2・希望
集団は黙々と歩み去っていった。アクセルが向かう方角……テンプルシティから離れる方角へ。アクセルはひらりと馬から下りた。その時、もう一つの声が彼を呼び止めた。
「待ってよ、オーウェンさん。僕を下ろして」
「なんだ、男のくせに一人で下りれんのか?」
アクセルの体躯に隠されていたが、彼の後ろには小柄な少年がしがみついていたのだ。
「乗った事ないんだ」
「飛び降りろ」
振り向きもせずにアクセルは言い捨てて、構わず霖の方へ駆け寄った。
「しっかりしろ、秋野!」
裂けた衣服の代わりに上着を掛けてやり、出来るだけ静かに抱き起こすと、彼女はうっすらと目を開け、竜……? と呟いた。
舌打ちを懸命に堪えて、
「違う、アクセル・オーウェンだ。判るか?」
数秒の間を置いて、霖は微かに頷いた。
「アクセル……そうよね……」
「お姉さん!」
アクセルが振り向くと、ラファエルは我慢強い馬のたてがみをしっかりと握ったままで、転げ落ちるように飛び降りる所だった。
「だれ……?」
しかし、苦痛に霞む彼女の意識は、知己になって間もない少年をすぐに認識することが出来なかった。
「お姉さん、可哀想に……。すぐ、楽にしてあげるよ」
ラファエルは駆け寄り、懐から何かを取り出した。
「それは?」
不審げなアクセルに構わず、ラファエルは小箱の中から小さな筒を取り出し、霖の腕に押し当てた。
「あ……」
程なく霖はふうと大きな息を漏らす。
「本当……嘘みたいに楽になったわ……」
「強力な鎮痛剤だけど、治癒効果がある訳じゃないからね。早く治療を受けたほうがいいよ」
「……大丈夫。ラファエル。もう動けるし」
霖はゆっくりと身を起こす。その時、掛けられた上着が下に落ちた。一瞬の沈黙の後、初めて、呆けたような蒼白な霖の顔に血の気がさし、上着を引き寄せると、彼女の身体を支えたままだったアクセルの腕を激しく振り払った。
「いやっ……!」
「秋野……!」
「嫌……触らないでっ!」
よろめきながら立ち上がろうとしたが、力が入らずにそのままへたりこむ。
「すまん、秋野。もっと早く来ていれば……」
敢えて手を差し伸べずにアクセルは言った。その声には真からの悔恨に満ちている。霖の双眸から際限なく涙が滴り落ちた。
「いや……」
「ごめん、お姉さん。俺がついて行ってたら……」
「いやよ!」
振り絞るように霖は叫んだ。
「こんなのいや! いやよ! なんで? なんでよおっ……!」
絶叫し、その度咳こみながらも、霖は泣き叫ぶのを止める事が出来なかった。死の宣告を受けて以来、押さえに押さえてきたものが堰を切って溢れた。
「なんで! あたしが何したっていうのよ? りゅうっ……嘘でしょ……ねえアクセル、竜はどこ? どうして来てくれないの? 竜っ……!!」
二人の男は途方に暮れたように互いに顔を見合わせる。これほどまでに傷ついた女をどう扱えばいいのか、まるで術が判らない。もともとアクセルはただでさえ口下手な男である。どうしてこのラファエルは女じゃないんだよ、と身勝手なことを痛切に思った。
「なんであたしなんか助けたのよ。あたしなんかあの人たちに殺されればよかった。そしたらもう何も考えずに済んだのに!」
「バカな事を言うな」
ようやく返す言葉が見つかって半ばほっとしながら、叱るようにアクセルは言い返す。
