序章・プログラム、開始(2)
母に酷似した極端な女顔。背はそれなりに高いが、体型は華奢で声変わりすらまだしていない。父のようなヒゲが生えることもなく、時折自分でも本当に男なのか疑ってしまう。成人してこれなのだから今後にも期待出来ないだろう。
なのに股間には明らかに男だと主張するものが生えていて、おかげで余計混乱して仕方ない。どうして自分は男なのか。外見上はどう見ても女なのに、いったい何故性別だけは男なのかと。
この見た目のせいで小学生の頃、親友を失い、対人恐怖症になって十年間の引きこもり生活。小学校もマトモに出ていない身で、なおかつ他人と会話するのもままならない自分が就職などできるはずはなく、これ以上両親に迷惑をかけたくないと思ったことが、先程自殺未遂に到った理由だ。
『たしかにお辛い境遇です。けれど、雨楽様は努力もしていらっしゃるではありませんか。まだ諦めるには早いのでは?』
「努力だなんて……」
学歴を問わず、かつ他人との接触を極力持たず働ける仕事はないかと考えた末、五年前から絵を描き始めた。イラストレーターや画家というものになれたらなと。
でも他人が怖くて家から出ることさえできない彼に描けるものは、身の回りの物と家族の姿だけ。風景画を描いてみたくとも、この部屋からは窓に切り取られた四角い景色しか見えず、外へ出て行く勇気は、いつまで経っても湧き上がらない。
それどころか絵を他人に見せたことさえ無い。画業なんて誰かに作品を認めてもらわなければなれるものではないと、頭ではわかっているのに。
現状を思い出したら、また死にたくなってきた。
「やっぱり、僕なんて死んだ方が……」
顔を隠した両手。指の隙間から涙が零れる。もうどうしようもない。どうせ自分なんか何をやったって駄目なんだ。脳内が後ろ向きな思考で満たされてしまい、他のことは一切考えられなくなる。
そんな彼を見つめ、メイド姿のサポートAIは語りかけた。
『浮草 雨楽様。あなたの人生をどうするか、決めていいのはあなた自身の意志だけです。他の誰にも決定権はありません。ですが、どうせ死ぬというのであれば、先に私に役目を果たさせてはいただけませんでしょうか?』
「……」
レインの言葉も今の雨楽には届かなかった。
けれど彼女は動じない。今までにもこんな状況は山ほど見て来た。そもそも彼女に人間のような感情は無い。創造主から与えられた使命に則り、現在の状況に適した行動を取るだけである。
誤解無きように言っておくが感情が無いわけではない。人間と同じそれではないという意味だ。人類から見た場合多少特異に思われる彼女の感情と思考は、現状に対する最適解として次のような結論を下す。
そんなに死にたいのなら、一度死なせてさしあげよう。
『目標並行世界座標特定。現地活動用模倣体構築完了。精神跳躍演算開始』
「え?」
レインの口からまたしてもわけのわからない言葉が流れるように紡ぎ出されたと思った次の瞬間、雨楽の身体も彼女と同じような発光を始める。
「な、なにこれ!? ま、待って、何をしてるんですか!?」
『七八%……八一%……八四%……』
彼の呼びかけに彼女は一切応じない。表情の消えた無機質な顔で淡々と何かの進行状況を読み上げ続ける。
「や、やめてください!」
危機感を覚えた雨楽は流石に自分の方から近寄って行った。けれど制止しようとして手を伸ばしても相手には触れられない。
(そうだ、これは映像なんだ)
本当のレインは自分の頭の中にいる。でも頭の中なんて立体映像以上に手の出しようがない。焦る間にも状況は進む。
『九七%……九九%……演算終了。カウントダウン開始。十、九、八、七……』
「や、やめて……やめてください……怖いです……!」
縋りつくように何度も手を伸ばし懇願を続けたものの、やはりカウントダウンは止まらなかった。そして結局何もできないまま、その時がやって来る。
『一、〇……雨楽様、良き旅を』
「た──」
び? と言おうとしたところで視界に映る全てが急速に縮んだ。かと思うと自分自身はどんどん大きくなっていくような奇妙な感覚に囚われる。
際限無く巨大化を続ける意識はすぐに家を飛び出し、上空から日本全体を眺めて地球を含む太陽系の全域を見渡し、銀河さえも超えて、より大きな世界を小さな視界の中に全て収めた。
(これが、宇宙?)
無数の光の塊が互いに手を伸ばして繋がり合っている──そう感じた。そしてそれすら遠く離れて見えなくなった頃、身体が勝手に反転する。
直後、小学生の頃、プールで飛び込みに失敗した時の痛みを思い出した。
飛沫が上がる。激しい水音を立てて着水した。さっきまで宇宙空間にいたように見えたのに、どうして?
(う、んんんんっ!?)
いや、まだ宇宙だ。直感的に理解できた。たった今、自分は別の宇宙に侵入したのだと。あの映像で見た無数の泡の一つから別の泡へ投げ込まれたのだと。
小さくなっていく。自分が小さくなっていく。反比例して縮んでいた視界が大きくなる。別の宇宙が、別の銀河が、別の太陽系が、別の地球が目の前に迫って来る。
落ちる!
