1・記録
戒暦三千年6月。
テンプルシティ北方警備隊で2組の結婚式が挙げられ、その最中にちょっとした騒ぎが起きたが、それから暫くは、表面上何事もなく過ぎていった。勿論、街中では大なり小なりの事件が起こっていたが、特に皆の記憶に留まる程の大きな問題はない、という事である。
竜は隊で最年長の男を副隊長代理に指名した。キャリアが長いだけでさして能力がある訳ではないが、気のいい男で言われればきちんとこなす。この人選に特に不満の声もあがらず、竜は一つ問題をクリアしたような気になっていた。
アクセルは形の上では謹慎して本隊長からの処分待ちの身である。急の場面を過ぎれば、士官の彼を竜一人の意思では処分できない。巌の一件を、竜はアクセルが容疑者だとは報告していなかった。何の実害もなかった婦女暴行の未遂のみでは、常に人材が不足している軍にあっては、これまでのアクセルの功績を考えれば、どんなに重くても降格以上の処分が下るとは思われなかった。
沙汰があるまでの間、ハリストックが彼の身柄を預かっている事になっているが、あの日以来アクセルは団員の前に一切姿を見せず、本当に離れに閉じこもっているのかどうか、誰にも窺わせない。本来なら独房に入れねばならない所なのに、である。だが竜はこれを放置していた。医師の言葉を信用した訳ではなく、ただアクセルの事は暫く考えずにいたかったのだ。隊長としての責任を問われかねない問題だが、隊員から信頼の篤い彼なので、彼の心中を図っての同情論が勝り、隊中からアクセルの事件は無視される形になっていた。
だが、隊員たちも無視できない変化が一つあった。
竜のマリアに対する入れ込みようである。あの日以来、人が変わったように竜は、衆目の前でも熱のこもった目でマリアを見つめ、訓練中でもふと惚けたようにマリアのいる方向を眺めたりするようになっていた。
二人の関係に変化が生じた事は誰の目にも明らかになり、女達に冷やかされてもマリアも否定しなかった事から、隊はやがてこの噂で持ちきりになった。婚約者のいる身でマリアに手を出した事を恨みがましく批判する男もいなくはなかったが、マリアに憧れていた隊員の多くは、元々高嶺の花と諦めていたので、最初のうち、竜がきちんと婚約解消してマリアと付き合うなら似合いのカップルだし、竜の高潔な性格からしてそうするのは時間の問題だろうという意見が多数を占めていた。
しかし、初めのうちこそ見ていて微笑ましかったものの、次第に竜は業務に支障を来す程ぼんやりする時間が多くなり、マリアが近くにいないと苛立ち、短気を起こすようになった。こうなると周囲もあまり好意的に見てはいられなくなる。
おまけに、本人はばれていないと思っているようなのだが、殆ど毎晩のようにマリアの部屋で夜を過ごすようになっていった。隊長自らの規則違反に副隊長代理の男は、不満げな皆を若気の至りで一時の事だからと宥め、それとなく竜をたしなめたのだが、逆に余計な口出しをするなと激昂して怒鳴られてしまった。これまで竜は、年上の者に対しては自分の部下でも常にある程度の敬意を持って接し、声を荒げる事などなかったのに、である。
この話が広まって、隊員の竜に寄せる信頼は急速に失われていった。以前は規則違反など殆どなかったのに、若い隊員の中には、どうせ隊長もやってるんだからと、宿舎を抜け出し妓館で遊ぶ者まで出始めた。それが発覚しても、自分にやましい所がある竜は、部下を処分する事も出来なかった。隊長の権威は失墜した。だが彼はマリアを追う事に夢中で、あまり気にかける様子を見せなかった。
これらの変化はアクセルの謹慎からほんの三週間くらいの間に起こった事だった。ハリストックはこの間、副隊長代理より先に一度だけ竜を諭そうとした。
「竜、最近おまえさんはどうも仕事に身が入っとらんようだが、何か悩みでもあるのかね?」
さすがに竜は老医師に対して反発を面に出すような事はしなかった。代わりに彼はそつのない笑みを浮かべ、先生にはいつも心配かけてすみません、少し疲れてはいますが病気ではないので大丈夫です、と慇懃無礼とも思える口調で応えたのだった。