「数え切れん人間が死んでるんだ。命を粗末にするな」
「どうせあたしは死ぬのよ。その子に聞かなかったの?」
「あと二日は生きていられるんだろ? もう既に殺された奴がたくさんいるんだ。そいつらに比べれば、今のところおまえは長生きなんだ!」
「……なんかヘンな理屈……」
背後でラファエルが呟く。アクセルも自分で何を言っているのかよく解らなかった。
「おまえは最期の瞬間まで竜に近づく為に歩いてたんだろ? 最期まで何かをやりとげようという意思があれば、おまえは死ぬまで生きていたと胸を張れるんだ。だから、自分から死ぬなんて考えるな」
「でも、竜は死んでしまった。罪を犯して、みんなに憎まれて。もうあたしにはやりとげたい事なんかないの!」
「死んだかどうかはまだわからん!」
アクセルは叫び返した。霖は眼を見はった。
「何ですって……」
アクセルはしまったという表情になる。
「いや、すまん。死んだに決まっている」
「あなたは、竜が死ぬのを見た訳ではないの……ね?」
「……」
アクセルは返答に迷い、視線を逸らした。
霖にとって、竜が死んでいたほうがいいのか、生きていたほうがいいのか、どうにも判断がつきかねたからだ。だが、アクセルのその素振りが、霖の求めていた答えそのものだった。
「竜が、生きているかもしれない……」
霖は、そう口に出してみた。
複雑な感情が渦を巻き、自分はどう思うべきなのか、咄嗟に判断できない。嬉しい? そうに決まっている。でも、怖い、とも思っている。竜の犯した罪に向き合うのが怖い? それもある。が、それだけではない。竜に生きて欲しい、と願いながら、心の奥では、竜が自分の死んだ後も生きている事が、寂しかったのかも知れない。心の奥では、竜が自分と共に死んでゆくのを願っていたのかも知れない……。
そんな事をごちゃごちゃと思ったのは、ほんの一瞬の事だった。アクセルが言った。
「すまん、期待させるような事を言って。しかし、本当に奴が生きている訳ないんだ。奴は街に向かって行った。獣に殺されていなければ、街の生き残りに捕えられたに違いない。それに、奴もそれを望んでいた気がする……よもや、逃げのびてはいまい。死んだ……そうとしか思えない。」
「いや、彼はまだ生きている」
不意に、この場の誰のものでもない声がした。アクセルは反射的に剣を掴んだ。何の気配もさせず、一人の男が三人の背後に静かに立っていた。
「ウリエル」
はっとした表情でそう呼んだのは、ラファエルだった。
戸惑いの色が僅かに彼の面をよぎったが、段々とその目は今までと違う引き締まった光を湛え出す。浅黒い肌の涼やかな目をした男は、ラファエルの肩に手を置き、その顔を眺めたが、敢えて何も言わず、アクセルの構えなど何も気づかぬ風で霖に歩み寄った。
「久しぶりだな、秋野霖」
「あんたは……ウリエル? また会うなんて、思わなかった。夢だったかとさえ、思っていたのに」
霖はぼそぼそと言った。何故彼がここにいるのか、無論判る訳もなかったが、その理由を考える力もなく、ただぼんやりと男の顔を見上げた。
「誰だ?」
アクセルは眉を顰めつつ、霖とラファエルを交互に見て尋ねた。全く気配も窺わせず背後に立ったこの男は、確かに只者ではない。しかも、霖とラファエルの共通の知人とは……?
