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1・暴力

 砂埃は益々その激しさを増し、少しでも襟を立てる手を緩めると容赦なく鼻腔に入り込もうとする。

 それは、あと僅かのダメージでも受けたらそのままそこにへたりこんでしまいそうな霖を打ちのめすのに充分な力があった。にも関わらず、霖は憑かれたように歩き続けた。あまりの絶望感に窒息しそうになりながらも歩みを止めなかったのは、強い意志の力のおかげでも、まして愛の力のせいでもない。


 ただ、今の彼女を支配するのは、恐怖、だった。

 ここで歩くのを止めたら、何もかもが終わってしまう。ここで歩くのを止めたら、それは、彼女自身の死、竜の死、世界の死を受け入れる事になってしまう。歩いたからって、それらを阻む手だては何ひとつないけれど。

 意識はしていなかったが、彼女は百パーセント絶望する事が恐ろしかった。こんな事態になってもまだ、彼女は、自分でも意識せずに、ひとすじの希望の光を見失ってしまう事だけを恐れていたのだ。その恐怖心だけが、最後のひとしずくの体力が尽きるまで彼女を動かし続けるようだった。

 それを、強さ、と呼ぶべきか、生き汚い執着心、と呼ぶべきか、答えを出せる者はどこにもいない。


 そうして何時間が過ぎたのか、太陽が傾きかけた頃、半ば意識を失いかけたようにして歩いていた霖の集中力が、吸い寄せられるように戻った。

 数百メートル先に、動くものが見える。ひとつではない。それは、いくつかの人影。街道を逆に歩いて近付いて来る。都市の、生き残りかも知れない。


 霖は瞬時に考えを巡らせた。

 全てを失い、逃げ延びてきた人々。他者に干渉する気力など残ってないに違いない。しかし或いは、自暴自棄に陥っていて何をするか判らないかも知れない。何しろ街道を逃げたからって、破壊獣から逃れられるかどうか判らないのだ。聖典には、破壊獣は四十日間世界を駆け回り人を殺戮すると書かれているではないか。


(だけど……)


 彼らと話せば、詳しい状況が分かるだろう。ひょっとしたら、警備隊長の竜の消息も分かるかも知れない。霖は決断し、彼らが近付いて来るのを立ち止まって待った。


―――この決断が大きな過ちである事を、彼女はすぐに身を以て知る事になる。


 近付いて来たのは、八人の男女だった。男が六人、女が二人。年の頃は二十代から四十代といった所だが、一様に汚れ、やつれ、どこかに傷を負っているようだった。

 女二人は霖に気付いても殆ど表情も変えず、そのまま通り過ぎようとする。だが男たちは、不審げな表情を浮かべて霖を見た。


「……なんだ、お前? この先で何があったか、知らねえのか?」


 一番年かさに見える男が足を止め、言った。ぶっきらぼうだが、敵意はないように感じられた。霖は唾を呑み込んだ。


「聞きました。あの……テンプルシティはどうなったんですか? 生き残りの人は……」

「知るかよ!」


 吐き捨てるように若い男が言う。


「俺達の知ってる奴で、ここにいない奴は死んでるってこった。他の奴等がどうなったかなんて知るかよ!」

「姉さん、悪いが逃げ出せた者など殆どおらんと思う。俺達は町外れにいて、運が良かったんだ。知り合いを捜しに行こうってんなら無駄な事だ、やめときな」


 髭面の、片腕を肩から吊った男が、疲れた口調で言った。


「でも……」

「うるせえ、このアマ! ぶっ殺すぞ!」

「やめんか、ロイ。無駄な体力使うな」


 窘められた若い男は忌々しげに唾を吐く。


「体力とっといたって何の役に立つんだよ! どうせ俺らみんな死ぬんだよ!」

「うるさいわね、ロイ。泣き言言って歩くつもりないなら置いてくよ!」


 女が怒鳴った。年かさの男がロイの背中を突き飛ばすように押し、ロイは悪態をついたが男に従い、そのまま集団は霖に対する興味を失ったように歩き去ろうとする。


「待って!」

「来たけりゃ一緒に来るがいい。足手まといになりゃ、置いてくがな」


 髭男が振り向かずに言う。


「いいえ……私は北に行きます。でも、もし知ってたら教えて。警護隊長の倉沢竜がどうなったか……」


 八人の足が止まった。


 凍りつくような憎悪の念が、思いもしない程の激しさで迸るのを、霖ははっきりと感じた。

 彼らは一斉に振り向いた。その表情は最早、先刻までの、生気を失った逃亡者のものではなかった。残り少ない命の炎が、憎しみの油を注がれて一気に爆発した、そんな感じだった。


「なんて言った?」


 年かさの男が前に進み出た。


「倉沢、だと? そう、言ったな?」


 霖は恐怖を覚えてあとずさった。


「貴様、あの男の何だ?」

「……」


 気丈を自負する彼女が、この時ばかりは気圧され、言葉が出なかった。


「……言え!」


 髭男が怒鳴った。


「どうして……どうして? わたしは婚約者よ……。どうして?」


 一瞬の沈黙の後、狂ったように笑い出したのは、ロイという若者だった。


「こいつはいい! あいつの女かよ! なあ、最悪にいい運が向いてきたぜ!」

「くそったれ神様が、俺達にくれた情けだぜ、きっと」


 男たちは目を見合わせ、霖を取り囲んだ。背後に立った二人の女の表情は窺えなかったが、止める様子がないのは明らかだった。霖は腰のナイフにそっと手をやったが、男たちもそれぞれ武器を持っているし、六対一では逃げようもない。


