五章・三度目の事故(2)
……静かだ。自分の息遣いと水音しか聴こえない。微かな浮遊感。背中にはゴツゴツした何かの固い感触。雨楽が仰向けに倒れたままで瞼を開けると、真っ先に目に飛び込んで来たのは雲一つ無い青空だった。
それと──
(なんだろう、あれ……空に、何か……)
うっすらと長い影が見える。木の枝のような形。
直前までの記憶がぼやけていた。自分はどうしてここに? 起き上がるために手をつく。また水音がした。浅い水たまりに半身が浸かっていたのだ。手の平に伝わって来るぬめり。透明度の高い水面下に複雑に絡み合ったものが見える。
これはなんだろう? 疑問を抱きつつ、しかし、それを考えるより先に探すべきものがある気がして立ち上がった。ふらつく頭に手を当てながら見渡すと、すぐ傍に倒れている雨音の姿を見つけた。そしてようやく思い出す。
三度目の跳躍を行ったのだ、と。
「じゃ、じゃあ、ここが彼女の世界?」
どこまでも続く海。それとも湖? いずれにせよ、とてつもなく広大で果てが見えない。それでいて波一つ立たず鏡のように穏やかな水面。その水面からほんの数センチ下で先程見たものが絡み合い、足場を形成している。よく見ると植物の根だ。
「これ、まさか、全部あれから?」
見ようとしなくても見えてしまう圧倒的な存在感の巨木が彼方に立っていた。比較対象が無いため距離感を今一つ掴めないが、少なくともその頂点は遠く離れたこの場からでも見つけることができない。幹はずっと上空にまで伸びていて途中から霞んでいる。まるでニュースで見た軌道エレベーター。鏡矢建設が赤道直下の島で建設しているという宇宙へ続く柱。それを連想した。
他に植物らしきものは見当たらないし、足場になっている根は全てあの木が発生源だと考えるのが自然に思える。
空を映す鏡の海と、そこにそびえ立つ一本の大樹。根が絡み合って水面下に形作られた足場。頭上の枝の影。そして自分達。それだけが今ここから見える世界の全てだった。
当然の疑問を抱く。ここは本当に地球?
これまで見て来た二つの世界も、たしかに自分の世界とは大きく異なっていた。けれど、ここはあれらの世界と比べてもさらに異質な雰囲気を漂わせている。
とりあえず雨音を起こして訊ねてみよう。そう思った雨楽は彼女に近付き、そして急に足を止めた。
直後、何を思ったかいきなり服を脱ぎ始める。通販で買った登山者向けウェアの一番上、防水性に優れたジャケットとハーフパンツをだ。下にフリースやタイツを重ね着してあるから裸になったわけではない。
脱いだその二つを両手で持って、思いっ切り前に突き出しながら呼びかける。
「あ、あの……」
声が小さすぎるのか、少女は反応しなかった。
「あの……えっと……あのっ!!」
「はいっ!?」
精一杯振り絞った声でようやく目を覚ます彼女。起き上がって辺りを見回すとこちらの姿を見付け──というところまでは気配でなんとなく掴めたのだが、今どんな表情をしているかまでは目を開けていないのでわからない。
「あ、あなた、あの世界で会った……目をつむって何してるんですか?」
「こ、これ、着て」
「え?」
言われてようやく自分の体を見下ろす雨音。彼女は病院で着せられた病衣のままだった。浴衣のようなそれがはだけて、やっぱり看護師達の手で装着された全く色気の無い下着が肌と一緒に露出してしまっている。さらに言えば濡れて透け気味だ。
気付いた途端、顔を真っ赤にしてジャケットとパンツをひったくった。
「あ、ありがとうございます!!」
「うん……」
小さく頷き返す雨楽。自分と同じ顔とはいえ、やっぱり相手は女の子なのだとドキドキしながら納得する。
「どうしてサイズが合うの……」
彼の差し出したウェアに着替えた雨音は、十センチほどある身長差を確認して繰り返し互いのウエストを見た。借りた服は悲しいほど適正サイズである。自分より背の高い男と同じ胴回りだなんて……プライドに傷が付いた。
だが、そんなことで嘆いている場合ではない。先程の彼と同じように周囲の状況を確認した彼女は、やはり顔を青ざめさせる。
「な、なんですかここ。どこなんですか!?」
「き、君の世界じゃ、ないの……?」
「違いますよ! 地球上にこんなところあるわけがないでしょう!?」
予想通りここは雨音の世界ではなかったようだ。でも、どうしてこんなことになったのだろう?