重症だな、と医師は感じ、以降は彼に個人的な言葉をかける事もせず、かと言って批判的な風潮に賛同する事もなく、ただ静かに事の成りゆきを見守ってきた。彼は竜に失望してはいたが、見捨てた訳ではなかった。こうなったのも、マリアの企みがもとにあってこそなのだから、彼女の目的さえ判明すれば、目が覚めて元の彼に立ち戻るだろう、と信じていた。
アクセルは医師から絶えず竜の様子を聞かされていたが、積極的に考えを述べようとはしなかった。
隊員達の前に一切姿を現さなかったが、彼はハリストックの部屋で終日、医師が何年もかけて集めた様々な伝承、特に裁きに関するものを読み解く事に専念していた。基本的な読み書きは軍に入ってから余暇に学んでいたものの、読書などまったくと言ってよい程経験のなかった彼には、鍛錬よりも余程骨の折れる作業だったが、難しい部分は夜にハリストックに教えてもらいながら、医師も驚嘆する粘り強さで、その作業に没頭していた。最初は、単に鬱屈した気を紛らわす為に思いついた事だったが、読み進むにつれ、自分でも不思議でならぬ程に、引き込まれていったのだ。
頭を使う作業は不得手だと自分で常々言っていたので、自身を含む誰もがそう思っていたが、実はこの若者はかなりの知的好奇心と柔軟な理解力を秘めていたのだと、ハリストックは密かに舌を巻いていた。
殆どは宗教的な色づけがなされた寓話的なものだったが、中には、裁きの痕跡を追い求めて打ち捨てられた廃墟を巡り歩く事に半生を費やした記録のように、役立つものもあった。それらは公には奇書のように扱われ、神殿から発禁とされたものまであったが、その書を秘かに入手していたのは他ならぬ先の神官長なのであった。世間の目から覆い隠されてきたのは、それこそが恐るべき真実を含んでいるからだと神官長は今際の際にハリストックに語った。
最もアクセルの気をひいたのは、異端とされ追放された神官から手に入れたという書物だった。背表紙も外れ題名も判らないぼろぼろのその書は、なんと五百年前の裁きを生き延びたという人間がしたためたものの写しだった。裁きの後では人口が激減し言語すら変化すると言われているが、この書は、その混乱期に旧言語から翻訳されたものらしかった。著者はもともと学のある者ではなく、ただ裁きの悲惨さを後の世に伝え残さずには死ぬに死ねぬ、という心情から綴ったものだと翻訳者は添えていた。
『神官見習いのダイタクが天使の啓示を受けたと言い張り、封印の森に入っていった。その夜、皆が寝静まった頃、それは始まった。聞いた事もないような身の毛のよだつような恐ろしい叫び声は、その後の人々の苦しみぬいた断末魔や家族を失った悲しみの呻きと一緒に、俺がこの忌々しい生を終えない限り、毎晩目をつむるたびに耳の奥に聞こえてくる気がして俺を苛むだろう。あの悪魔の獣の事を思い出すだけで、今でも小便をちびってしまう。だが皆がそれをなかった事にしてしまったら、死んだ俺の息子や女房は一体どうなってしまうのか、あいつらが生きていた事も嘘になってしまうのではないかと俺は思い、禁忌に触れるのは承知の上で、書き残す事にする。
あの悪魔の獣は、形としては真っ黒な体毛の犬のような動物だった。だが、赤く光る眼と二本の長い牙、猿のような手に鋭い鈎爪を持ち、背中には黒い蝙蝠のような羽が生えていた。大きさは、二階建ての家くらいもあった。そんな図体で驚くほど敏捷に動き、時には飛び、時には二本足で立って前足で家を破壊したり人を掴んだりした。あの地獄の光景を思い出すだけで気が触れてしまいそうだ。実際、町で俺と共に生き残った83人のうち、11人は気が変になっており、自殺したり後から消耗して死んでしまったりしたのだ。
獣は必死に逃げ回る者たちを楽々と捉えた。女も子供も関係ない。ひらりと舞い、犠牲者の逃げる先に降り立ち、前足で押さえつけ、牙で頭や腹を咬み裂いた。また、建物の中に隠れていた子供達は、奴の体当たりで皆、押し潰されて死んだ。奴はただ、殺すためだけに走り回っているようだった。普通の獣が殺すのは、喰うためだ。だが、奴はたまに足を止めて腑を貪る事はあっても、喰うことを目的としているようではなかった。奴はほんの一時間の間に町の殆どの人間を殺したのだ。喰うためだけなら、ある程度殺した後は、逃げる者は放って食事に専念するはずではないか?
