さて、今日のお客様は、彼にどのような影響を与えてくれるでしょうか?)
何も自殺防止プログラムだけが自死を抑止する力ではない。むしろ、基本は人と人との繋がりだろう。
あの青年は自らそれを断ち切って生きて来た。だとしても、まだ残された絆がいくつかある。今、その中の一つが浮草家を訪れていた。
「駄目ね」
雨楽の描いた数点のスケッチ画に目を走らせ、彼女は即座にそう切り捨てた。
黒いスーツ姿で髪型はボブカット。怜悧な眼差しに加え、全体的に日本刀のような鋭い印象を抱かせる美女。
名は、鏡矢 雫。
雨楽の母・静流の従妹にあたる人物で、まだ三十代前半ながら日本有数の大企業“カガミヤ”を率いる女傑。ただし雨楽にしてみれば幼い頃に良く面倒を見てもらった人と言う方がしっくり来る。当時の彼女は高校生だった。
後に知ったところによると父親との折り合いが悪く、実家にはいたくない時期があったらしい。逆に叔父に当たる母の父や、母が嫁いだ浮草家との関係は良好。特に雨楽の誕生から数年間は学業もそっちのけで通って来ていたそうだ。
(懐かしい……)
雫自身、その当時の記憶を思い返していた。彼女にとって雨楽は甥っ子も同然。とても可愛がっている。だが、だからこそキッパリと言う。
「こんな絵は売れやしない。この程度のものしか描けないなら今すぐ筆を折って他の道を探しなさい」
「──ッ」
「ま、待ってくれ雫ちゃん」
息子が委縮するのを見て、慌てて割って入ったのは父の響次郎だった。
「もう一度よく見てやってくれよ。けっこうよく描けてるだろ?」
「たしかに技術はそれなりに高い。まるで写真のようだわ」
コーヒーを飲みながら頷く雫。目の前のテーブルに置かれたスケッチはどれも写実的で繊細なタッチだ。とてもリアルに見える。
「なら……」
「でも、写真のような絵を描くくらいなら写真を撮ればいいのよ。買い手だってそう思う。そんなことはカメラマンの義兄さんが一番よくわかっているでしょう?」
「うっ……」
至極その通りなので言葉に詰まる。自覚はあるのだ、息子に甘いと。だから同じ想いを抱きつつ、今まで一度も言ってやることが出来なかった。これでは駄目だの一言を。
「雫」
代わりに反論したのは、雨楽の母であり、雫にとっては従姉の静流。
「それだけじゃ、この子には伝わらないわ。もう少し丁寧に教えてあげて」
「そうね、ごめん姉さん」
ささやかに謝罪する雫。本来それは親である貴女達の役目ではないか──などとは言わなかった。一人息子が突然登校拒否を始めて引きこもりになって以来、姉とその夫がどれだけ心を痛めて葛藤して来たかは知っている。
雨楽はこの十年、一歩も家から出ていない。カウンセラーを呼んでも目を合わせられず、一部の人間以外とは会話もままならない。もはや軽々しく親の責任を問えるような単純な問題ではなくなっている。
わかりやすく丁寧に。心がけてもう一度、雨楽を見つめる。思えば彼は小学生の時から成長が止まっているような状態。そこを考慮してやらねばならなかった。
可愛い甥っ子のような存在は、説教されて涙ぐみ、それでも黙って耳を傾けようとしている。逃げ出さないだけマシだろう。現状を変えたいという意志がある証拠。昔から人の話はきちんと聞く子供だった。
わざとらしく嘆息して、質問を投げかける。
「雨楽……貴方は自分の絵で何を伝えたいの? ここにあるのは、どれもこれも目の前にあるものを見たまま描いただけに見える。何も心情が伝わって来ない。
絵というものに技術を求める人達も、たしかにいる。けれど、それだけでは駄目なのよ。他人は絵を通じて貴方の言葉を聞きたいの。絵だけじゃない。創作というものは全て同じだわ。写真だって小説だって、何かしら心に訴えかけて来るテーマが無ければ魅力は生じない。貴方の絵には、まだそれが欠けている」
原因は明らかだ。対人恐怖症。それしかない。
想いを相手に伝えるどころか、雨楽はずっと怯えて、隠れて、逃げ続けている。だからこそ作品に自分の心を乗せて代弁させようとする者もいる。ところが彼はそれすら恐れて避けてしまっている。自分の心を他者に明らかにしたくないのだ。
それでは芸術家にはなれない。
雫はしばし、言い返してくれることに期待して待った。けれど彼は何も言わず、じっと押し黙ったまま涙目で俯き、こちらを見ようともしない。
(私も嫌われてしまったかな……)
だから出来る限り、こんな嫌な役はやりたくなかった。それでも雨楽が立ち直ってくれたらと思って従姉と義兄の頼みを聞いたのだ。
「今回はここまでにしましょう」
彼女自身、暗澹とした気持ちで立ち上がる。
次の瞬間、予想外の展開になった。
「探して、みます……」
雨楽もそう言って立ち上がったのだ。そして、涙を拭いながら部屋を出て行く。
「雨楽、待ちなさい!?」
驚いて一瞬固まってしまった静流が、慌てて息子を呼び戻そうとする。けれど雫は手で制した。
「いいよ、姉さん」
「でも」
「いや、本当にいいんだ」
雫は小さく笑った。あのまま本当に黙って別れてしまうことになるよりかは、この方が何倍もいい。
「まだガッツは残っているらしい」
