魚の泳ぐ日 その二
とりあえず、こう考えてみることにした。
人間だって空を飛ぶし、海を泳ぐ。陸を走れば、陸を這うときだってある。
じゃあ魚にだって、空を泳ぎたい日くらいあるんだろう。
「……………………、よし解決」
そんなことより急がなくてはならなかった。時季外れの転校、それも微妙な五月。こんな時期に転校しなくてはならないなんて間が悪い。クラス替えから一か月もすれば、それなりにグループは固まって、今更外部からやってきたよくわからないやつを入れてあげる心の余裕を誰しもが持っているわけではないのだ。遅刻で問題児のレッテルを貼られてスタートダッシュからこけるのはごめんだった。
「風波学院、風波学院ね…………」
駅からほど近い場所にある学校だという。一応そこそこ名の知れた私立学校で、この辺りではトップクラスの進学校だ。私立というだけあって、初等部から高等部までが併設されており、設備はいちいちでかい。駅の目の前の商店街を貫く一本道を駆け抜けたら、もう目の前だと錯覚してしまう程度には、主張が激しい。高等部は少し奥まったところにあるので、実際はもう少し進まなければならないのだが。
無意味に広い校門を抜けて、きちんと整備された庭には目もくれず、小走りで進む。黄色い帽子に指定の制服をお行儀よく着こなし、青い星型のストラップをランドセルにつけた女の子がなぜだか目を丸くしてこちらを見ていたが、用は無いので無視しておく。
さらに中等部の前も走り抜ける。初等部と中等部は人数が少ないので、高等部よりはこぢんまりした校舎が二つ、肩を並べて親しげに収まっている。落ち着いた色の赤レンガが打ち込まれた、安直に文明開化時代を想像してしまう西洋風の校舎は、おしゃれなのかもしれないが寝不足でしばしばする目には少々色がまぶしい。
そしてリュックの紐の調整をしてこなかったことを若干後悔し始めたところで、どう考えても予鈴ではないチャイムが鳴った。鐘を打ち鳴らすような和風の音だ。頭に響く。ずっと小走りなのは決してさぼりではなく、貧血でくらくらしているからなのだが、そんな言い訳は通じないだろうな、と頭の片隅で考える。低血圧に優しくない世界。
(…………あー。…………嫌な予感)
昇降口付近に、仁王立ちの生徒。
学校指定の制服だろうが、自分の着ている学ランとは違う。私立なだけあって、異様な数の制服が取り揃えてあったから、そのうちの一つだろう。白いシャツに深緑のラインが入った、滑らかなクリーム色のセーター。だんだん近くなるにつれ、その吊り上がった眉や、不機嫌そうにゆがんだ口元が目に入る。あー、嫌な予感。
(強行突破に、限る)
ダッシュ、の、つもり。
リュックの紐を両手でつかんで引っ張り、背中に張り付ける様にして固定する。そのまま足の回転速度を上げて、あ駄目だ息が上がってきた。チャイムが鳴り響いている。まだセーフ。
肺の情けない喘鳴よりはるかに頭がくらくらしている。地面がゆがんで、方向感覚はかなりおぼつかないが、頑張る。あとちょっと、あラッキー昇降口の扉は開けっ放し、ダッシュダッシュダッシュ。
(あやばい倒れそう)
チャイムはまだ余韻を残している。だからきっとセーフ、そして駆け込む。そびえたつような、一人一人のスペースが不自然にでかい下駄箱。見上げれば、中は吹き抜けで、壁一面のステンドグラスが朝日を受けてきらきらと幻想的に輝いていた。
(…………おお、)
思わず感嘆の声を上げたくなるほどの光の中で、背後からの気配を感じた。
たとえるなら、強風に背中を押されて、思わず駆け出してしまうときのような、そんな感覚。
(…………お?)
