2・晩餐
薄明かりの灯った廊下を歩いていくと、やがて突き当たりに重々しい扉が出現した。霖が驚いたことには、ウリエルが扉近くの壁に手をかざしただけでその扉は音も立てずに開いた。
「どうなってるの、これ??」
「わたしでなければ開かないのだ。わたしが招いた者以外何人もこの奥には入れぬ」
当たり前のようにウリエルは言った。霖が室内に入ると同時に、扉は手も触れないのに静かに閉まった。
「明るい……」
先程の部屋よりも、ここは更に明るかった。余程大きなランプがあるのかと、霖は辺りを見まわしたが、天井全体が見た事のない不思議な光を放っているだけで、霖の知っている照明はどこにも見られない。
「情けないことだが、ながいこと生きたにも関わらず、わたしは闇に慣れないのだ。闇の中でも、おまえたちより余程見えているのだがな」
ウリエルは肩をすくめた。
「この光……どこから来てるの?」
「天井全体が照明になっている。……あまり詮索しないでくれ、私は説明下手だからな。今、何か飲み物を用意する」
素っ気無くウリエルは応える。
「友達は、あそこのソファに寝かせておけ」
室内はほどほどの広さがあり、心地よい室温が保たれている。表と同じ石の床と壁だが、掃除が行き届いており、床には柔らかな絨毯が敷き詰められている。室の中央にはゆったりと座れそうなソファとテーブルがあり、かなり古く、だが質のよいものである事はすぐに霖にも判った。
ウリエルが奥に通じているらしい他の扉の奥に姿を消したので、霖は言われた通りに、心地よさげに寝息を立てているアイシャをソファに横にし、自分も傍に腰を下ろした。程もなくウリエルが盆の上に二人分のグラスとボトルを乗せて現れた。
「酒は飲めるか?」
「ええ。この際飲まなくちゃやってられないわ」
ウリエルは低く笑った。
「おもしろい奴だ。ではとっておきのワインをあけよう」
「ええっ、すごい! 初めて!」
「飲んだことがないのか」
「すごい高級なお酒じゃない。特別なお祭りの時に特別な人が飲むものよ」
「普段はどういうものを飲むのだ?」
「芋の蒸留酒よ。それだって、それなりにするわよ。……あんた、どういう身分なのよ? 何年もここにいるって言うけど、どうやって食べてるの?」
「……自給自足だ。畑がある」
言いながらウリエルはワインの栓を抜き、二つのグラスに静かに注いだ。
「……綺麗な色ね」
「香りも良いぞ。飲む前にまずこうして……」
香りを教えようとグラスを持つ霖の手に自分の手を添えた時、ふとウリエルは強烈な懐かしさに襲われた。
(こんな風に人と関わるのは、五百年ぶりくらいか……)
霖の手のほのかな温もりに、自分でもおかしいくらいに動揺する。
(人の子の運命になど、もはや何の興味もなかったのに……)
「……いい香りね。ほんとに」
そんなウリエルの心中にはまるで気づかぬように、うっとりと霖が呟いた。
「あ、ああ。では、乾杯しようか」
「うん。乾杯!」
「……乾杯」
初めて飲むワインは、想像以上に深みのある、柔らかな味だった。ウリエルも口に含んで頷いた。
実は、霖はウリエルの様子が何となくそわそわしたものになった事にはすぐ気づいていた。だが、彼女が思ったのは、彼の深い感慨とはまったく別の事だった。
(やばい。こいつ、襲ってくるつもりじゃ……)
何年も男一人で暮らしていて、いきなり若い女が二人も飛び込んできたのだ。何も感じない筈がない、と霖は思った。
(あたしを酔わせて何かしようって魂胆かな? ふふん、その手には乗らないわよ)
酒の強さには自信がある。普通なら軽はずみについてきた事を後悔するところだが、霖の場合、逆に闘志を刺激された。
(高いお酒を飲みまくってやるわ)
無論、仮にウリエルが本気で襲いかかってきたら、彼女の力では敵わない事は既に証明されている。だが、彼はそこまではしないだろうと霖は考えていた。そうする気なら、高い酒など振舞わなくてもいつでもできるのだから。
(この男は、そのへんにいるろくでなしの男どもとはちょっと違うみたい。でも、だめよ、あたしには竜がいるんだもの!)
