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2・告白

 その朝は、特別な事など何一つ起こりそうもないような朝だった。

 格別に空が晴れ上がった訳でもなく、嵐の来そうな湿った空気もなく、特に暑くも寒くもなく……何となく消化してしまうだけのありふれた一日にしかなりそうになく、高位の神官の間でさえ何か忘れられない出来事が起こるかもしれないという予感を少しでも持った者はいなかった。


 休日の為、駐留部隊でも当直者を除き、常より一時間遅い起床を許されていた。竜はマリアのベッドで朝寝を愉しんでいた。


「竜……皆さんが起きる前に、部屋に戻らなくていいの?」

「いいさ……どうせみんなばれてるんだ。今更取り繕ったって無駄ってもんだ」


 朝日の眩しさに軽くしかめながらの竜の答えがこれだった。マリアは長い髪を掻き上げ、嬉しそうに竜の首に腕を回す。


「もっとずっと、一日中こうしていたいけど、いつもより長くいられるだけでも嬉しいわ」

「俺もさ」


 右腕でマリアを抱き寄せ、左手でやや小さめの乳房を愛撫しながら竜は囁くように言った。


「マリア……俺も一日中、お前とこうしていたい……。マリア……俺の嫁さんになってくれるかい……?」

「え……」


 マリアの頬が微かにひきつる。二人が関係を結んでからちょうど二月が経とうとしていた。


「でもあの……あなたには霖さん……が」

「聞いてくれ」


 竜は寝台の上に身を起こし、真剣な顔つきでマリアを見つめた。


「彼女には済まないとは思っている。だけど、お前と出逢ってから少しずつ……気付いたんだ。俺はそれまで霖の事を愛しているつもりだった。だけど、それは幼なじみに対する家族のような情愛にしか過ぎなかった、ってね。霖を抱きたいと特に思った事もなかったんだ。それは、子供の頃から知っているから照れくさくてそう思うんだと思っていたけど、俺が間違ってた。霖の事は女とは思えないんだ。妹のような存在としか思えない。こんな婚約は、彼女のためにも、もっと早く解消すべきだったんだ。俺にとっての女性は、マリア、君しかいないんだよ」


 一気に竜は言い終えた。マリアの表情は相変わらず硬い。竜は不安になった。以前から考えていた口説き文句で、彼女は喜んで頷くだろうと心の底で決めてかかっていたのだ。


「マリア……?」

「竜……そうなの」


 冷ややかとさえ思える口調でマリアは応えた。媚びを含んだ甘い話し方にしか慣れていない彼は、訳が判らず戸惑った面持ちで彼女を見つめた。


「私……あなたの事を誤解していたみたい」

「どういう意味だよ、マリア!」

「あなたはもっと人の気持ちを大事にする人だと思っていたわ。ずっとあなたを想っている霖さんの事をそんな風に言うなんて……」

「何を言ってるんだ、それも全部、君を愛してるからこそ……その、別に霖の事だって嫌いになった訳じゃないが……」

「私のせいだって言うの? ひどい人ね……信じられない」


 マリアは竜の手を払いのけ、寝台から下りた。彼に背を向け、窓の方へ向けたその面には、ひどく残忍で満足そうな笑みが浮かんでいたが、竜には窺う術もない。彼は殆ど狼狽と言ってもよい表情で寝台から跳び下り、マリアの肩に手をかけようとした。


「触らないで」


 マリアは素早く身をかわす。


「マリア、マリア!」

「あなたは不誠実な人だわ」


 振り向いた彼女の顔にはもう酷薄な微笑は跡形もなく、あどけないような大きな瞳には澄んだ涙さえ浮かんでいる。


「そんなに簡単に長年の恋人を捨てることが出来るんなら、私のことだって、飽きてしまったら同じように捨てるに決まってるわ」

「何をばかな事を! だから、言ってるだろう、霖に対する気持ちは最初から恋愛感情じゃなかったんだよ。君は違う。本当に愛してるんだ!」


 竜は叫ぶように言った。例え隣室に聞こえたって構いはしない。今の彼にとっては、マリアを失うこと以上に恐れる事など何一つありはしなかった。マリアの瞳に溜まった涙が、一雫こぼれ落ちた。