疑問の声を挟むと同時に、ひゅっ、と、耳元を掠めるようにして、残像をまき散らしながら光がすぐそばを通り抜ける。幾千もの輝き、それが登校中の空で見かけたあの泳ぐ魚たちだと、なぜか直感した。
そして一拍遅れて、ゴォォオオ!!!と風が巻き起こる。耳元をすり抜けた魚たちが群れを成して渦を巻き、ステンドグラスの鮮やかな光の中で悠々と泳ぎまわっていた。
「…………すげえ、」
呆然とそんな言葉がこぼれる。
魚の群れはそのままステンドグラスの向こう側に、吸い込まれるように滑らかな動きで泳いでいった。まるでそれが初めから決められているルートのようによどみのない動きだ。しばらくぼんやりと魚たちがいた場所を眺めていると、後ろから低い声が投げかけられた。
「…………おい、」
(あー、)
そういえば昇降口には、不機嫌そうな顔で仁王立ちをしていた男子生徒がいたなあ。
「…………なんスか、」
転校初日に遅刻すれすれはやっぱりまずかったか。怒りのにじむ声音に、反射的に身をすくませながら振り返る。案の定、眉間に深いしわを寄せた気難しそうな男子生徒と目が合った。
(謝るに限るかな)
すいませんの「す」の形に唇を動かす用意をしていると、つかつかとこちらに寄ってきた男子生徒が、勢いそのままに襟をつかんで耳元に不機嫌そうにゆがめた口を近づけ、低く、意図的に押し殺した声でこうささやいた。
「いいか、ここの原則は『見えないふり聞こえないふり知らないふり』だ。余計なモノに目を向けて気に入られたら、困るのはお前だぞ」
「…………は?」
怪訝そうな表情が隠せない。
話は終わりだとばかりに耳元から口を離した男子生徒に、間の抜けた声で思わず尋ねてしまう。
「いや、あの、…………遅刻の叱責は?」
「遅刻?」
今度は相手まで怪訝そうな顔になる。とはいえ、眉間のしわは深いままだし、眼光は鋭い。ひょっとしたらこれが地顔なのかも、と思ってしまう。
男子生徒はしばらくじろじろとこちらの姿を無遠慮に眺めて、ようやく合点がいったとばかりに、ため息を吐き出した。
「俺は風紀委員じゃない」
「え、そーゆー問題っスか」
うなずかれてしまった。どうやら見た目ほど頭は固くないらしい。好感度がちょっと上がると、表情は無愛想極まりないがなんだ男前じゃないかと思えてくる。単純人間。
「忠告したからな」
「あー、ウス」
やれやれと疲れた様子で首を振り、男子生徒は靴をシューズに履き替え廊下の向こう側に去ってしまう。下駄箱の位置から察するに、どうやら三年生のようだった。
とっくにチャイムは鳴り終わっているし、教室には結局遅刻かーと思いながら自分もシューズを履き替える。時季外れでも転校は転校だから、出席番号は付け足されたように一番最後だ。
二年教室は一階と聞いてはいたが、その前に職員室に顔を出さなくちゃいけないんだろーな、と考え、校内の地図表示と数分格闘してから、ようやく職員室に向けて歩き出す。幸いにも、そう遠くはない場所に『職員室』の表示が見えた。
ちょうど朝の職員会議が終わった後なのか、教師らしき大人がぞろぞろ出てくる。その中の一人、ジャージをラフな感じに着崩した、背の高い男性教師がこちらに気づいて寄ってきた。
「ちょうどよかった。今探そうとしてたんだ」
にこやかに笑いかけてくる。女子にもてそうな人懐っこい笑顔だ。慣れた調子で道に迷って遅れたんだろうと軽く言われたので、そういうことにしておいた。
花岡というらしい教師がペラペラとしゃべりかけてくるのに、ああ、とかうす、とか適当な返事をしながら、教室へ向かう。話の中身はたわいなくて、寝不足に貧血に低血圧のトリプルコンボで全く正常に機能しない頭ではとどめておけないようなものだった。
くぁ、とあくびを噛み殺し、ぼりぼりと頭をかいて、ふと、考える。
(そーいや、忠告って、なんの忠告だ…………??)
眠い眠い