それから暫く、他愛もない話をしながら二人は杯を進めた。喋っているのは殆ど霖で、ウリエルは静かな笑みを浮かべたまま珍しそうに聞き入っていた。故郷の事、隊の事……。普段は霖はそうおしゃべりな方ではない。気の合った数人の友人とは、それなりに盛り上がったりする事もあるが、あまりよく知らない人間と長く話すのは少し苦痛に感じるタイプだ。それが、今は、初対面の、しかも得体の知れない男に向かっていろんな事を話すのが楽しい。酒が入ったせいも勿論大きいが、それ以上に、何を話してもウリエルが興味を示してくれる事が霖には嬉しかった。何年も人から離れているという言葉の通り、彼は最近の常識的な事をほとんど知らないようだった。街の暮らし、村の生活、何にでも感心しているようなので、友人たちからはいつも無愛想、ぶっきらぼうと言われ続けてきた自分が、とても話し上手で物知りになった気分がしてきたのだ。
「それでねえ、竜がねえ……」
いつのまにか、調子づいた霖はのろけに入っていた。婚約者の竜がいかに優しくて、いかに強くて頭がよくて、いかにかっこいいかを、是非ともこの聞き上手な相手に聞かせてやりたくなったのだ。
「ほう……そんなにいい男なのか」
「そうよお! あんたも強いけど、竜ほど強い男はどこにもいやしないわ! 15で小隊長になって、今は19で、あの、テンプルシティの、警備隊長なのよう!」
「そうか。それはすごいな。会ってみたいものだな」
「でしょ! あ、いいの持ってるんだ」
ほんのり染まった頬をさらに火照らせた霖が、ウリエルには微笑ましく感じられた。誰かと話しながら何かを飲み食いする時間……長い間、それがどんなものか忘れていた。話の内容なんて本当はどうでもいいのだ。ただ、次第に打ち解けてきて夢中で喋る娘が、遠い遠い明るい時代を束の間運んできてくれた気がしてなんとも眩しく感じられた。……ほんの、一瞬の幻影にしか過ぎないと、最初から解ってはいるのだが。
「ね、見て!」
懐の財布の中から、霖が大事そうに色褪せた写真を取り出した。
「もう2年前なんだけどね、一緒にテンプルシティに行った時ね、写真屋さんなんて初めて入ったんだけど、竜が一緒に写ろうって言って、高かったのに、くれたの!」
写真は贅沢品だ。普通は結婚する時くらいしか撮らないのに、正式に婚約してすぐの頃、一緒の部隊にいられなくなった代わりにと言って竜がくれた、その写真が、彼女の一番の宝物だったのだ。
「どれ……」
何気なく写真に目を落としたウリエルの表情が、次の瞬間、一変した。
「か……克巳?!」
そんな筈はないのに、思わず口をついて出てしまった。保存された鮮やかな記憶、決して消去できない、大切な記憶。
「なに言ってんの?」
ウリエルの様子に不審そうに霖が唇を尖らせた。誉め言葉がすぐに出なかったのが、やや不満の面持ちだ。
「いや……すまん。あまりに似ていたものだから……」
すぐに我に返ったウリエルは、まだ視線を写真に釘付けにされながらも応えた。
「似てるって、誰に? ……ああ、死んだお友達? うちの村の出身の」
「そうだ。そんな筈ないのにな。すまん」
「ふーん、そんなに似てるの?」
「ああ……生き写しと言ってもいいくらいだな。偶然もあるものだ」
「でもさあ、よその人ってよく、うちの村の人間はみんな同じ顔に見えるって言うよ」
ウリエルは、少しむっとしたように言い返した。
「わたしが克巳の顔を見間違えるものか」
「あ……ごめん」
素直に謝ってから、霖はしげしげとウリエルの顔を見つめた。
「? なんだ」
「いや、あんたって、なんかすごく常人離れしてる気がしてたけど、今、なんか普通の人みたいだったな、と思って」
「そ、そうか?」
思いがけない言葉に、彼には珍しく、返答に詰まった。
「そうだよ。あんたにとって、その人、すごく大事だったんだね」
「……そうだな」
大事。そんな一言で言い表せるものではない、長い長い年月の彼方の光。だが、『大事』以上にぴったりくる言葉も思い当たらない。
「そうかあ……ひょっとして、その人、竜のほんとの家族かもしれないね」
ふと思いついたように霖が呟いた。
「どういうことだ?」
「竜はね、拾いっ子なの。巌兄ちゃんが子供の頃、山で拾ってきたんだって。村の人はみんな知ってることだけど。でも、おじさんもおばさんも、他の兄弟と全然分けへだてなく育ててね、実の親子とまったく変わりないんだよ。すごいでしょ?」
「……ああ。そうだな」
何かがウリエルの感覚にひっかかった。
「竜はきっと何世代か前に村を出た人の子孫なんだろうって話になってるけどね。その、克巳って人も、きっとそうなんじゃない?」
「……そうか」
霖の言葉を聞くうち、ウリエルの内には次第にある恐ろしい可能性が浮かび上がってきた。まさか、そんな? 彼女が、いまだにそんな事を?
「ね、どしたの? 顔色が悪いよ?」
「……すまない。少し、酒が過ぎたようだ」
「あら、大丈夫?」
そう言って覗きこんだ霖のほうは、ウリエルとは対照的に真っ赤に染まっており、翌日に大丈夫でなくなるのはどう見ても彼女のほうのように思われる。だが、ウリエルはそんな事にもはや構ってはいられなかった。
「今夜はとても楽しかった。わたしは休ませてもらう。おまえもそちらのソファで休むといい」
「おやすみ。あ、ねえ、残り、飲んでもいい?」
「……好きにしていい。では……おやすみ」
束の間、不思議な表情で霖を見つめると、ウリエルは立ちあがり、奥の扉の向こうに姿を消した。
霖は、ウリエルがテーブルの上に置いていった大事な写真を手に取り、とろんとした目でうっとりと恋人を眺めた。
「りゅう……逢いたいよ……」
普段は独り言でも口にしたりはしないのに、酔いは胸の中の言葉にできない言葉を次から次にと迸らせる。
「竜……だいすき」




