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「…………」


 あまりの事に言葉を失った彼を、『天使』はおかしそうに眺めた。


「どうしたの? 私のお願いを聞いてくれるんでしょ?」


「マリア……君は、君は一体?」


 喘ぐように竜は言葉を押し出した。


「どうなってるんだ? 君が……天使だって? まさかそんな……でも、その羽根は……」

「黙っていてごめんなさいね」


 笑いを含んだ声で、マリアは言う。


「君が……じゃあ、まさか、俺を助けてくれた? 裏街で……」

「そうよ。子供の頃に、崖から落ちたあなたを助けたのも私よ」

「え? でも、あの時の天使は……俺が覚えているのは、あの時、もう大人の姿をしていたような……そうだ、たしかに今の君のような……」

「そりゃそうよ。だって私、天使なんだもの。あなたよりずっと年上なのよ。そして、人間みたいに歳をとることもないわ」

「信じられない……」


 竜はただ呆然とするしかなかった。何を言うべきか、まるで考えつかない。


「でも、どうして、君は、なぜ……?」

「私はあなたが生まれた時からずっと、あなたを見てきた。なぜなら……あなたが『選ばれた者』だからよ」

「選ばれた者?」


 鸚鵡返しに竜は呟く。


「ねえ……裁きについての伝承は知ってるわよね。忌み森に何があるのかも」

「ああ……だけど、ただの伝説だと思ってた。忌み森……鎮獣司も、重要ではあれど、ただの儀式的なものだと。……違うんだね?」

「違うわ。忌み森には、恐ろしい破壊獣が眠っているのよ。裁きの時、人間が犯した罪に対して、これまでに流された血が足りなければ、獣は目覚めて人間を食らい尽くすのよ」

「なんて事だ……君が言うんなら、それは真実なんだろうな……」


 竜は呻いた。頭がうまく働かない。何故、こんな話をしているのだろう? 自分は確か、結婚を申し込んでいる筈だったのに……。


「そして、今年、裁きは行われるわ」

「!! 何だって?! それは本当かい?!」


 竜は思わずマリアの肩をつかみかけたが、彼女はさっと身をかわした。


「私が嘘を言ってどうするの? これは、神の御意志なの。放っておけば、来週には獣は目覚め、殺戮を始める筈よ」

「そんな……!! どうすればいいんだ?! どうすれば?!」

「それを避ける手だては、たったひとつしかないわ」


 あっさりとマリアは言う。だが口調と裏腹に、彼女の心は意地の悪い喜びで溢れんばかりだった。思うままに自分に追い詰められてゆく竜の様子が、彼女にはたまらなく愉快だったのだ。


「どうすればいいんだ? なんでもするよ!」


 そうとも知らず、マリアの言葉に竜は顔を明るくした。


「簡単よ。人間が、神の許しを得ればいいのよ」

「神の、許しを? どうすれば神は、俺達を許してくださるんだ? 神の創ったこの星を、俺達の祖先が汚した、その罪は、何万年かかっても償いきれないほどだと、聖典には書かれているけど」

「裁きはね、総ての人間ではなくて、選ばれた一人の人間が裁かれるのよ」

「たった一人?」

「そうよ。その人間が、神に許しを得られれば、裁きの歴史は終わるの。破壊獣は聖獣となって、人間を約束の地に導くわ」

「その、その人間は誰なんだ?」


 マリアは満面の笑みを湛えて竜の手を取った。


「それは、あなたよ! 愛しい竜、あなたが人類の代表なの!」

 

 竜は今度こそ、芯から唖然とした。


「まさか……」


 それだけ言うのが精一杯だった。マリアは彼の手をとって、椅子に座らせた。


「私はあなたをずっと見てた。選ばれたあなたが、裁きまで命を落とさないよう守るのが、天使としての私の役目。でも、人の姿をとってこの街に下りて、暴漢に襲われて記憶を失った。そして偶然にもあなたに助けられ……あなたを愛した。天使の私と、人間のあなた……記憶を失わなければ、決してこんな気持ちが芽生える事はなかったはず。そして、あなたが生命の危機に瀕した時、私の記憶が甦った。あなたを守るために……」

