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一章・初めての死の後で

 浮草(うきくさ) 雨楽(うがく)の朝は早い。

 毎朝五時に起床。手早く身支度を整え炊事や洗濯などの家事を始める。六時頃になると母・浮草 静流(しずる)が降りて来て息子の作った朝食を摂る。

 体力の要る仕事なので母は朝からしっかり食べる。今日もあっというまに一杯目のご飯を平らげ、自分で二杯目をよそいながら問いかけた。

「雨楽、昨夜誰かと話してなかった?」

「え? ううん……」

「そう……まあ、たしかに寝てたしね……」

 昨夜のことを思い出しているのか、どこか釈然としない様子。どうやら意識があの世界へ飛ばされていた時、物音に気付いて様子を見に来てくれたらしい。

「ていうかびっくりしたわよ、部屋の真ん中で倒れてるんだもの。近付いたら単に寝てるだけだってわかったんで安心したけど」

「うん……ごめん……」

 目を覚ました時にベッドで横になっていたのは、母が寝かせてくれたからだったようだ。親が看護師で良かった。でないと救急車まで呼ばれてしまっていたかもしれない。

「転んで頭でも打った?」

「ううん……床に座って考え事してたら、そのまま眠っちゃっただけ……」

「疲れてるの? あんまり無理しないようにね。あなた病院にも行けないんだから……」

「うん」

「何か問題があるなら、ちゃんと母さんか父さんに言うのよ」

「うん」

 表情からまだ怪しまれていることは察せられたが、下手な言い訳をして藪蛇を突くのも嫌なので、雨楽はそれきり沈黙する。母も疑惑の眼差しをこちらに向けつつ、以降は黙々と食事を続けた。

 両親に昨夜のことを相談しても頭がおかしくなったと思われるだけだろう。だから結局、何も言えない。


 七時二〇分、出勤する母を玄関で見送る。


「じゃ、行ってくるわね」

「いってらっしゃい」

「戸締り、ちゃんとしときなさいね」

 母は市内の大きな病院に勤めている。たまに帰りが遅くなることもあるからか、彼には毎日同じ注意をしていた。

「うん……」

 息子が頷いたのを確認して、ようやく外へ出る彼女。去り際に小さくため息をついた気がする。二十歳にもなって就職活動もせず家に引きこもっている息子のことを内心嘆いているのだろう。けれども怖くて確かめることは出来ない。

 言われた通りすぐに玄関の鍵をかけた雨楽は、その足で洗濯機の前まで移動した。洗い終わったばかりの洗濯物を引っ張り出しカゴに入れる。それを二階まで運んで物干し台に立つと新鮮な外気が美味しかった。引きこもりの彼にとって洗濯物を干す時間と取り込む時間の合計数分間は貴重な日光を浴びる機会なのだ。

 ただ、二人分の洗濯物しかなく、今日の作業はすぐに終わってしまった。カメラマンの父は沖縄へ出張中。今夜帰って来る予定だから明日は洗い物が多いだろう。

 ふう、と溜息をついて家の中に戻る。それを見つめるいくつかの視線。

(今日は短かったな……)

 出勤中のサラリーマン・安永 孝太郎は残念そうに頭を振って駅へ向かった。

(お姉さん、今日も悲しそう……)

 登校中の小学生・石動 久里亜は何度も振り返りながら通学路を歩く。

(ハァ……今日も眼福眼福。やっぱり綺麗だなあ、あの人)

 部活の朝練中、毎日ここを通りがかる女子高生の武井 胡桃は満足感を抱き走り去った。よくこの時間帯にすれ違う以外に全く面識の無いこの三人は、偶然にも雨楽を同じ愛称で呼んでいる。


“浮草さん家のラプンツェル”


 引きこもりで理容室に行けず伸び放題の髪。女性にしか見えない容姿。そして朝夕同じ時間帯にだけ二階の物干し台に現れる姿が童話の髪長姫を連想させるからだ。

 ちなみに彼等は雨楽が男性であることを知らない。

「……ハァ」

 例外的にその事実を知る青年が一人、自転車で浮草家の前を通り過ぎた。自分の後ろ姿を追う別の視線があったことには、気が付かぬまま。




『世界が変われば人も変わる……なるほど、こちらではこういう関係ですか』

「え?」

 AIメイドのレインさんが何か言っていた。でも窓の外を見ていた彼女は、左右に頭を振りつつ振り返る。

『いえ、なんでもありません。ところで雨楽様、本日の家事は終了ですね?』

「はい、一応……」

 掃除も洗濯も毎日しているのですぐに終わってしまう。なので数時間後にあの洗濯物が乾くまでは自由時間。

『では異世界に』

「いっ、行きません!」

 食い気味に拒絶する雨楽。その脳裏には昨夜の記憶が蘇った。

「うっ──」

 吐き気を催してトイレに駆け込む。便器を抱え込むようにして胃の中身を全部中にぶちまけた。ほとんど何も無かったけれど。母がいる間にはなるべく表に出さないようにしていたが、実はこれで今日三回目の嘔吐である。

