1・月へ
眼下には見た事も想像した事もない光景が広がっていた。それは、滅亡前の人類がアニメや映画で見た未来都市そのものだった。
高架のハイウェイを風のように滑るエアカーの窓から見えるのは、林の樹木のように立ち並ぶ、煌めくネオンに彩られた空に届きそうな無数に思えるビルディングの群れ。そして夜闇の空に散りばめられた宝石のような星々。だがドーム都市の外から入ってきた霖とアクセルは、それが驚く程大きな蓋のようなものに投影された空である事を既に知っていた。
大小のビルの間を高速で走り抜けてゆくエアカーの数々。とにかく、光、光、光……ランプの灯りしか知らずに生まれ育った二人には、この都市は夜でも眩しすぎて目が痛むくらいだった。
ウリエル、霖、アクセルは、ドーム端の宙港でシャトルから降ろされ、今はミカエルのオフィスに向かうエアカーの中である。三人は、薄いが丈夫な素材の気密服のようなものを着せられ、頭から足先まですっぽりと覆われていた。地球の雑菌を都市に持ち込まない為に必要であると通告され、従わない訳にもいかなかった。幸い生地にはかなりの伸縮性があり、身動きが制限される事は全くない。
シャトルが着陸した宙港で働いている人々は、皆顔立ちが整って清潔感がある以外は普通の人間に見えたが、ウリエルはあれはバイオロイドだと言った。
「あいつらもマリアみたいな力を持っているのか?」
「いや、彼らは普通の市民だから、当たり前の人間並みの能力だろう」
ウリエルは答えた。三千年前に後にし、繋がりを絶った月都市であるが、ラファエルが生前に自分の持つデータを全てウリエルのコンピュータにダウンロードしてくれており、ウリエルはそこから月都市の現状についての情報を全て得ていた。
エアカーはスピードを変えることなく滑るように高速で走ってゆく。先に地球でウリエルのエアカーに乗っていなかったら、目を回してしまった事だろうと霖とアクセルは思った。飛ぶように後ろになってゆく街並み……高層ビルに動く街路、立体映像の広告……どこにも塵一つ落ちておらず、貧困とも病とも無縁な清潔感と幸福感が漂っている。景色が飛ぶように後ろに流れてゆくため、その中の人の影を判別する事は出来なかったが、そこに生活している気配は感じられた。本物の人間ではない、との事だったが、こうも高度な文明のもとに生活している者たちが、本物の人間でないから自分たちより下なのだとは、アクセルにも霖にもまったく思えなかった。
数十分も経たずにエアカーは目指す高層ビルの地下駐車場へ滑り込んで行った。ミカエルのオフィスビル……そこが目的地だと既に宙港で告げられていた。すぐに案内の女性が出迎えて三人をミカエルの元へ導いた。
―――
広々としたミカエルの私室はさしづめ旧世界の社長室といった趣か。
華美な調度品などなく、事務的な用を片付けるのに必要と思われる書棚やキャビネットが壁際に並んでいる。こうした実用の為の室というものは、時が経っても、使う人間の方が変わらなければ大きく形を変える事はないものなのだろうか、とウリエルは思う。そもそも、ミカエルは昔から極めて効率を重視する人間だった。ウリエルにはレトロに感じられる趣だが、霖とアクセルにはそれすらも目新しく、落ち着かなげに辺りを見回している。
「待たせて済まなかった。これでも多忙なのでね」
程なくミカエルが姿を現した。
紺のスーツを着て背筋を伸ばし、金髪に青い目、そつのない笑顔を浮かべたミカエルは30そこそこにしか見えず、昔風に言うならば成功した青年実業家といった風である。快活そうな青い瞳を間近で見れば、ウリエルには昔のままに思えた。本当に三千年もの月日が流れたのだろうか? ここは地球で今は何の不自由も憎しみもなく輝いたあの時代なのではないのか、一瞬ウリエルはそんな錯覚に陥りかけた。
「ミカエル、私は……」
思わず、目の前に立つかつての親友の秘めた危険性も忘れ、ウリエルは一歩踏み出した。
「武器を隠し持っていない事は既に確認済みだが、あまり近づかないで欲しいものだ。我々は敵同士だと忘れないで貰いたい。君にとってどんな感傷があろうとも、こちらにとってはこの世界が日常であり、この会見はビジネスの一環に過ぎない」
冷たいミカエルの言葉にウリエルは我に返る。そうだ、彼らの所業を思い出さなければ。彼らはもう、兄弟のように育ったあの頃の彼らではないのだ。
「ビジネスだと? どういう意味だ?」
「まあ、座れよ」
三人がソファにかけると、ミカエルは得々と語り出した。
「まさかウリー、あの地球への制裁は、ガブリエラの愚かな執着とその嗜虐的な欲望を満たす為のみに行っていると信じている訳じゃあるまい?」
「……ラファエルはそう感じていたようだが、そうではないと?」
慎重にウリエルは応える。ミカエルは声を立てて笑った。
「たかがそれだけの為にあれだけの舞台、あれだけの役者、あれだけの予算をかけて? そんな馬鹿な真似を俺がすると思うかい?」