「マリア……」


 竜はぼんやりとマリアを見たが、まだ衝撃から立ち直れず、その言葉は半分くらいしか脳裏に響いて来なかった。


「今度はあなたが私のために動いてくれる番よ。あなた、何でもするって言ったわね?」

「ああ」

「では、選ばれた者として、忌み森に行き、獣の封印を解いてちょうだい」

「お、俺が? だけど、獣の封印を解けば、破壊獣が暴れ出すんじゃないのか?」

「あなたが神の許しを得られなければそうなるわ。でも、私は信じてる。あなたならできるわ。裁きの歴史に終止符をうち、人類を約束の地に導く事が」

「俺が……俺が人類を救う、のか?」

「そうよ、私の愛した人間、あなたならきっと……!」

「マリア……」


 感動の面持ちで竜はマリアを見つめた。


「本当にできると思うかい? 天使の君が言うなら、俺は君を信じよう」

「できるわ。そうすれば、この地に縛られた私も解放される。そうしたら、二人で約束の地で暮らしましょう」

「マリア、じゃあ、君は本当に俺を愛しているのかい?」

「勿論よ」

「マリア……」


 夢中で竜は彼女を抱きしめる。翼の感触は柔らかかった。


「俺はどうすればいいんだい? どうすれば封印は解けるんだ?」


 マリアはその言葉を聞くと、少し苦しそうな表情を浮かべた。


「竜……よく聞いてね。……封印を解くには、生贄が必要なの」

「生贄だって?!」


 竜の表情が強張る。マリアにとっては、説得の最後の詰めだった。


「人間の心臓の生き血を捧げなければ封印は解けないわ。それも、あなたの親しい者の血でないと駄目なの。それが、封印を解く者に与えられる試練なのよ」

「ばかな……」


 竜は両手で顔を覆った。


「そんな……俺の親しい誰かを、俺が殺さなければならないって事か? そんな事、できる訳がない!」

「竜……人類を救うためには仕方のない事なのよ」

「だけど! それくらいなら俺が死ぬ。俺の血を捧げるよ」

「駄目よ。封印を解いた時点であなたは神に裁かれる。その結果によって、中から目覚めるのが破壊獣か、聖獣か決まるんだから」

「だけど、俺には出来ない!」

「竜!」


 マリアはいきなり竜の頬を打った。


「しっかりしてちょうだい。あなたがやらなければ、今生きている人間の大半が殺されてしまうのよ!」

「マリア……」

「私だって、こんな事言いたくないのよ。でも、あなたさっき、なんでもするって言ったじゃない。なら、罪を負い、償いながら生きていく事だって、しなきゃならないのよ!」


 マリアの瞳から涙が零れた。


「私も一緒に罪を背負うわ。だから、強くなって……」

「マリア、ごめんよ」


 竜はうなだれた。


「君だってつらいのに。そうだよな……人類を救うんだもんな。何の犠牲もなく、出来る訳がない……」

「そうよ、それにやらなければどちらにせよ、その人も破壊獣に殺される事になるんだから」

「そうだな」


 竜は重い息をついた。


「でも、一体誰を?」

「あなたの家族も許婚も近くにはいない。この街にいる人から選ばなければならないわ」

「この街で……」

「アクセル・オーウェンはどうかしら?」


 マリアはこの台詞を言うのに、嬉しさを押し隠すことに少し骨を折った。あの祭壇で、竜の剣がアクセルの心臓を貫く光景を想像しただけで、ぞくぞくしたのだ。

 頭の悪い忠犬のように、友情ごっこにしがみついていた馬鹿な男。なぜかあの男だけが、自分の悪意を最初から感じ取っていたようで、とにかく目障りだったのだ。だが、こんないい修羅場の主役になれるのであれば、あの男も生まれてきた甲斐があるというものだろう。二人を決裂させた時、無理に処分してしまわなくて本当に良かった。アクセルの苦悶の表情は、きっとマスターをとても喜ばせるに違いない。


