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7・破壊獣

 数秒の静けさの後、地鳴りに似た音が聞こえ始めた。壁の向こうで、何か大きなものが動き出す気配がはっきりと伝わった。


「マリア?」


 微かに不安げな表情で竜が振り返る。


「神が……おいでになるのかい?」


 その時、獣の咆哮が、まるで神殿全体を揺さぶるかのように、激しく響き渡った。聞いた事もないような、凶暴な、不吉な咆哮。


「マリア……神の裁きで許しを得たら、聖獣が目覚めるんだろ? あれが……あれがそうなのかい?」


 壁の向こうで、獣は苦しげに吠えている。その怒りが、竜を戸惑わせた。


「マリア?」

「……クッ……」


 俯いたマリアの肩が震えている。


「どうし……」

「アハハハハハ!!」


 マリアの哄笑が響いた。涙を流して、マリアは笑っている。


「ああ可笑しい! お役目御苦労様! これであたし、エデンに帰れるわ! さよなら、愚かなアダム!」

「な……な……何を言ってるんだ!?」

「本当に許されると思ってたの? 図々しい……おまえたちは、地を這い、虫ケラのように踏み潰されるのがお似合いなのよ!」

「どういう意味だ?!」

「まだ解らないの? おまえは、破壊獣を目覚めさせたのよ。最初から、救いなんかない……それが裁きなのよ」


 マリアの言葉と共に、正面の壁が崩れ落ちた。その向こうの空間に、見たこともない生き物がいた。一つの建物ほどもありそうな黒い体、獰猛な犬のような顔から剥き出された鋭い二本の牙、長い鉤爪、蝙蝠のような羽……。


「ウオオオオオオオオ!!!」


 獣は夜空に向かって、ぞっとするような咆哮を上げた。その声は、遠く街までも伝わった。


「ケルベロスはおなかをすかせているのよ。ずっと眠っていたんだもの」


 そう言うと、マリアは羽根を広げ、空へ舞い上がった。獣の赤い眼が、竜達のほうを向いた。竜はショックのあまり放心状態に陥っている。


「まさか……まさか……全部嘘……? 俺が、俺が破壊獣を……」


 ぶつぶつと同じ事を何度も繰り返し呟いている。体中が震え、言葉が止まらない。自分が何をしたのか理解する事を、本能が拒否していた。

 アクセルはまだ動けなかった。彼の顔の角度では獣の様子が見えない。そのおかげで、彼はなんとか冷静さを失わないまま考えを巡らす事が出来た。だが勿論、この無防備な状態では、どんな名案が思い浮かぼうと、何の役にも立たない事は言うまでもない。


(クソ竜……落ち込んでる場合じゃねえだろうが! 分かってたんだ、こうなる事は!)


 獣の視線は、壁際のハリストックの屍を捉えた。図体にまるで不似合いな敏捷な動きで、獣はそれに駆け寄り、真っ赤な舌を伸ばしたかと思うと、老人の身体を丸呑みにした。


「ア……ア……」


 竜は声にならない声を洩らす。あっと言う間に久しぶりの肉を呑み下してしまった獣は、次に、同じように横たわって動かないアクセルに眼を止めた。獣が二人のほうへ近づいてくる。竜は恐怖に発狂しそうになった。後ずさろうとして、背中が祭壇にぶつかった。


「あ……アクセル!」


 逃げる事も出来ない身体のアクセルが横たわっている。

 今こそ竜は、繰り返しアクセルが訴えてきた事が、すべて正しかった事を理解しない訳にはいかなかった。彼を信じず、一方的なマリアの言い分だけを信じこみ、彼を排斥したのに、彼は最後のぎりぎりの所まで、なんとか自分を説得しようと努めてくれたのだ。


