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5・再会

 日が落ちてきた。夕日に赤く染まった空を見上げ、これが最後に見る夕焼けになるかも知れない、と思いつつ、霖は男についていく。

 男は霖に同情したのか、何か言いたげではあったが、余計な口をきく事を恐れたように無言だった。竜と関わる事で面倒に巻き込まれたくないのだ。折角助かった命を無駄に危険に晒したくない気持ちは霖にもよく解る。


「ここだ」


 やがて男の足が止まった。土を塗り固めて作り上げた粗末な牢には入り口がない。周囲には見張りの他にもまだ何人か集まっていて、絶えず中の罪人に罵声を浴びせたり石を投げ入れたりしていた。


「なんだ、その女は?」


 見張りが尋ね、男は事情を説明する。マリアの許可が出ている事が判ると、人々はあっさり霖を通してくれた。

 見張り番が大きな梯子を持ってきて壁にかける。梯子でしか出入り出来ない仕組みなのだ。罪人の場合は、上まで昇った所で突き落とされ、大抵骨折などの怪我を負う。見張りの男もそれなりに霖に同情したようで、霖は突き落とされずに、縄ばしごで中へ下りる事を許された。


 中へ下りる頃には、陽は完全に落ちていた。この夜は曇天で、月明かりもない。手探りでないと前へ進む事も出来ない。だが、少しずつ闇に目が慣れ、背中を丸めた人物が狭い牢の壁際に向こうを向いて座っているシルエットが判るようになってきた。


「……竜?」


 その名を呼ぶには、体中から、この数日で殆ど消費してしまった勇気の残渣を掻き集めなければならなかった。霖の声は嗄れて、人影は最初全く反応しなかった。霖はどうしていいか判らず、いっそたった今、死が訪れれば、もう何も感じなくて済むのに、とさえ一瞬だが思った。だが、まだ安息は彼女に与えられなかった。

 時間の感覚が失われたかのような数秒間が過ぎて、人影が身じろぎし、ゆっくりと振り向いた。その様子はひどく億劫そうで、彼が最早何にも興味も希望も抱いていないと霖は強く感じた。……だが、それは誤りだった。


 竜は残された僅かな視力を駆使し、闇を透かし見て、牢の中に女がいるのを知った。彼の意識はその瞬間、たった一人の人に結びつけられた。たったひとり、彼の微かな理性の感じるかつてないほどの憎悪、彼のそれでも捨てきれない信じがたい愚かしい愛を、一身に集める、たったひとりの女に。彼は全身の痛みも束の間忘れ、蹌踉めきながら立ち上がり、ぞっとするような潰れた声で呼んだ。


「マリア……?」


(ここは、とても、臭い……)


 不意に霖は、そんなことに気がついた。竜が動いた途端、彼の強い体臭、特に、投げつけられた汚物の腐敗臭が、澱んだ臭気を新たにかき回したようだった。


「マリア、なぜ……」


 もしも自らの死の運命さえなかったら、とっくにこの場を逃げ出していただろう。或いは、他の皆と一緒に石を投げさえしたかも知れない。

 ただ彼に会うために……いや、彼に少しでも近いところで死ぬために、それだけのために、辛い道程を越えてきたのに……何が起こったのだろう、目の前の汚らしい男、血と汚物と膿にまみれた哀れな罪人、呪文のように他の女の名を呼ぶ男、それが彼女がすべてをかけて愛している男だなんて!