「他に意図があったと言うのか!」
低い声で問うたのはアクセル。ミカエルは蔑んだ目で彼を見たが、
「まあいい、直接口を聞くのを許そう。何しろエデン三千年の歴史で初めてここに来た猿なのだから。歓迎しようじゃないか、アクセルに霖。うん、見た目は悪くない。見世物に充分な器量だ」
と機嫌良く言った。
「ふざけんな! さっさと目論見を吐きやがれ!」
「そうは言っても、ビジネスの話なんて、猿の頭では理解出来ないだろう? まあでも、そう複雑な話でもないか。前に俺は、これはゲームだと言ったろう? 言葉のままさ。これは、エデンで最も大きな娯楽……平均寿命約三百歳のエデンの民が、生涯に一度楽しめる祭りなんだ。猿対犬、どちらが勝つか? 猿の代表に待ち受ける試練とドラマは? そう、市民はこの祭りを楽しむ為、衛星中継を見る権利を買う。それから、賭だ。勿論、今まで全て、順当に犬が勝った。だが、もし猿が勝てば、そちらに賭けた者は莫大な利益が得られる。だから、一攫千金を夢見て猿に賭ける者もたくさんいるんだ。限りなく猿に勝ち目がないように仕組まれている事など知らずにね。そうして、この公認の賭博祭が終わった後には、莫大な収益を得る俺がいるという訳さ」
暫く、ウリエルは何を言ってよいものか判断をつけかねた。ミカエルは相変わらず嘘くさい快活そうな笑みを顔面に貼り付けたまま、表情を動かさない。ウリエルはようやく言葉を絞り出した。
「では、これは金稼ぎの為のゲームだと? そんな事をせずとも、お前とガブリエラは既に揺るぎない権力をエデンに於いて持っているのだろう?!」
「いやいや、絶対的な権力など持っていてもつまらないじゃないか。そりゃあ、最初はそういう手段でエデンを支配する事も考えたが、バイオロイドの市民を操って王様になったって、やがて飽きる。だから敢えて俺は、市民と同等な立場から権力と金を操れる立場に立てるよう謀ったのさ。勿論、この地位を失わない自信を持っての事だ。だから、今回の事は堪えたんだぜ。俺は資産の半分を失った」
「ガブリエラも知っているのか、これを?」
「いや、彼女にはあくまで彼女の娯楽の為だと思わせている。その方が喜ぶからな。まあ、ワイフへのささやかなプレゼントという訳だ」
「ささやかな、ですって?」
怒りに燃えた目で睨みながら霖は押し殺した声で言った。
「その為にどれだけの血が流れたと思ってるの。小さい子どもも死んだ。未来を夢見たたくさんの人が、神の怒りと思い込み、恐怖に震えて死んでいった。あんたは猿と言うけれど、元々は同じように地球で生まれた同じ命の筈。どうしてそれを笑って見ていられるの?!」
当然と言えば当然すぎる霖の言葉にも、ミカエルは全く動じない。
「どうして、だって? だって違う生き物だからさ。君は踏み潰される蟻に同情するのかい?」
「蟻には愛はないわ……夢も……ただ、本能のままに生きているだけ。でも、あたしたちにはあるのよ! あんたには愛も夢もないかも知れないけどね!」
「……」
この言葉には、流石のミカエルも少し虚を突かれたように、すぐには返事が出来なかった。だが、遠い目をしたのはほんの一瞬。次にはもう、いつもの調子に戻っていた。
「愛に夢か……それは、生きる為に必要なものだとかつては思われていた。だが、そうではない事を俺は証明した。愛も夢も持たなくても、三千年生きた。そんな戯言を恥ずかしげもなく言える事こそ、下等な生物の証という訳だな」
「あんたには愛も夢もないってわけ?」
「勿論……下らない感情に振り回されるのは愚かな事だ。感情など何の価値もないくせに、金では買えん。だから我が妻のような選ばれた人間ですら、そんなものに囚われると結局満たされず苦しみを延々と抱えるだけだ。だが、そろそろ無駄話はやめて本題に入ろうか」
「本題?」
「そうとも。こんな話を聞かせる為に遙々呼び寄せた訳がない事くらい、猿の頭でも解るだろう? 単刀直入に言って、用件はこうだ。ウリー、君は邪魔だ。死んでもらいたい」
「なん……だと?」
「義弟の死を招き、多額の損失をもたらした、それだけで君は充分に死に値する。おまけに、もし再び数百年後にこのプロジェクトを再開させれば、君はまた邪魔に入るだろう? 今度はもっと用意を周到にして。それは困るんだ……目障りなんだよ。猿二匹は見逃しても構わない。どうせ数十年以上は生きないんだから。勿論、ただ暗殺するだけでも構わなかったのだが、それでは大して面白くない。だから、命を以て少しでも、俺の蒙った損害を補填してもらおうと思ったんだよ」
雑談でもするかのように淡々とミカエルは言う。
「……私は黙って殺されてやるつもりはないが、一体私に何をさせようというつもりなのか?」
「つまり、そこの猿を一緒に呼んだのはこの為なんだ。新たなショーを催そうと思ってね。霖ちゃん、君に闘ってウリエルを殺して欲しいんだ。地球の美少女猿vs堕ちた天使……最高の見世物になる」
満面の笑顔でミカエルは言った。




