8・前へ
「まさに危機一髪だったな」
アクセルに熱い茶を勧めながらウリエルが言う。ラファエルは別室で竜と霖の治療にあたっている。ここはウリエルの住居だ。
「もう少し早く何とかならなかったのか? 今にも沈むんじゃないかと冷や冷やしっぱなしだったぜ」
むすっとしながらアクセルは茶を啜る。まだ夜は明けていなかったが、この男は簡単な処置でもう回復していた。霖の身体も、牢の中で受けたダメージは少し経てば元通りになるだろうとの事だった。ただ、竜はあまりに重傷を負いすぎているので、意識が戻るとしても時間がかかるだろうという。
「済まない。少しでも確率を上げる為にと絶妙の瞬間を待っていたが、慎重になりすぎて危うくなってしまったな」
ウリエルは素直に謝った。
飛空挺で竜を助けるには、牢の上部まで彼が浮上していなければならないし、竜が助けを拒んでは何にもならないので霖が一緒にいる事が必要だった。とはいえ、もっと安全な策はなかったのか、とアクセルは思ってしまう。あのマリアの攻撃を打ち消せる程の力があるのなら……。
「あれが精一杯だった。こちらの手持ちの防衛具には限りがあるからな。あれ以上あの女が攻撃してきていたら危なかった。こちらの正体は知らされていなかったようだし、手の内が解らないので深追いは危険だと思ったのだろう。しかし、あのまま引き下がるとも思えない」
アクセルの心中を読んだかのようにウリエルが言う。この連中なら本当に他人の心が読めても不思議はないとアクセルは思ったが、例えそうだとしてもどうしようもない事なので、黙っておいた。
ラファエルが隣室の扉から出てきた。
「二人とも眠っている。竜も何とか助かるだろう。霖には発症を遅らせる投薬をしたが、まあ気休めだな。せいぜい、もって数日だろう……」
沈痛な響きを含ませながらラファエルは言う。
「あんたたちの力であいつの病を治せないのか?」
「昨日もその話をしていたんだが……もし彼女をエデンへ……月へ連れて行く事が出来れば、治せる見込みがあるかも知れない」
「本当か!」
アクセルの険しい表情が僅かに緩む。ラファエルは慌てる。
「しかし、それは命がけの手段になるんだ。成功率は低い。月に着くまでに撃墜されてしまうかも知れない。そんな危険を彼女が望むかどうかわからないし」
「危険……あいつはどの道、死んじまうんだ。助かる道があるならそれに賭けるだろう。それとも、あんた達が嫌なのか? だったら俺にはその機械は使えないだろうか?」
「まあ待て、我々も彼女を救う為なら命を賭けても構わない、と相談はついている。だがもし、竜が生きてケルベロスを止めてこの災厄を収めたら、彼女は竜がここで生き続ける事を望むだろう。その場合、彼女は竜と離れるよりも彼の傍で死ぬ事を選ぶかも知れない」
「……」
「とにかくこの話は、竜が意識を取り戻してケルベロスを止めてからだ」
「……そうだな」
―――
そして朝になる頃に霖は目を覚ました。
隣のベッドには竜が眠っている。霖は恐る恐る竜の頬に手を当てて、その肌が温かく、そして規則正しい寝息を立てているのを確認して、ほっと力を抜いた。身体中に包帯が巻かれているが、腫れもかなりひいた様子である。ウリエルたちの医療の水準は確かに自分たちの想像もつかないような高いものであるのは間違いないらしい、と霖は思った。
(だったらあたしの病気も治せないかな)
竜の無事を確かめた後では、当然その希望が胸に浮かんだが、すぐに自らそれを打ち消した。それが可能であるなら、彼らは既にそれを提案してくれている筈である。傷を治すのとは訳が違うのだろう。余計な期待はするまい。竜が破壊獣を止めて皆が救われ、竜が許しを得られる姿を見られさえすれば、それ以上の望みはない筈だ。
それでも……竜を救う事に必死だった時と比べて、生に対する欲が湧いてしまっている事は打ち消しようがない。今ここに、生きて自由の身の竜がいるのだから。霖は身を起こして、竜の頬に軽く口づけた。自分の頑張りがあったから、竜は今生きてここにいる。そう思うと誇らしい。しかし反面、自分がもうすぐいなくなることはたまらなく怖い。
(考えちゃだめ)
霖は自分の頬を軽く叩いた。前を、前を見て行かなければ、膝が折れてしまう。命尽きるまで竜と共に前を向いて歩く。たとえ、自分の死による彼との別れが間近に見えているとしても。いつ発症するのだろう。あとどれだけ、何を為し得るのだろう。強く、強くありたい。最期のときまで。そうすればきっと、何かが残る。自分の消えてしまった世界に、自分の生きた証が。