 ショックの余り、霖は自分が立っているのかどうかさえ判らなくなった。強くて優しくてハンサムで、皆に好かれた竜、誰よりも尊敬していた賢い竜、彼女が必要だと甘く囁いてくれたあの日の竜は、永遠にいなくなったという事実が、彼女の最後の希望を欠片まで打ち砕いた。


 気がつくと、首筋まで幾筋も涙がつたい落ちていた。疲れはてた彼女にはもう、竜を憎む力が残っていなかった。自分を変える力も残っていなかった。


「竜……大丈夫?」


 か細い声で霖は言った。こんな風になってもまだ、自分は竜を愛しているようだという事に気付き、霖は殆ど自分自身が他人のように思えた。


「マリア……」

「竜……」


 むなしく空を切って彷徨う竜の手を取り、その汚れた頭を始めはそっと、それから傷を避けて強く抱きしめる。顔にも手にもべっとりと何かがついた。だが、そんなことも、悪臭さえももうあまり気にならなかった。


「マリア……」


 竜は子供のように霖の胸に顔を埋め、身を委ねる。竜の額にこびり付いた黒い血の塊に霖の涙が伝い、赤い筋となって流れた。


「竜、あたしよ……」


 泣きながら霖は囁きかけた。


「あたしよ……」


 二度目の囁きかけに、竜の身体が不意に強張った。霖の手を払い、顔を上げる。腫れ上がった顔にはあまり表情がなかったが、激しい驚きを感じていることは霖にも伝わった。まさか、という言葉の形に口が動いた。


「――霖?」

「そうよ……」


 どちらもそれ以上何も言えず、重い沈黙が二人を包んだが、気まずささえ感じる余裕もなく、何を言うべきかのろのろと思考を巡らすだけだった。やがて、急にやや興奮気味に竜が口を開いた。


「俺は……」


 だが何か言おうとして、竜は激しく咳きこみ、力無く座り込む。


「なぜ……なぜここに……?」


 聞き取りにくい声でそれだけ言うのが精一杯だった。だが、驚きが彼の理性を呼び覚ましたようだった。その目には先刻のような狂気に近い危うい光はなく、ただ静かな絶望だけが湛えられていた。


「なぜって、竜、あなたに逢いに来たんだよ」

「俺の……したことを、知らない、の、か?」


 苦しげに竜は問う。


「聞いたよ、ぜんぶ聞いた」

「じゃあ、なんで」

「なんでって……」


 少し考えてから霖は応えた。


「逢いたかったからだよ。他に理由がいるの?」

「俺は……」


 彼は喋るために喉の痛みを和らげようと唾を飲み込んだが、余り功を奏しないようだった。だが、幾分かは彼の言葉も聞き取りやすくなってきた。


「俺は、君にそんな風に、言って貰う資格が、ない……」

「資格って、どうして?」


 霖は無理に微笑もうとした。姿は変わり果てても、やはり竜なのだ。後悔と自己嫌悪に押し潰されようとしているその姿に霖は、今だけかも知れないが、怒りも嫌悪感も流れてしまい、ただ深い悲しさだけが沁み通るような気がした。


「あたしたち、婚約してるんじゃないの。普段は離れていても、大事なときには、側にいるものじゃない?」

「霖……君が、そんな事を言ってくれるなんて、思っても…みなかった……」


 自分でも、こんな風に言うなんて思ってなかった。ただ逢って、確かめたい、何が起こり、彼はどう変わってしまったのかを……それだけしか、思ってなかったのに……。すべて何かの間違いで、ただ竜は誤解され、とばっちりを喰らっただけなのだ、という儚い希望を抱いていた。だが彼を見た瞬間、すべてが残酷過ぎるほどに現実なのだと判ってしまった。


「ごめん、霖……」


 腫れ上がった竜の目から涙が落ちた。霖がこういう娘だと、昔から知っていた筈なのに、どうして自分は忘れてしまっていたんだろう? 自分にとって何より大切な、優しい明るい光。いつからこの光を見失い、闇に堕ちてしまったのか。闇……霖を前にして、竜はようやく、マリアは闇の使いであったのだと確信できた。だが、何もかもが手遅れだった。


「どうやって、はいった? ここにいたら、君の身もあぶない」


 マリアがすんなり彼女を自由にするとは思えない。何もかも諦めきっていた竜の胸に、霖を救わなければ、という思いが生まれた。しかし霖はそっと竜の頬を撫でて言った。


「あたしはいいの。あたしは、あなたと死にたい」

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