「わたしはウリエルと呼ばれる者。わたしがどういう者かを詳しく語る暇はない。だが、君の敵ではない。わたしはただ、彼女に告げに来たのだ。倉沢竜はまだ生きている事を」
「なぜあんたにそんな事が判るんだ? まさか見てきた訳じゃあるまい?」
「いや、見てきたのだ」
胡散臭そうにウリエルを見るアクセルに向かって、ラファエルが言った。
「オーウェンさん、彼が言うのなら間違いない。よかった、最悪の事態じゃないって事だ」
「しかし、仮にこいつが言うのが本当だとしても、今はもう殺されてるかもしれん。徒歩で来たなら……」
「いや、ほんの先程見てきた事だ」
アクセルは黙ってウリエルを眺めた。
馬を飛ばしても一日かかる行程だ。戯言に耳を貸している暇はない。もしテンプルシティから来たという話が事実なら、余りの惨さに気がふれているとしても何の不思議もない。アクセルは立ち上がった。
「待ちなさい。気の短い男だな」
「この状況でのんびり戯言に付き合うほど気が長い人間が存在するのか?」
「戯言ではない。誰が徒歩で来たと言った?」
「馬なんかいないじゃないか」
「乗り物は、その丘の向こうだ。来なさい」
そう言うと、ウリエルはすたすたと歩いてゆく。ラファエルが霖の手を引いて立ち上がらせた。態度を決めかねているアクセルに霖はかすれ声で言った。
「あたしも一回会っただけなんだけど……ちょっと常人離れした男よ。滅茶苦茶強いし……。他に出来る事もないから、あたしは取りあえずあいつの話を聞いてみる」
霖は、『竜が生きているのを確かめた』というウリエルの言葉に全てを賭けてみたいと思っている様子だった。
「おまえがそう言うなら、信用しよう」
アクセルは軽く肩をすくめた。
確かに、他に出来る事は、墓作りくらいしかない。
南方に凶事を伝えたので、テンプルシティ駐留軍の警護隊副隊長の任は果たし終えた。後は、この身ひとつを守るだけだが、逃げ隠れするのは性に合わない。一体、この世界に何が起きたのか、そして、マリアとは、破壊獣とは何なのか、知りたかった。それを知る事だけが、親身になってくれたハリストックへの唯一の供養になるとも思った。
だが、手がかりは何もない。ならば、今は、このかつての親友が愛した女を守ってやろう。万一、再び竜に会う事が叶うならば、それが真実を掴む為の一番の手がかりにもなる。
そんな事を考えながら丘を越えたアクセルは思わず呆気に取られて立ち尽くした。
「な……なんだ、これは?」
見た事もない物体があった。数人が入れる小屋くらいの大きさで、つるりとした金属のようなもので出来ている。霖も不思議そうに見ている。
「よく動いたものだね、この年代ものが。僕のシャトルは着地時に大破して、積んできたエアバイクもおしゃかになったから、どうしようかと思ってた」
ラファエルの言葉に、ウリエルは深く頷いた。
「二千五百年以上、眠っていたのだ。全く、さすが克巳の作った物だ」
そう言うと、ウリエルは霖とアクセルに向かって、乗りなさい、と促した。
「の、乗る……?」
思わず、この球体に跨る姿を想像した霖とアクセルだったが、ウリエルが手の中で何かを操作すると、音もなく側面が開き、中に部屋があるのが見えた。
「大丈夫、わたしの車だ。これでシティの傍まで一時間もかからない。乗りなさい。ただ、馬は置いていってもらうしかないが」
「おまえは一体、何者なんだ?」
「道中、ゆっくり話したいが……そうだな、破壊獣の元の飼い主の友人だ、と言えば納得してもらえるだろうか?」
「ウリー!」
ラファエルが非難めいた声を上げたが、アクセルはそれを聞いてあっさりと頷いた。
「成程、俺たちとは違う生き物なんだな。あの女に一矢報いる為には、俺の力だけではどうしようもない。あんたが敵でないなら、あんたの言う通りにしよう」
「あの女、とは?」
「俺の友人を誑かし、破壊獣を解き放った女だ」
「ふむ……我々もその女に会い、真意を確かめたいと思っている。一刻も早く破壊獣を止める為にも」
「そうか。なら、俺たちは敵同士ではない」
そう言うと、アクセルはさっと馬の手綱を解いて荷を下ろした。
「いいな、南へ行け。おまえはよくやってくれた」
ぽんぽんと鼻面を叩かれた馬は、少しだけ長い首を傾げるような仕草を見せたが、すぐに身を翻し、南のほうへ駈け去って行った。
「おまえは? 秋野」
ラファエルの肩に軽く寄りかかって立っていた霖は、アクセルの問いに小さく頷いた。
「勿論、一緒に行くわ。一時間で着くなら……竜に会える。そうでしょう?」
彼女の時間は限られていたのだという事を、アクセルは思い出した。普通の手段では、たとえ竜が生き長らえても、霖は会わずに命が尽きてしまうのだ。
「……そうだな、よかったな」
アクセルはそう応えるしかなかった。そして、四人はエアカーに乗り込んだ。