「アクセル……!」


 獣の視線は何故か、竜を素通りしてアクセルを狙っている。竜は親友の上に自らの身体を投げ出した。


「やめろ! こいつを傷つける事は俺が許さん!」


 竜は獣に向かって叫んだ。


「りゅ……」


 少しずつ痺れがとれてきたアクセルが声を絞りだそうとする。


「すまん、アクセル! 許せなんて言えないが……」


 竜はアクセルを庇ったまま目を閉じ、背中に獣の鉤爪の一撃が加えられる瞬間を待った。


「…………?」


 だが、その瞬間は、訪れなかった。果てもなく感じた数瞬の後、訝しげに竜が振り返ると、今にも飛びかかって来そうな素振りを見せていた獣は、突然目標を見失ったかのように、立ち止まっていた。


「なんだ……? どうなってる……?」


 しゃがれ声でアクセルが問う。


「わからない……だが、俺たちを襲ってこないみたいだ……」


 竜は小声で応え、息をひそめて獣を見上げた。獣は戸惑ったように竜を見返したかのように見えたが、それも束の間のことで、不意に鼻をひくつかせるような動作を見せたかと思うと、その巨体を敏捷に翻した。獣の動きに合わせて、ばらばらと細かい石片や埃が無数に、祭壇の上に伏した二人に降りかかる。二人は小さく咳込みながらも、身動きせずにうずくまっていた。獣は何かに呼ばれたかのように、最早二人には見向きもせずに、地響きを立てながら屋外へ走り去っていった。


「……行ってしまった……」


 放心したように竜が呟いた。


「街が……街が危ない」


 アクセルが呻くように言った。まだ、痺れの為、指先がやっと動かせる程度だ。


「俺のせいで、破壊獣が……」

「やっちまった事は仕方がないだろう……呆けてる場合じゃない」


 最悪の事態を予想していた分、アクセルの方が冷静だった。


「そうだ。街を……街を守らなくては」

「ああ……だが、正面から立ち向かったところで敵う相手じゃない。俺はかなり書物を読んだ。奴は……」


 しかし竜はもうアクセルの言葉を聞いてはいなかった。


「アクセル、俺は街に戻る。おまえは逃げてくれ」

「馬鹿を言うな。俺ももう少しで動ける。俺も行く」

「いや、おまえは南のほうにこの事を知らせてくれ」

「その役はおまえがしろ。街ではおまえが封印を解いたことが知れている。戻ったって袋叩きにあうだけだ」


 その言葉に、竜は微かに微笑んだ。


「それこそ正当な裁きだ。それこそ……俺の望むところだ。だが、俺はこの手で一人でも、街の人間を救いたい……」


 竜は立ち上がった。


「竜、待て!」

「……ありがとう、アクセル」


 それだけ言うと、竜は踵を返し、獣のあとを追い、駆け出してゆく。


「待て、竜、俺も行く……!」


 アクセルは叫び、なんとか立ち上がろうとした。が、精一杯の努力は、バランスを崩して祭壇から無様に転がり落ちる、という結果に終わった。したたかに背中を打ちつけ、顔を顰めながらもアクセルは自力で身を起こした。


(おまえが行っても無駄だ……!)


 過去の裁きの記述は、時代によってかなり異なる部分もあったが、必ず共通しているところもあった。それは、封印を解いた者は、怒り狂った民衆に嬲り殺しにされた、というくだりである。自分から民衆の前に姿を現して捕らえられた者もあれば、隠れていたところを天使から民衆に引き渡された者もある。破壊獣を鎮める為の生贄として、炎の中に投げ込まれた者もある。だが、辿る末路は皆同じだった。惨たらしい死、である。


(そんなのは正当な裁きじゃない。あいつを殺したって何の解決にもならん。いや、それどころか、もしも俺の推測が正しければ、あいつが死んだら……)


 よろよろとアクセルは立ちあがった。とにかく、竜を追わなくては。南に向かうにしても、一旦は街に戻り馬を手に入れなくてはどうしようもない。


 立ち去る前にアクセルは崩れた壁の方に視線をやった。老医師の血が飛び散り、衣服の切れ端が引っかかっている。軽く黙祷した。


(すまない、先生。借りはあの世でゆっくり返させてくれ。あんたが教えてくれた事は、きっと無駄にはしない……)


 まだふらつく足取りで、出来るだけ急いで表に出た。街は遠く、その物音までは伝わってはこない。空は微かに赤く、不吉に淀んでいた。

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