「どうして……どうして……」


 それしか言葉を知らないかのように、霖はただ繰り返した。


「自分の男が何やったか知らねえのか?」


 嘲るように一人が言う。


「知らねえフリしてんじゃねえの?」

「知らない……どうして、竜が何したって言うの?」

「黙れ!」 


 年かさの男が容赦なく棒で霖の肩を突き、霖は仰向けに砂の上に倒れた。


「てめえが悪いんじゃねえよなあ……。だがよ、都市の者のすべてが、あの男をズタズタに引き裂いてやりたくて仕方ねえんだよ。俺たちゃ、そんなチャンスもねえままに死ぬしかねえと思っていたが……」

「嬉しくて仕方ねえよ……この女滅茶苦茶にしてやれば、少しは姉貴も浮かばれるってもんだよなあ、兄貴」

「ああ、そうだな、ロイ」

「どうして? 竜が何したのよ?」


 不安と恐怖に震えながらも霖は叫ばずにはいられなかった。


「ほんとに知らねえのか。倉沢はなあ、警護隊長でいながら、街にあの獣を引き入れたんだよ!」

「医者を生け贄に、あの獣の封印を解きやがったんだよ!」

「奴は、人類皆殺しの張本人なんだよ!!」


―――


 こんな、にくしみ、かんじたこともない……。


 男たちに殴られ、蹴られ、滅茶苦茶にされながら、霖はただ、はやくねむりたい、と思った。それが死であってもいい。ただ、何も感じなくなりたかった。苦痛に泣き叫ぶ自分がいる。必死に許しを乞う自分がいる。だが、その自分を、他人のように眺めるもうひとりの自分がいた。

 惨めな、うちひしがれた、ぼろぼろの自分……そんな自分は、いらない。こんな苦しみ、夢にして、永遠に眠ってしまいたい……。苦しむ為だけの心なら、早く消してしまいたい……。苦しむ為だけの心……竜を、愛する心……。


「おい、動かなくなったぜ?」

「舌噛んじまったんじゃねえの?」


 誰かが足で、血まみれになった霖の身体を仰向きに転がした。


―――


 その時、何かが起こったようだった。


 女の警告の叫び。遠くから近付く、聞いた事のある音。男の怒号。罵声。

 耳鳴りのように流れていく周りの音を、何なのか考える事も出来ずに、霖の意識は遠く堕ちていった。望んでいた、闇へ……。


「誰か来る!」


 暴行を眺めていた女の叫びに、男たちははっと振り返った。騎馬は、すぐそこまで近付いていた。


「貴様ら、何をしている!」


 騎乗の男は馬を寄せるなり迷わず、呆気に取られている年かさの男に、抜き放ちざまに大剣を突きつけた。


「一人の女に寄ってたかっての狼藉……恥を知れ!」

「なんだ、貴様!」


 我に返って髭男が叫び返す。


「余計な真似すんな! この女はなあ、罪人なんだよ!」

「貴様らの方が罪人だ。折角助かった命をそんな事にしか使えんのか!」

「なんだと、てめえ!」


 男たちは一斉に気色ばんだ。だが、女の一人が声をあげた。


「待ってよ! この人は警護隊の副隊長じゃないか!」

「なに……」


 剣を突きつけられたままの男が戸惑った表情で馬上の男を見上げる。


「倉沢を止めに、ひとりで忌み森へ入って行ったって聞いたよ。間違えるもんか。災厄の真っ最中、あたしの子を、柱の下から出してくれたんだ。間に合わなかったけど……」


 涙まじりの女の言葉に、男たちは鼻白んで互いに顔を見合わせた。


「あんたが怪我人を助けてる所は俺も見た。あんたは倉沢の仲間じゃないようだな」


 年かさの男がゆっくりと言う。


「……まあな」

「この女は、倉沢の女と言うじゃないか。なんであんたが、この女を助けようとするんだ?」


 アクセルはまだ剣を収めずに、静かに言った。


「その女には何の罪もない。あんたらだって、本当は解っている筈だ」

「……」


 束の間の沈黙の後、代表して年かさの男が口を開いた。


「あんたは、シティに戻るんだな?」

「ああ。南には、知らせてきた。戻って命がある間は、墓でも作り続けるさ。俺には、あの街にしか居場所はない」

「そうか……」


 男は視線を落とし、呟くように言った。


「死んだエレナの子に免じて、あんたに譲ろう。それでいいだろう?」

「おやっさん!」


 不服そうにロイが叫んだが、髭男に一瞥されて黙り込む。アクセルは無言のまま剣を鞘に収める。言いたい事はまだあったが、ここで言い争っても互いに時間を無駄にするだけである……残り少ない時間を。

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