とりあえずこの不可思議な状況を理解するため、ここへ至るまでの経緯を互いに説明し合う。
「──というわけで、僕はその自殺防止プログラムの一環であの世界にいたんだ……」
「レインボウ・ネットワーク……そんなものがあったんですね。うちの人間でも知らない情報だろうなあ」
「うちの……?」
「鏡矢家ですよ。って、あなたは浮草家の人間でしたか。なら知らなくても仕方ないかな。鏡矢の家は代々退魔師の家系なんです。徳川の世では公儀隠密“鬼倭番”として世のため人のため魔物と戦っていました。鬼倭番解散後も我が家だけは引き続き日本政府と協力し、魑魅魍魎を滅し続けているんです。つまり正義の味方ですよ」
初めて聞く話だった。雨音の世界でも普通の人々には知られていないらしい。だとすると自分達の世界の鏡矢家も同じことをしているのかもしれない。
(雫さんなら似合いそう)
雨音と同じように日本刀を持って戦う彼女を想像したら、何の違和感も覚えないくらいハマッていた。
「だから私もかなり強いんですよ。でも──」
雨音は雨楽が死んだ後、トカゲ人間達を追い払った。けれど彼等が撤退した直後、今度は有角人種の襲撃を受けた。雨楽の想像通り、角を狙ったことで敵とみなされてしまったのである。
「普段ならあの程度の人達には負けないんですが、最初にトカゲ達から喰らった矢に毒が塗られていたみたいで……」
「え? き……君にも矢が刺さってたの?」
母の実家で確認した時には、それらしき傷は見当たらなかったのに。
「刺さってません。私は“星憑き”ですから銃弾だって弾き返します」
でも小さな掠り傷は出来ていた。そこから入り込んだ毒が少しずつ彼女を弱らせ、有角人種の奇襲を受けた時には、もはや戦える状態ではなくなっていた。
「斧や剣でメッタ打ちにされて“鎧”も維持できなくなり、出血も酷かったんで、流石に無理だと思って慌てて脱出しました」
そして雨楽の世界に流れ着いた、ということだったそうだ。
「レインさん……の話だと、僕が元の世界に戻った直後だったから、その時に出来た道を君も通ったんじゃないかって……」
「なるほど」
頷いてから、雨音はジトッと半眼になって雨楽を睨む。
人に見られるのが苦手な彼は、当然ながら目を逸らした。
「な、なに?」
「いや、ずるいなと思って……異世界で死んでも元の世界で生き返るなんて、あなただけノーリスクじゃないですか」
「ごめん……」
たしかに彼女のように生身で頑張っている人間からしたら卑怯な話だ。自分でそう設定したわけではないのだけれど。
「まあでも、あなたとそのレインさんには感謝しています。見つけてもらえなければ今頃死んでいたでしょうし。解毒までしていただいて、ありがとうございます」
そう言って頭を下げた雨音は、すぐにまた顔を上げ、今度は探るような目付きでこちらを見つめる。続けて投げかけられたのは確認の言葉。
「それで……私を解毒してくれたのは、本当にあなたなんですか?」
「う、うん。見てみる?」
指先に光を灯す雨楽。レインによるとネットワークを通じて引き出すことが出来る始原七柱の力にはそれぞれ対応した色があり、彼が目覚めた≪生命≫の力は橙だそうだ。他は青、紫、赤、黄、緑、藍。
その光を見た途端、何を思ったか雨音は自分の左手親指を口に入れ──犬歯で思い切り噛んだ。
「いったあ!?」
「ちょ、な、なにしてるの!?」
皮膚が破れ血を流す指に、今度は手の平全体から放射した光を当てる雨楽。すると見る間に傷が塞がっていき、数秒と経たず治った。
「すごい……痕も残ってない。うちの癒術師だってこんなに早く治せないのに」
「確認のためにわざと怪我するとか、やめて……」
雨楽は血を見るのも苦手なのだ。しかし雨音は青ざめた彼の肩を掴み、自分の方へ向き直らせる。
「あの、これって病気も治せますか!?」
「な、なお、治せる、らしいよ」
他人。しかも女の子とこんな間近で向かい合ったのは十年ぶりのことだ。いつも以上にしどろもどろになりつつ返答する。
「本当ですか!? どんな病気でもですか?」