「でも、私は記憶さえないような身元も知れない人間よ。そんな私を、本当に選べるの?」

「身元なんか関係ない。俺は俺の前に現れてからの君自身を愛してるんだから」

「私のような、得体の知れない女を……」


 自信なさげにマリアは呟いた。竜は微笑んだ。マリアの混乱した反応は、記憶がない事による劣等感から来るものだったのか、と一人合点して安堵する。


(なんていじらしい娘だろう。二人で過ごしてる間も本当は、霖に対するコンプレックスと罪悪感に悩まされながら、俺への愛情から健気に耐えて、そんな素振りを見せなかったんだな)


 俯いたマリアの肩にそっと手を置くと、今度は彼女も逆らわず金色の頭を彼の胸に当てた。


「マリア、俺を信じてくれ」

「ほんとに私を愛してる? 裏切ったり、しない?」

「誓うよ、マリア」

「どうすればあなたを信じられるのかしら……」

「なんでもするよ、マリア、君の望む事ならなんでも」


(やった!)


 俯いたままマリアは込み上げてくる笑いを苦労して堪えた。


(やったわ、これでこいつはあたしのもの。これで予定通りにケルベロスを放せるわ。そしてあたしは、マスターの所に帰れる……) 

(この汚らわしい野蛮な所からもようやくおさらばだわ。罪深い豚どもめ、みんなケルベロスに喰われちゃえ。その時に、この身の程知らずのバカは存分に報いを受けるといいわ)

(……裁きの時が来る。浄化の時が。その時こそ罪人は誰に生かされているか、何の為に生かされているか、その身をもって知る事になるわ。決して逃れられない牢獄の中で、己の身に刻まれた罪を呪いながら、地獄の業火に焼かれるといい……)


「竜……こちらに来て」


 マリアは竜を窓辺に導いた。


「私を本当に愛してる?」


 念を押すようにマリアは尋ねた。竜は強く頷いて、


「何度でも言うよ。愛してる。君の為ならなんでもできる」

「私が何者であっても?」

「もちろんだ。君のなくした記憶の中にどんな過去があっても」


 そこで言葉を切って、竜は軽く苦笑いした。


「俺が恐れているのは、君が突然記憶を取り戻して、代わりに俺のことをすっかり忘れてしまうんじゃないかって事だけさ」

「それはないわ」


 マリアは微笑した。


「だって、私は私が誰なのか、解っているの」

「……え?」

「もし……」

「もし?」

「もし、私が、人間でなくても、私を愛してる?」


 竜は戸惑ったようにマリアを見つめ、それから無理に笑みを浮かべた。


「何を言ってるの?」

「私は、あなたと違うのよ。私、人間じゃないの」

「マリア……何を言い出すんだい。君が人間以外のなんだって言うの?」


 冗談なのか、何かの比喩なのか測りかねて、僅かに苛立ちを覚える。


「私が人間でなくても愛してる? 私の為ならなんでもしてくれる?」

「ああ、マリア。なんでもするよ」

「……」


 マリアは俯き、その肩が震えた。泣いているのかと思った竜が肩に手をかけようとすると、彼女は突然顔を上げた。彼女は笑っていた。


「そう、嬉しいわ! じゃあ言うわね! 私、天使なの!」


 叫ぶように言い放つと、それと同時に彼女の身体をまばゆい光が包んだ。


「マリアっ?!」


 眩しさに思わず目を瞑り、そして見開いた時、竜の前に立っていたのは、顔かたちは先刻と変らぬ、だが、背に純白の翼を持った恋人だったのだ。

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