「わあっ!?」
こんな速度で、なおかつこの高度から墜落したら身構えても無駄だなんてことは彼にもわかっていた。けれど理解していても反射的な行動までは抑えられない。咄嗟に顔の前で腕を交差させて激突に備える。
でも、やはり無意味だった。想像とは逆方向に。
「あ、れ……?」
いつまで待っても衝撃はやって来ない。代わりに足の裏に硬い感触を感じる。自室から飛ばされて来たためパジャマ姿で裸足なのだ。
恐る恐る目を開くと地面があった。ごつごつとした岩。表面がところどころ濃い緑色の苔で覆われている。半ば止まっていた呼吸を再開すると、肺一杯に取り込まれたのは湿度の高い濃密な空気。
前方は断崖絶壁。その崖の下に広大な密林が広がっていた。彼方で陽が沈みかけている。この場所ではこれから夜が訪れるらしい。
「こ、これ……これ、が……?」
数年ぶりの外の世界。いきなり明るさが変わったものだから目が眩む。へっぴり腰で腕を伸ばして周囲を探った。
何が起きたかはわかっている。別の世界に跳ばされたのだ。無数に存在する並行世界のどれか一つに。強制的に刷り込まれた知識がそう答えている。
跳躍。
ネットワークの基本的な機能の一つ、らしい。並行世界や異なる界球器への転移を可能とする力。ただし神々でない自分達の場合、移動できるのは精神だけ。
「これ……本当に、偽物……?」
自分の身体を見下ろして触って確かめてみる。いつものパジャマ、慣れた手触り。服も肉体も本来のそれと寸分違わない。けれどこれは頭の中の情報によれば、別の世界で安全に活動するため複製したコピーなのだそうだ。
本当だとしたら、そんな力、たしかに神様でもなければ使えないと思う。現代の科学力だって人間のクローン一つを作るのにものすごく苦労するらしい。なのにこんなに簡単に元の自分と同じ身体を別世界に用意してしまえるんだから。
「でも……ここ、どこ?」
立っているのは高い崖の上で周りは鬱蒼としたジャングル。振り返ると背後にも密林があった。生まれて初めて見る雄大な景色に心奪われ、一瞬だけ恐怖を忘れる。
もちろん、本当に一瞬だけ。次の瞬間には崖下から長い首を伸ばしてせり上がって来たものを見て総毛立った。
恐竜。
子供の頃に図鑑で見たブラキオサウルスという草食恐竜に似ている。けれど顔の造りはより攻撃的で口の中には鋭い牙が並んでいた。
縦長の瞳孔がじっとこちらを見つめ、何かを思っている。雨楽はと言えば、ただ震えて竦み上ったまま。逃げたくても足に力が入らない。というより、逃げるという考え自体が浮かんで来ない。ついにはその場にへたり込んで失禁してしまった。
「あ、あ……あ……」
そのうちに巨大な顔が近付いてきた。彼は「ああ、死ぬんだな」と確信する。ようやく楽になれるとか、やっぱり死にたくなかったとか、そういった他にあるべき思考は微塵も無い。ただひたすらに怖い。
ところが、そこから予想外の展開を迎えた。
恐竜は鼻先で彼を突き飛ばし、なにやら確かめるように匂いを嗅いだ後、フンと鼻息を噴いてそっぽを向いたのである。そのまま重い地響きを立て悠然と立ち去って行った。
「な、なんで……?」
鼻息と一緒に噴き出した粘液でベトベトにされてしまった雨楽は、目を丸くしながらも事態の把握に努める。
つまり好みに合わなかった? あの恐竜にとって自分は“美味しそう”に見えなかったのかもしれない。
幸運だった。そう思いながら立ち上がる彼。その瞬間──背後から忍び寄ってきた小型恐竜が喉笛に喰らいついた。
「ッ!?」
骨が砕ける音。一瞬で首をへし折られた。痛い、熱い、苦しい。潰れた気道に血が流れ込んで呼吸できない。脳に酸素が送られて来ない。
苦しい、苦しい、苦しい、誰か助けて! 叫びたくても声は出せなかったし、首から下は感覚が無くなっていて指先一つ動かせない。
口に咥えた彼を振り回し、さらにダメージを与えた怪物は、一旦獲物を地面に下ろすと無感情な眼差しで瀕死の彼を見下ろした。これからお前を食べると儀礼的に宣告しているような表情。
やめて。
涙目で訴える。けれど相手は容赦なかった。片足で踏みつけ、彼の数倍の体重を預けて来る。胸骨が砕けて肺や心臓に突き刺さった。
雨楽にとって本当の幸運は、そこで意識が途絶えたこと。恐竜は痙攣するだけになった彼の体に噛り付き、噛み千切り、不思議なほど柔らかいその肉の上品な味わいをゆっくり堪能し始める。
元の世界で無力だった青年は、この世界でもやはり無力なまま、一頭の肉食恐竜の腹を満たすだけの存在として生涯を終えた。
「うわあッ!?」
目を覚ますと真っ暗な部屋のベッドの上だった。酷い寝汗をかいている。
「な、なんだ……」
夢だったんだ。
そう思い込もうとした雨楽の横で、けれども青い輝きが生じた。
『どうでしたか、死んでみた気分は?』
ベッドの横に立つ光るメイド。金髪碧眼。とても綺麗な顔立ちだけれど異質な雰囲気を纏った人にあらざる存在。自分をAIだと名乗る奇妙な女性。
彼女は言う。
『これがレインボウ・ネットワークの自殺防止プログラムです。並行世界に跳ぶのはこの世界での肉体を模倣したアバターですので、実際に死ぬことはございません。残念ながらこれでもまだ自殺願望が消えていらっしゃらないようなので、さらに二回の跳躍権が与えられます。私と一緒に頑張りましょう』
──他人の記憶が言っている。遥か昔にネットワークを構築した誰かが親切心から組み込んだ機能。自殺願望を失わせるため自殺志願者に過酷な試練を課し、最低最悪の異世界旅行を体験させるプログラム。
女顔で対人恐怖症。自殺願望を持つニート・浮草 雨楽の憂鬱な旅路は、まだ始まったばかりだった。