『大丈夫ですか?』

「も、もういいでしょう? 僕、二度と死のうなんて考えませんよ……」

 死ぬ瞬間の苦痛、恐怖、絶望感を味わったばかり。当然自殺願望なんて消え去っている。彼は本心からそう思って言った。

 けれど口元をペーパーで拭いながら振り返った彼に対し、レインは穏やかな表情のまま再び頭を振ってみせる。

『わたくしに嘘は通じません、雨楽様』

「えっ……?」

『お忘れですか? あなたが見ているその姿は虚像。本当の私はあなたの脳内に存在しています。つまり記憶、感情、思考の全てが筒抜けの状態です。なので、わかっていますよ。あなたはまだ自らの死をお望みです』


 それこそ嘘だ──とは、言い返せなかった。


「……そう、ですね」

 素直に認める。死の恐怖を体験したとはいえ、それで自分の抱えている問題が解決したわけではない。人によってはあの体験に比べたら他人の視線なんか大したことじゃないと考え、過去のトラウマを吹っ切り、立ち直ることもできるのかもしれない。けれど自分はそうではなかった。

 今もまだ他人が怖い。家から一歩も出たくない。外を歩くことは自分にとって異世界で恐竜に喰われることと大差無い恐怖なのだと再認識した。

 だから一時的に死を拒絶していたとしても、結局のところこの対人恐怖症という根本的な問題を解決しない限り、再び自らの死を望んでしまう。指摘されたことで雨楽は誤魔化そうとしていた事実を直視する羽目になった。


『一つ誤解を解いておきましょう』


 言葉と同時に彼女の横に、落下して潰れて消えて、また落下してという動作を繰り返すデフォルメされたキャラクターのループアニメーションが表示された。趣味の悪いそれにトラウマを刺激され、また吐きそうになる。

 彼女は構わず説明を続けた。

『雨楽様は自殺防止プログラムをこう認識しておいでですね。死を望まなくなるまで繰り返し殺害される苦行だと。あながち間違ってもいないのですが、実際のところそれが全てではありません』

 今度は反対側の空間に、落下する最中に枝に掴まって助かり、崖をよじ登って無事生還するアニメが投影された。前者の上に×印、後者の上に〇印が同時に出現する。

『様々な世界で多様な苦難を体験していただくことにより成長を促し、困難に立ち向かう精神を育むことがこのプログラムの本来の意義です。必然的に過酷な状況に追い込まれるケースが多いため相応に死亡リスクも高いのですが、そのため精神だけで現地へ跳び、仮の肉体を操作するという転移方式を採用しています』


 だから、死んでも必ず生き返る。

 説明を聞いて雨楽はうなだれた。


「そんなの、ずるい気がします……」

 普通は人生なんて一度きり。死んでしまったら誰にもやり直す機会なんて与えられない。自分だけ、そんな特別扱いを受けてしまっていいのだろうか?

 彼のその考えにレインはまたしても微笑む。その優しい眼差しを見てやっと気が付いた。これは無知な幼子に向ける笑みなのだと。

『自ら公平な扱いを望む姿勢には感服いたします。ですが心配はいりません。最初に申し上げたように≪レインボウ・ネットワーク≫は全ての“意志を持つもの”と繋がっているのです』

「あっ」

 そうか、ということは──

『ご推察通り、自殺防止プログラムは自ら命を断とうとした生命全てに提供されています。それでも自殺者が発生してしまうのは、規定によってこのプログラムでの跳躍が三回までと定められているからですね』

「三回……」

 仏の顔も三度まで、という言葉を思い出した。自殺防止プログラムを組んだ神様も自分で自分を殺そうとする馬鹿な生き物を引き留めて説得してやるのはそこまで、と言いたいのかもしれない。

「なら……」

 雨楽は顔を上げ、決意の眼差しをレインに向ける。

「僕に残されたチャンスは、あと二回……ということですよね」

『はい』

 なるほど。最初の一回を無断で使われたことに、雨楽は別段腹を立てない。

 代わりにしばしらく考え込み、要求する。

「少し時間を下さい」

『かしこまりました』

 長いスカートを両手で摘み、丁寧にお辞儀するレイン。先程説明した通り、詳しく理由を語られずとも彼女には彼の意志が伝わっていた。


(準備しなきゃ)


 まだ二回ある。けれど、たった二回でしかない。ちゃんとした人間になれるよう神様がくれた最後のチャンス。これを活かせなければ自分の人生は本当におしまい。だから昨夜のように無駄に使いたくない。先に出来る限りの備えをしておきたい。

 自ら指針を定めた途端、昨夜の怯えた姿が嘘のように毅然とした表情になってしまった彼をレインは内心こう評する。

(流石は同じ血を引く方ですね)

