1.序章
飢餓感を感じ八千代は目を覚ました。時計を見れば、朝の八時である。
いつもなら容赦なく起こしに来る母が、今日は来る気配もなく不思議に思いながら、ベットからのろのろと這い出た。
冬の寒さに身を震し、階段を降りながら、
「お母さーん? なんで起こして……」
文句を言おうとしたが「なんで起こしてくれなかったの?」が最後まで続かなかった。何故なら、母の名を呼んでも返事がなく、果てには日常的な音がなかった。
いよいよおかしいと思った八千代は、口を噤んで足を止めた。
(なんかぞわぞわする……)
筆舌し難い何かが八千代を不安にさせた。気付けば恐怖心が心を支配していた。それでも慎重にゆっくりと進む辺り、精神は強い方だろう。
そして一階に着くと、恐怖心がさらに強くなった。廊下はいつも通り綺麗な筈なのに、それすらおかしく思う程になった。それもその筈。リビングに向かうに連れ雰囲気が怪しくなっていった。もっと言えば、リビングは閉ざされ、ドアに付いている磨りガラスにはヒビが入っていた。
どう考えても何かあった事は明白だ。
ドアノブに置いた手は震えが止まらず暫くした後、八千代は意を決してドアを開けた。
□■□
誰かの話し声がして、八千代は重たい瞼を開けた。隙間から入ってくる光は眩しく刺激を与え、思わず目を細めた。
「……っう」
一瞬の痛さに声が漏れた。その瞬間に、がしっと両肩を掴まれた。
「嬢ちゃん!大丈夫か?」
「やっと起きたのか」
二人分の声が聞こえ顔を上げると、目の前に五十路の男___今まさに肩を掴んでいる男でもある___と、その後ろに腕を組んだ若い男が立っていた。五十路の男は心配の色を顔に出し、対して若い男は怪訝な顔をしていた。
そんな中、八千代は状況が読めずただ呆然としていた。何か喋らなければとぼんやりした頭には何も浮かばず、「あの……」と一言呟くのが精一杯だった。むしろ小学二年生にしては良く出来た方だろう。
それよりもこの状況を理解したい八千代は、キョロキョロと不安気に辺りを見回した。それに気付いた五十路の男が「どうした?」と首を傾げた。
「不安なのは無理もない。だが少し君に聞きたい事ある」
若い男が眼鏡を掛け直しながら言葉をかけた。その口調の冷たさに八千代がビクッと肩を震わした。
「おい! その冷たさは何とか出来ないのか!?」
「どうにもならんな」
五十路の男が咎めるが、若い男は対して気にも留めていないようだ。その態度に五十路の男は溜息をついたが、聞きたい事は同じようで「どうか答えてくれないか?」と優しく言葉を掛けた。断る理由のない八千代が小さく頷くと、五十路の男は安心した様に「それは良かった」と顔を綻ばせた。
「起きてからは覚えているか?」
面倒くさそうに若い男が聞けば、すぐに五十路の男が睨んだ。しかし、八千代にとってそんな事はどうでもよく、頭の中で起きてからどうしたのかを思い出していた。
(確か、お母さんが起こしてくれなくて……? それから何があったっけ?)
頭に靄が掛かり上手く思い出せない。それを正直に伝えると、五十路の男は「そうか」と少し安堵した様に眉尻を下げた。
「……あの、お母さんは……?」
八千代がそう尋ねれば、二人は顔を見合わせた。視線で何か話し合った後、若い男が口を開いた。
「さぁ? 我々も知りたいところだ。そんな事より、君は今この時を持って我々の監視下の下で暮らす事になった」
「お前は……!」
いよいよ我慢が出来ないといった様子の五十路の男は、八千代から離れ、若い男の胸倉を掴んだ。何か言い合っているが八千代の眼中にはなく、ただ唖然としていた。
そんな八千代に追い打ちを掛けるように、若い男は口を開いた。
「さっさと荷物まとめこい」