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1・天使降臨

 同じ頃。

 マリアは、都市の内で原型を留めているわずかな建物の中で、最も居心地がよいと思える家屋の一室で、身体を寛げていた。背には純白の双翼を隠すこともなく伸ばしている。


「ご気分はいかがですか、マリア……さま」


 ぎこちなく茶を運んできたのは、かつて守備隊に勤務していた男だ。運良く難を逃れた。


「いい訳ないでしょ。こんなボロ部屋で……もっとましな部屋はないの?!」


 マリアは眉を吊り上げ、男を睨み付けた。


「も、申し訳ありません!」


 男は九十度以上に頭を下げた。かつては、彼女に気安く軽口を叩いていた若者である。憧憬の念を持ちつつも、到底自分とは釣り合わないとはなから諦め、ただたまの機会に声をかけていただけの男だ。

 清楚で可憐で控えめで心優しい美少女……かつて、マリアを知る誰もが(アクセルを除いて)持っていたイメージは、欠片もなく払拭されていた。しかし、誰一人として、彼女の言動に対して疑念を口にしたり、逆らったりする者はない。相手は、天使なのだ。


 破壊獣がとりあえず視界から消え去った後、人々を助けようと奮闘していた竜は、あっという間に群集に囲まれ、暴行を受けた。災いをもたらしたのは倉沢竜……その噂は瞬く間に生き残りの全てに伝えられた。運良くいのちを拾ったとはいえ、大切なひとやものを失わずに済んだ者は殆どいない。嘆きは、ただ憎悪となって噴き上がった。ぶつける先が目の前にあったのは、彼らにとっては救いだった。


「この野郎! どうして封印を解いた?!」

「お前が余計な事をしたせいで、この町は!」

「女房を返せ!」

「あの子を、あの子を返してよお!」

「返せ! 返せ!」


 数十人に囲まれ、殴られ蹴られ、棒を石をぶつけられ、何度も骨の折れる音がした。竜の肉体的苦痛は、極限に達していた。だが、かれは自分を庇うことは一切せず、ただ群集の意のままに任せていた。


「すまない……」


 と、後になるにつれて聞き取りにくくなる言葉をただそれだけ、呟きながら。かれの感じやすい心は、ヒステリックな群集の心の痛みを余さず感じ取り、ただただ自責と後悔ばかりが膨れ上がっていた。肉体よりも精神の痛みが限界で、竜はもう、今にも速やかに死が訪れ、そのことが僅かにでも人々の救いになれば、とそればかりを願っていた。


(なぜ俺は……あんなにも愚かだったのだろう……)


 だが。意識が闇に呑まれかけた時、何者かが、それを許さなかった。


「止めよ!」


 凛とした声が響くのを、途切れそうな意識のもとで聞いた。


(マリア……?)


 彼の天使が、空から舞い降りた。片目は潰れ、もう片方は血で塞がれ、よく見えなかったが、純白の翼を羽ばたかせ、優雅に舞い降りたのは、確かにマリアだった。


(俺を救いに? ばかな……)


 彼は、この期に及んでもまだ、マリアに謀られたのだとは、信じたくなかった。半分以上、わかってはいたけれども、全身全霊を込めて愛した娘、そして崇拝した天使が、悪意の塊であったなど、間違いであって欲しかった。それよりは、彼女の選択がただ誤っていただけで、自分が不適格であったのだと考える方が、まだましだった。


「マリ……逃げ……」


 ここにいたら、彼女も群集に何かされるかも知れない。そう、微かな意識の中で彼は心配した。災いを招いた発端であるし、竜の恋人と皆知っている……。


 だが、実際は、ただの人間にはあり得ない翼を持ち、空から舞い降りた娘に、群集は畏怖の念をもってどよめいた。


「て、天使さま?!」


 木材を持った年配の男が叫んだ。


「そうだ、天使さまだ!」

「我々をお救いにいらしたのだ!」


 そうした声が広がり、暫し、竜への憎しみは忘れられた。だが、一人が言った。


「いや待て、あれは倉沢の女のマリアという娘じゃないか?」


 彼は警護隊の一員だったが、妻と子供がこの町にあり、そして失った。竜の最近の変貌ぶりに、最初に憂慮を示した者でもあった。


「何かのまやかしかも知れんぞ!」


 彼は叫んだ。マリアは、凍てつくような視線を投げた。


「そなた……ディクスといったか」

「あ、ああ、そうだが」

「何ゆえに、聖獣はそなたを見逃したのであろうかの。そなたは死すべき名簿に載っておる」


 そう言うがいなや、マリアはディクスに歩み寄り、右手で喉を摑んだ。


「がっ……」


 頚骨が折れる鈍い音がして、ディクスは死んだ。


「我は全能の神より使わされし天使なり。我に抗う事は許されぬ」

「天使さま!」


 群集をかき分けて、一人の女が飛び出した。


「お願いです! どうかお慈悲を! この子を、この子をお救い下さい!」


 彼女は、頭にひどい損傷を負った息子の屍を抱いていた。マリアは大して興味もなさそうに、死んだ子供と母親を一瞥した。


「いかな我でも、消えたいのちを瞬時に取り戻す事は出来ぬ。その子供は、死すべくして死んだのであるし」

「そんな……この子には何の咎もありません。まだ二つで、多少のおいたはしても、神様に逆らうような事など、まったくありません。おとなになれば、神様の敬虔なしもべになった筈です。どうか、どうか……!」