探してみるというのは、そういう意味だろう。あれだけ切って捨てられても、彼はまだ絵を描くことを諦めていない。その事実がとても嬉しかった。
「せっかく来てもらったのに、息子が失礼しました」
律義に頭を下げる響次郎。そんな彼にも小さく手を振り「気にしないで」と言いながら廊下へ出る。
「ん?」
「どうしたの?」
「いや……」
何か妙な気配を感じたのだが、特に何も見当たらない。
だが、しかし、見えなくても──いる。
雫は、しばらく気配の発生源を静かに見据えていた。奇妙な行動に出た彼女を訝しむ浮草夫妻。
けれど彼女は、不意に視線を外し、玄関へ向かう。
「なんでもない。悪いものではなさそうだ」
「それって、まさか……」
静流は知っていた。夫にも話したことはないけれど、彼女の父の実家“鏡矢”は、明治の頃まで優秀な“退魔”の家系として知られていたと。
(何者かは知らないが悪意は感じない。雨楽にとってプラスに働くかもしれん)
当代の鏡矢家当主は直感に従い、そう結論付ける。
外に出ると、ごく普通の住宅街には似つかわしくない黒塗りの高級車が──なんてことは無い。
雫は家の前に停めてあったレーサー仕様のバイクに跨り、赤いヘルメットを被る。彼女は自分の乗る乗り物は自ら運転しないと気が済まない性分なのだ。
実用性の面でも、こちらの方が都合が良い。
「それじゃあ行く。悪いことは起きないと思うけど、一応、何かあったら呼んで」
「わかった。今日は来てくれてありがとう」
「姉さん達の頼みだし、雨楽のことも可愛いからね」
「呼ばれなくても、またいつでも来てくれよ」
「ありがとう。でも忙しくて、なかなか都合がつかなくてさ」
「あの雫ちゃんが今や社長さんだもんな……」
「家業なんて継ぐもんじゃないね。兄弟でもいたら譲ったんだけど」
──まあ、それでもと彼女は手の平を見つめ、内心で一人ごちる。
それでも結局、当主の座は自分のものになったんだろう。なにせ鏡矢家では、ある条件を満たした人間が即座にその瞬間から新たな当主になってしまうのだから。
「それじゃあまたね」
「うん、また」
「またな」
浮草家を離れた後、会社に向かって愛車を走らせていたら秘書から連絡が入った。ヘルメットに内蔵されたヘッドセットで応答する。
「なに?」
『社長、また“霧の獣”が出ました!』
「わかった、位置情報を転送して」
『はい!』
ナビに座標が送られて来る。ここからそう遠くない地点。今回は港か。やはりあれらは水場に現れやすいらしい。
霧の獣──それは最近よく出没する正体不明の怪物共の総称。放っておいても十分間で自然消滅すると判明したが、だからといって気長にタイムリミットを待つことはできない。奴らは無差別に人を襲い、命を奪う。
『警察には話を通しました。飛ばして下さい』
「よくやった」
遠慮なくスピードを上げ、車と車の間をすり抜ける。信号も完全に無視。しかし彼女の姿を目にした警官達は誰一人その後を追おうとしない。
やがて雫が辿り着いたのは大きな貨物船が停泊している埠頭だった。その貨物船の上で何かが暴れ回り、コンテナや船員達を次々に海へ叩き落としている。警官達もすでに到着済み。とはいえ落とされた人々の救出作業で手一杯なようだ。
それでいい。素人に手を出されると余計な被害が増える。
「おい、こっちだ」
『ッ!?』
殺気を叩き付けてやると、その何かは敏感に察知して動きを止めた。戦車並の巨大な蛙と見える。表皮を硬い鱗で覆い、後ろ足に大きなヒレをつけた、なんとも言い難い奇妙な生物。鱗の色は毒々しい紫で、黄色い線が無数の渦巻き状の模様を描いていている。
その初めて見る生物は彼女を“脅威”と認識したようだ。だったら逃げればいいものを、貨物船から飛び降りて跳ねながら迫って来る。
やる気か、なら仕方ない。顔を見られたくない彼女は、ヘルメットを被ったまま右手を前に突き出した。
途端、握った拳の中から“灰色の炎”が噴出して長剣を形作る。その炎を見た装甲蛙は慌てて足を止めた。
もう遅い。
雫はバイクを走らせ、怪物の横を駆け抜ける。次の瞬間、その巨体は真っ二つになって銀色の霧か煙のようなものと化し、拡散した。
「またか……」
こいつらを倒すといつもこうだ。死体は残らない。時間経過による自然消滅を待ってもやはり同じ。だから一向に謎を解明できない。
それでもわかったことはいくつかある。発生地点は水場が多い。人間のいる場所で特に発生しやすい。十分経つと自然消滅する。
そして──
「だんだんと……大型化してきている」
最初の頃はネズミ程度の小さな生物ばかりだった。それが少しずつ大きくなり、今では戦車並の巨体に。
「いったい何が起きてるんだ……?」
首を傾げつつ、彼女は再び走り出す。面倒な後始末は警察に任せる契約。それに自分はそろそろ本業へ戻らないと。十五時から新型携帯端末の広報イベントに出席する予定。社長業に化け物退治にと最近は本当に忙しい。
「まったく……“鬼倭番”なんてとっくの昔に解散したってのに、いつまでうちの一族がこんなことをしなくちゃいけないんだか。てか夏流の連中はどこ行ったのよ!?」
『あの一族は自由人の集まりですからね……あ、自由鬼か』
「どっちでもいいわ」
働け! と、ここにはいない連中を罵倒した。