 その評価は、ここにはいない主へネットワーク経由で伝えられた。




 翌日、疲れて昼近くまで眠っていた父と二人で昼食のうどんを食べていたところ玄関のインターホンが鳴った。

 びくりと肩を震わせた息子の代わりに、父が立ち上がってしまう。

「オレが出る」

「あ、でも」

 自分に届け物だと思う。そう言おうとした時には、すでに父は居間の外。雨楽はしゅんと肩を落として待機する。

 数分後、大きなダンボール箱を抱えた父が戻って来た。

「雨楽、宛名がお前になってるんだが、何か買ったのか?」

「う、うん」

「珍しいな。それに結構重いけど、なんなんだこれ?」

「え、えっと……絵を描く資料にって思って、色んなものを買ってみたんだ。いつも同じものばかり描いていたら上達できないだろうし……」

「なるほどな。じゃあ部屋の前に置いておくぞ」

「えっ? いや、僕が自分で」

「この重さは、お前にはちょっと無理だ」

「……」

 実際無理だろうなと細い腕を触って俯く彼。昨日の決意の後、身体も鍛えておくべきかと思って生まれて初めて筋トレをしてみた。ところが腕立ては一回で限界。腹筋は三回で起き上がれなくなった。

(道具は届いたけど、これじゃまだ無理だよね)

 頼り切りでは申し訳なく、階段を上がる父の背中に手をあてがい、一緒に二階まで移動する。上がり切ったところで横をすり抜け、先回りして自室のドアを開けた。

「ごめん、中に置いて。端っこでいいから」

「おう」

 要望通り部屋の端にダンボール箱を置いてくれる父。

「相変わらず綺麗にしてるな」

 感心した様子で室内を見回す彼の目を盗み、こっそり箱に手をかけてみた。持ち上げるどころか押して動かすことさえままならない。

(父さん、こんな重いもの持ってここまで来たの?)

 改めて見比べると父の腕は丸太で自分の腕はマッチ棒。それだけ顕著な差がある。親子なのにどうしてこんなに違うのか。母だって小柄で細腕に見えて看護師だからけっこうな力持ちなのに。

(僕も鍛えたら強くなれるのかな……)

「これ、一番新しい絵か?」

「あ、うん」

 机の上に開いたまま置いてあったスケッチブックに気が付き、目を留める父。描かれているのはあの異世界で見た二匹の恐竜。

「お前にしちゃ珍しいモチーフだな。いつもは静物画とか風景画なのに」

「たまには他のものだって描くよ」

「ふうん……しかし見覚えの無い恐竜だ。最近見つかった新種か? まあ近頃はオレらの世代が図鑑や映画で見て憧れていた恐竜達も実は羽毛が生えてたなんて説が有力になって、どんどん昔のイメージからかけ離れていってるみたいだけどな……」

「そ、それよりうどん、のびちゃうよ」

「あ、そうだな」

 食事中だったことを思い出し、居間に戻る二人。案の定のびてしまっていた麺を無念な表情で食べ切る。

 その後、雨楽が洗い物をしていたら父が言った。

「父さん、午後は出社するからな。それと、だな」

「なに?」

「母さんと相談したんだが、お前の絵、いっぺん(しずく)さんに見せてみないか?」

「雫さんに?」

 手を止め、振り返る雨楽。雫とは母の従妹に当たる人物で、世界的に有名な複合企業の女社長だ。

「小さい頃、お前彼女に懐いてただろ。あの人が相手ならそんなに緊張せず話せるんじゃないか? あちこち顔が利いて美術品にも詳しい。認めてもらえれば絵描きで食ってく足がかりになるかもしれんぞ」

「そっか……」

 一度も考えたことがなかった。でも、たしかにあの人が相手なら普通に会話できるかもしれない。母の従妹と言っても歳が離れていて、頻繁にこの家へ遊びに来ていた頃はまだ高校生だった。なので雨楽にとっては姉に近い存在である。

 彼女が今の彼と同じくらいの年齢の時、突然会社を継ぐことになって以来、双方の事情が重なって七年ほど会えていない。絵のことを抜きにしても会いたいと思う。

 コネを使うことに負い目を感じなくもない。けれど、自分にも他人にも厳しい性格の人なので身内の絵だからといって容赦はしないとも思う。駄目なら駄目とキッパリ評価してくれるはずだ。

「わかった、今度お願いしてみる」

「いや、実はもう母さんが話を通してあるんだ。そしたら『本人が望んだ場合だけこちらから会いに行く』って言われたそうだ」

「そう、なんだ……」

 対人恐怖症のことを知っているから、気を遣ってくれたんだろうなと察する。社長業で忙しいだろうに申し訳ない。

「あんまり気にするな。あの人はお前のことを可愛がってるからな。自分から会いに来るくらい特別なんとも思っちゃいねえよ」

「だったら、いいんだけど……」

 七年前、最後に会った時には激しく叱責された。今の体たらくを見たら絶対あの時よりも強く怒るだろう。

 両親以外では最も信頼出来る相手だけれど、それだけはどうしても不安だった。

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