「それは、わかんない、けど」
レインから“可能性はある”と聞いた事実を伝えると、やっと彼女は手を離してくれた。
代わりに、その大きな瞳が希望に満ちて輝く。
「じゃ、じゃあ私の世界に一緒に来てください! 私なら連れて行けます!!」
「えっ?」
そんなことが可能なのか? 問い質すと、彼女の“跳躍”はレインボウ・ネットワークを介したものではなく、鏡矢の家に代々伝わる“異界渡り”という術を用いているのだと教えられた。レインが言っていた“原始的な術式”のことだろう。
異界渡りでは自分以外の生物も“契約”を交わして連れて行けるらしい。
「け、契約って……?」
「あ、大丈夫、こうするだけです」
そう言うと、彼女は急にジャンプして首に抱き着いて来た。雨楽が驚いて固まっている間にコツンと互いの額を接触させる。
「う、うわわっ」
「ああもう、ちゃんと立っててください」
「ご、ごめ、いや、近っ」
お互いに膝立ちになったところで謝る雨楽。そもそも彼の筋力では彼女の体重を支えることなど不可能だったのだ。思っていたより軽いとはいえ。
「いいですか、私の言葉に続けて“誓います”と答えるだけです。それで契約成立」
「わ、わかった。だから、早くしてっ」
この状態を維持し続けることは、彼にとって色んな意味で拷問である。
そして自分と同じ顔の少女が目の前で誓約の言葉を紡ぐ。
「我、鏡矢 雨音はこの者を我が眷属に加え、界越の旅路に伴うことを父なる神に願わん。浮草 雨楽、汝はいかなる苦難が待ち受けようとも、我と共に歩むことを誓うか?」
前半はともかく、後半はなんだか結婚の誓いのようだと思った。そのせいで雨楽は数瞬戸惑ったものの、雨音が“早く”と急かすように見ていることに気が付き、言われた通り返答する。
「誓います」
途端、接触している部分から様々なものが流れ込んで来た。無数の数字や記号。そして何かよくわからないイメージ。膨大な情報が一瞬で頭の中に流入して、そしてやはり瞬く間に消えた。レインからネットワークの説明を受けた時と似たような感覚。
「え、えっと……?」
「これでよし」
困惑する雨楽の額に“眷属”の印が浮かび上がる。ぼんやり光る幾何学的な紋様。雨音の胸中には満足感が広がった。実はこれが初めての契約だったのだ。ぶっつけ本番なのに上手く眷属にできて良かった。
「終わったの?」
「ええ、これでいけます。早速帰りましょう」
そう言って彼の腕を掴む彼女。
「もう?」
驚く雨楽。雨音は呆れ顔になった。
「こんな変な世界に用なんて無いでしょう?」
「それは、そうなんだけど……」
妙に後ろ髪引かれる。この風景にどこか既視感を覚えるのは何故だろう? ここでやるべきことがまだ残っているような、そんな気がしてならない。
しかし、そんな彼の思いをよそに雨音は“異界渡り”を始めようとしていた。
「……ふううう」
軽く俯いて深呼吸した彼女の額にも紋様が浮かぶ。ようやく父を病から救える可能性に出会えた。だから気が急いているのだ。
雨楽も元々それが目的だったと思い出す。どうしてこの世界に飛ばされてしまったのかわからないけれど、たしかに寄り道している場合じゃない。
(向こうの世界の父さんを助けて、それで僕の旅はおしまい)
少しでも胸を張って死ぬために、彼は根拠の無い未練を振り払い、その時を待った。
ところが一分経っても二分経っても一向に跳躍する気配が無い。どんどん雨音の表情が険しくなっていく。
「ど、どうして?」
ついに青白い顔で目を開いた。
「異界渡りが使えない……この世界から出られない!!」
「えっ……?」
まさか、そんな。
彼もレインに呼びかけてみる。
「レインさん!!」
返事が無い。今までも異世界にいる間は話しかけて来なかったが、状況は伝わっているはずなのだ。予定と違う世界に送られてしまった以上、なんらかの反応があってもいいと思う。けれどやはり、何度呼びかけても声は空しく響くだけ。
二人はようやく理解した。
自分達は、この世界に囚われてしまったのだと。