 だが、竜は暗い表情で首を横に振った。


「無理だ……」


 マリアは苛立った。


「竜、さっきも言ったでしょ……」

「違うんだ、マリア。アクセルを殺す事が怖いんじゃない。人類の為なら仕方ないと……でも、無理だ。あいつは、俺と互角の腕前だ。おとなしく言うままに殺されてくれるとは思えないし、忌み森まで連れ出す事も難しい」

「何を弱気な。では、私が気絶させて連れてきましょう」

「君が?」


 竜は驚いた顔でマリアを見る。


「アクセルに敵う訳がない」

「ばかね。私は人間じゃないのよ。容易いことだわ」


 流石に、アクセルと同じ体格の巌を簡単に殺せたのよ、とは言わなかった。

 巌を殺したのは、崖から落ちた子供の竜を救った時に姿を見られていたから、という事もあったが、それ以上に、竜を悲しませ、アクセルとの間に疑惑の種を蒔く事が面白かったからだった。 


「だめだ、だめだ!」


 突然、強い口調で竜が言った。


「どうして?」

「清らかな天使の君に、そんな事をさせる訳にはいかない。これは、最初から最後まで、俺一人の手でやる。その方が、神の御心にも適うのではないか? 君に手伝ってもらうのは、絶対だめだ」

「……そうね」


 竜の言葉は理が通っていた。がっかりしたが、マリアは不承不承頷いた。これ以上アクセルに拘って、不信感を持たれてはやりにくくなる。


「じゃあ、誰にしましょうか」

「……」


 竜は黙った。やはり、自分で生贄を指名する事には抵抗がある様子だ。そこでマリアは、もう一人の、気に入らない男の名を挙げた。


「では、ハリストック先生がいいと思うわ」

「先生を?」


 ぎょっとして竜は顔を上げた。


「だって、若い人より将来もないし。人類の役に立つと知ったら、喜んで犠牲になってくれるかも知れないわ」

「それはそうかも知れないけど……抵抗も出来ない年寄りを殺すなんて……先生には命も救ってもらったっていうのに……」

「だって、若くて体力のあるアクセルは連れていけないんでしょう? あのお爺ちゃんなら気絶させるのも簡単じゃないの」

「それはそうだが……」

「竜……そんな煮え切らない事では、裁きに影響するかも知れないわよ」


 竜はぎょっとなってマリアの顔を見た。


「俺が迷っていては、裁きに悪影響が出るというのかい?」

「もちろん、そうだわ」


 マリアは真摯な表情をつくって応えた。


「ね、竜」

「……わかった」


 遂に竜は頷いた。


「君が言うんだから、それが最善の事なんだろう。俺は、君を信じる」

「ありがとう、竜」


 微笑を浮かべ、マリアは竜から離れ、窓辺へ歩み寄った。


「マリア?」

「私、先に森へ行って待ってるわね。今夜、先生を連れてきて。愛しい竜」

「マリア、危ない!」


 思わず竜は手を差し伸べようとした。マリアの身体は窓から外へと大きく傾いた。


「待っ……」


 陽光の中にマリアの身体は吸い込まれた。その瞬間、彼女の背の翼が大きく開き、彼女は空へと舞い上がった。


「マリア!」


 竜は窓辺に駆け寄った。


「待ってるわ」


 一言残し、天使はゆっくりと飛び去ってゆく。それは、竜の眼には限りなく美しく神々しいものに映った。

 彼の心の中の最後の一片の疑念も払拭される。彼の愛する、美しい天使……彼女が言う事が間違いな筈がない。彼は、選ばれた人間、人類を救う救世主なのだ。その大事の前には、一人の老人の命を奪う事くらい些末な事に過ぎないのだ……。


 その日、テンプルシティの住人の多くが、天を舞う大きな鳥のような影を見た。幾人かは、それは確かに人の姿をしていたと言い張った。だが、それがその夜訪れる、恐るべき運命の前触れと気づく者は、一人としていなかったのだった。

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