「そうか」


 マリアはなぜか、にやりと笑った。釣られて、母親もほっと笑む。救いの可能性を感じたからだ。


「命の対価は命である。そなた、息子の為に死ねるか」

「!! ……もちろん、いつでも、その覚悟はできています」

「ならば、身代わりにそなたの命を徴収しよう。息子は、三日の後に息を吹き返すであろう」

「……ありがとうございます! ありがとう……」


 言葉尻は、血が喉に詰まるごぼっという音に置き換えられた。マリアに首を折られてこの女も死んだ。

 それをきっかけに、自らの命と引き換えに、愛する者を蘇らせてほしいと望む者が十数人進み出た。マリアは半ば面倒そうに、かれらの首を折った。

 それから、群集に告げた。


「復活は三日後じゃ。だが、それまでに何より、聖獣の怒りを解かねばならぬ。明日、この大罪人のいのちを、聖獣に捧げるのじゃ。それにより、そなたらや、残された人どもは救われよう。明日……それまでは、この男を、殺してはならぬ」


 ざわめきはすぐに、歓声に変わった。天使は、恋人を救いに来たのではなく、大罪人を裁く為に来たのだとわかったからだ。


「天使様! 天使様!」

「救い主、万歳!」


 そんな歓声が沸き起こり、すぐに全体に広まった。

 

 こうして、マリアは生き残りの市の住民を統べ、竜を牢へ入れた。数メートルの土壁に囲まれているが天井はなく、民衆が外から梯子をかけ、罵りながら小石や汚物を囚人にぶつけるのは、禁じなかった。竜は、血と汚物と泥にまみれ、罵声を浴びながら、ただ俯いてじっと座していた。身体中がひどく痛んだが、心の痛みに比すれば、何でもない事に思われた。


(子供を助けたい母親を……笑いながら殺した……マリア……)


三日後の蘇りなど、ありはしないだろう。約定をした時のマリアは、ただ悪意のみを放っていた。なんでもいいから縋りたい、そういう絶望の気持ちを持つ者たちには、感じられなかったのか。

 どうして、封印を解いてしまったのだろう。アクセルは何度も警告してくれていたのに、なぜ、自分は耳を貸さなかったのだろう。自分は天使に選ばれた救世主だと信じ込んで……なんと愚かだったのだろう。


(誰だって騙されるさ。なにせ、相手は天使なんだ)


 そう、思いたい。しかしアクセルは見抜いていた。ハリストックも。老医師の死に様を思うと、胸が貫かれるように痛んだ。


(俺が殺した……あんなに何度も命を救ってもらったというのに)


 アクセルとハリストックと共に、笑いながら飲み明かしたかつての記憶が今はただ苦しい。この苦しみは絶対に癒えない。取り返しのつかない事などあり過ぎるのが現実と知り抜いているつもりだったのに、後悔の念に押し潰され、瞬時も息がつけない。今すぐに死んでしまいたい。あのまま、群集にいたぶり殺されてしまえたらよかったのに。だが、そんな望みすら、犯した罪の重さを思えば、贅沢なものなのかも知れない。

 本当にマリアの言うように、自分が生贄になる事で皆が救われるのなら、喜んで命を捧げたい。だが、彼女の言動は、ただ人間を苛め苦しめる事が目的である気がしてならない。救いなんか最初からない……あの言葉が、どんな希望をも握り潰してしまう。天が人を滅ぼそうとする時、抗う術などあるのだろうか。


 なぜ、マリアはあんなに人間を憎んでいるのだろう? 何の罪も犯していない幼子までが無惨に殺されなければならないほど、人間の存在自体が悪だとは、竜にはどうしても思えない。思えないその傲慢さが、神の怒りをかっているのだろうか。


 アクセルはどうしただろう? 彼の事だから確実に南部へ災厄を伝えたに違いない。だが、その後は? まさか、戻ってくる事もあるまいが、もしももう一度会えるなら、謝りたい。謝ったからといって許される訳もないが……。


 霖はどうしているだろう? 久しぶりに竜は婚約者の名前を思い出した。虐殺に巻き込まれないよう……ただ、祈る事しか自分には出来ない。ひたむきな眼で自分を慕ってくれた、歳下の幼馴染み。いつから愛情が芽生え、そしていつからそれを忘れていたのだろう? 出来れば、マリアとの事は知らないまま、虐殺で死んだと思って欲しい。そして、いのち長らえて、誰かと幸せに暮らして欲しい……。

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