「う……ん」
竜が声を出したので、霖は考える事を止めて駆け寄った。
「竜、竜、大丈夫?」
「……霖?」
ぼうっとした顔で、不思議そうに、でも今度はちゃんと真っ先に自分の名を呼んでくれた。霖は今はそれだけでも嬉しい。あの不吉な天使のもとから、竜は自分の所へ帰ってきてくれた。
「ここは……どうして……」
「助かったんだよ、竜! あたしたち……生きてるよ!」
そう言って霖は愛おしそうに竜の腕に頬を押し当てた。だが、その言葉を聞いて竜の表情は曇る。
「なぜ……なぜ死ななかったんだ。きみはいい、霖、だが俺は、あそこで死ぬべきだったのに!」
「竜はそう言うと思ってた。でも違うの、竜にはまだやる事があるんだよ。竜にしか出来ない事が」
そう言って霖は、ウリエルやラファエルの事、マリアと裁きの真実、牢の中ではマリアに知られるのを恐れて言えなかった事情を全て説明した。口下手な霖が、ウリエル達の技術を目にしてもいない竜に全てを納得できるように話すのは容易な事ではなかったが、途中でウリエルとラファエルも加わって、この地上の人間が見た事もないような立体画像や道具を出して話を信用するよう説得し、ようやく竜も状況を把握する事が出来た。
「そんな事が……マリアが作られた存在だとか、裁きが月に住む人間の企みで行われているとか、とても信じ難い……だが現に、あれだけの傷が殆ど塞がりかけているし、空を飛んでいたのも微かに覚えている。それに霖が言うのだから、信じない訳にもいくまい」
竜がそう言うと、霖はほっとして竜の手を握り締めた。竜はその手を握り返す。
「俺が破壊獣を止められる可能性があるのなら、何だってやる。罪を償う機会を与えてくれた事、感謝する」
これはウリエルとラファエルに向かっての言葉だった。二人が頷いた時、アクセルが室に入ってきた。
「随分顔色もよくなったな。まったく、しぶとい奴だ。まあおかげで希望が見えてきたけどよ」
「アクセル!」
竜ははっと顔色を変える。
自分がアクセルに対してしてきた事……彼を信じず、マリアに騙されてのぼせ上がり、敵視してしまった事。それは、どう謝っても許されるような事ではないと思った。彼は痛む身体を起こした。
「竜?」
霖の問いかけにも応じず竜がしたのは、土下座だった。
「すまん! 俺を殴ってくれ! 許してくれなんて言えない。お前の気の済むようにしてくれ!」
「……」
アクセルは無言のまま暫く、そんな竜を見下ろしていた。
「け……怪我してるのよ。お願い、許してあげて」
霖は、険しい顔のアクセルに懇願する。ふっとアクセルの表情が和らいだ。
「……馬鹿。俺だってくたびれてんだ。余計な手間かけさすな」
本当は一発くれてやりたい所だったが、土下座された上に女から許しを乞われて、しかも相手は怪我人である。アクセルはただ、呆れたようにそう言っただけだった。
「アクセル……」
「俺の事はもういい。だがいいか、お前が先生を死なせた事については許しはしない」
「そうだ……俺は、ハリストック先生をこの手で……」
竜は唇を噛んで己の右手を睨み付ける。アクセルは続けた。
「だが、先生がお前を許すならば俺も許すしかない。先生がお前を許すとしたらそれは、お前があの獣を止めた時だ。解るか、謝ったり反省したりしてる暇はねぇ。こうしてる間にも、あの獣は人を殺してるかも知れないんだ」
「そうか……そうだった。止めたからと言って、殺された人が戻ってくる訳じゃないが、とにかく俺はやらなければ」
「そういうこった」
肩を竦めるとアクセルは部屋を出て行った。
「獣は、あの獣はどこにいるんですか?」
竜はウリエルに尋ねる。
「南の方だ。さっきの乗り物を使えば二時間くらいで行ける」
「じゃあ、すぐに連れて行って下さい!」
「身体は大丈夫なのか? 言っておくが、この作戦は必ず成功するという保証はない。相手も何らかの対抗措置を考えている筈だ。マリアというあの女を通じて何か仕掛けてくるだろう。失敗すれば、君は死ぬかも知れない」
「俺の事なんかどうだっていい。俺に出来る可能性がある事をやるだけだ。頼む、すぐに連れて行ってくれ!」
ふらつきながら立ち上がった竜を霖が支える。ウリエルは頷いた。
「解った。もう準備は出来ている」