ともかく、俺が助かったのは、ほんの偶然に過ぎない。崩れた建物の残骸の隙間に閉じこめられ、逃げ出すことも出来なかったおかげで、奴の目にとまらずにすんだのだ。女房と息子は、俺を助けるために人を呼ぼうと外に駆け出し、そのまま戻らなかった。二人の絶叫だけが、二人の運命を俺に知らせた。俺は何も出来なかった。俺は、ただ早く奴が俺を見つけだし、苦しみから解放してくれるように願うしかなかったんだ。
だが、突然破壊の音は一切止んだ。悲鳴も聞こえなくなった。そして、俺を閉じこめていた石の壁の隙間から、昼間のような明るい光が差し込んできた。俺は必死に窓の方へ這い、身体を出す事は出来ないがなんとか外を覗ける程度の空間から、光の射してくる空の方を見た。
空が見たこともない色に染まっていた。その色を表現するのは難しい。だが、とても美しい色だった。あんな場合でなかったら、誰もが美しさに心をとらわれ、我を忘れて空を見つめたろう。しかし無論、そんな心の余裕がある訳はなかった。その色を放っているのは、一人の羽根の生えた女だった。つまり、天使、というのか。その女の表情までははっきりとは見えなかったが、何か、例え羽根がなくても、俺達とはまるで違う存在だっていうことがはっきり感じられた。神々しい、とでもいうのか。だが、その神々しさは、同時に、とても凶々しいものをはらんでいた。息をつめて女を見ていると不思議なことに、女の声がまるですぐ側で話しているかのように耳の奥に響いてきた。あの女の言葉は、一言一句、忘れる事が出来ない。
「卑しき豚の垂れ流した子種の末裔どもよ、これが裁きの時。その汚れた肉を聖獣に捧げ、その血を星の杯に注ぎ、神の御慈悲を乞うがよい」
裁き……これが裁きなのか。呆然と思った。逃れられぬ滅びの運命、だが聖典の中の説話としか思えず、実感のない恐怖だった筈のそれが、よりにもよって、俺の生きる時代に、この日に、訪れてしまったのだ。俺の感情は麻痺し、ただ静かな絶対的な絶望感だけに満たされた。人智を越えた災厄に立ち向かえる訳がない。いや、災厄と言えるのかもわからない。これは神の意志なのだから。
その時、天使は何かを地に投げ落とした。
「この者が、聖獣の封印を解き、裁きを求めたのだ。我は乞われるまま、この者の魂を秤にかけた。だが、神の許しを得るには程遠い。それ故に、不足した分は汝らの血肉により購われねばならぬ」
後で知ったのだが、それは神官見習いのダイタクだった。俺は奴を見る事はなかった。近くにいた者たちに滅茶苦茶に刺され斬りきざまれて死んだという。天使の言葉は続いた。
「これから聖獣は七日間、地を駆け、人を狩るだろう。この地での狩りは終わった。生き延びし汝らは贖罪にすら値わぬ者。速やかにこの地を去れ」
言い終わると、天使は眩しい光を放って空へ舞い上がり、あっという間に視界から消えた。
俺はその後、数時間かけて壁の亀裂を槌で叩き、崩れた建物から這い出る事が出来た。助かりたくてやった訳じゃない。女房と息子の亡骸を見つけ、墓に埋めてやりたい……いや、もしかして、もしかしたら、あいつらは生き延びているんじゃないか……そんな色々な考えが交錯して、実際あの時の気持ちをひとつの言葉で言い表す事など、出来っこなかった。
だが、俺がようやく這い出すと』
裁きの起こる前、現代とそう変わりのなさそうな、商売人とその家族の過ごした平凡な日々への哀惜を綴った部分から始まり、ある日突然その全てが奪われた苦痛、恐怖を鮮明に記したこの書は、ここから先が失われていた。
アクセルは一気にこれを読み通し、思いきり深い溜息を付いた。これが真実なら大変な事だ。裁きについて、神殿が認めた事以外を書き記すのは、最大の禁忌なのだ。今も昔も、神殿が存続する限りそれは変わらないルールだ。
神殿の認める、裁きについて記された聖典は非常に抽象的だ。全ての人は神の祝福を得た星を汚した罪人の子孫であり、その罪を購う為に生まれてきた、故に人が罪を忘れた頃に神の使いが地に降り立ち、罪を購わせる為に人の魂を狩り取る……。
あまりに現実離れしたこの聖典を頭から信じている者は年々少なくなり、この記述は恐らく過去の何らかの天災について訓戒の意を込めて伝えられているのだろうと考えている者が多い。裁きを過度に恐れ、生贄を捧げたりする集団もあるが故に、裁きが現実の歴史であると本気で口にする事自体、狂信者の証と見なされる場合もある。アクセル自身もつい最近までは、裁きの意味について真剣に考えた事すらなく、自分とは特に関わりのない話のように思っていた。
少し前までの彼なら、このぼろぼろの書物を手にしても読もうとも思わなかったろうし、例え無理に読まされてもつくりごとと一笑に付しただろう。しかし、ここ三ヶ月の間に起こった様々な出来事は彼の世界観を根底から覆す程の衝撃があった。何よりも、マリアと出会い、その非人間的な面を見せつけられた今では、徹底した現実主義者だった彼なのにどんなオカルトじみた事でもすんなり信じられる気がした。
人間を、豚と貶めた、書物の中の恐ろしい天使。そしてまたマリアも、光に満ち溢れた結婚式を、豚の饗宴と言った。
これは、ただの偶然なのだろうか……。




