16・惑夜
竜が控えめにマリアの部屋の戸を叩いたのは、夕食が終わってすぐの時間だった。
炊事や洗濯を請け負う女性の半数は通いであり、女性用の区画には部屋数にゆとりがあったので、最も歳若いマリアも、狭いながら個室を与えられている。
あんな事があったばかりの女性の部屋に、男が一人で見舞いに行くのはよくない、と自分に言い聞かせようとしたが、マリアが夕食時にも姿を見せなかったので、彼女の無事な姿を確認しておくのも隊長の務め、などと勝手な理屈を自分に対して並べたてた。要するに彼女に会いたくていてもたってもいられなかったのだ。
もしも迷惑そうな様子だったらすぐさま立ち去ろう、と心に誓いながらノックをすると、ややあって、とん、と軽く床が鳴る音がした。寝台から降りた音だ、とすぐに気づき、竜は激しい後悔に襲われる。やはり伏せっていたのだ。
来なければよかった。彼女は今、男の顔を見るのも不愉快な気分に違いない。不埒な行為は幸い未遂に終わったとは言え、清らかな彼女の心はどれほどに傷ついている事だろう。
(いや、しかし……)
彼女は確か、自分にも責任があるような事を言っていなかったか? 不用意に男の部屋に入ったりしたからと。なら、それは違う、と言ってやらなければ。彼女が自分を責める必要はない。悪いのはアクセルなのだから。副隊長の権限を利用した、悪質な行為だ。……しかし、いくら酔っていたとはいえ、彼がそんな卑劣な振る舞いをするとは……。
わずか十秒ほどの間に竜の心に様々な葛藤が沸き起こっては消えていった。まとまった考えも得られないまま、扉が開いてマリアの小さな顔が覗くのを、竜は戸惑ったような表情で見つめた。
「隊長さん……」
「あー、いや、具合はどうだい?」
「だいじょうぶです……」
伏せ目がちに、マリアは応えた。
「そ、そうか。夕食は食べられそう? もしなんだったら、ここへ運ぼうか?」
「いえ、そんな。おなかはすいていません」
「そうか」
会話が途切れる。マリアは、目を合わせようとしない。やっぱり迷惑だったのだ、と、竜は激しい後悔の念にかられる。彼女に非はないと慰めようと思っていたが、さっきの話など蒸し返せる空気ではない。
「邪魔したね……ちょっと、心配になったものだから。大丈夫ならいいんだ。明日は無理しないで、部屋で休んでいるといい」
それだけ言うと、竜は踵を返そうとした。
「ま……まって! 待ってください!」
華奢な手が、竜の上着をつかんだ。
「え?」
「はなしを……話をしたいです。中に……入ってもらえませんか?」
「えっ……」
予想外の言葉に、竜は心底驚いた。
ほんの先程、男から怖い目に遭わされたばかりの娘が、二人きりになろうと言い出すとは、思いもしていなかったのだ。
この訪問で、自分が意識せずとも期待していたのは、彼の気遣いに感謝し、はにかんだ笑顔を見せてくれる、程度の見返りでしかなかった。
女性心理は解らない……だが、純真なマリアの事、ただ単に、自分を心から信頼してくれているのだろう。……それとも、男と思われていないのだろうか?
ともあれ、好意を持った女に部屋に招かれ、断る理由はない。竜は、うぶな少年のようにそわそわした気分で部屋に足を踏み入れた。
柔らかな花の香りがする。寝台と物入れと小テーブルしかない小部屋だが、テーブルの上には裏庭で摘んだと思われる小さな花が活けてある。そんなに強く香る花ではない筈なのに、なぜか噎せ返るような花気に部屋全体が覆われているように感じられた。あてられて、竜はくらくらする。
「隊長さん……?」
「あ、ごめん……花の香りが、すごいね」
「お嫌いでした?」
「いいや、良い香りなんだけど……」
「お顔の色がよくないわ。そこの寝台に座って下さい」
そう言うとマリアは、竜の背中を支えるように寄り添う。花の甘い香りは、マリアの身体からも強烈に感じられる。その香りに竜は酔った。
「マリア……男なんか、嫌だろう?」
「私は、隊長さんだけを見てきました。隊長さん以外の人は嫌です。でも隊長さんなら、私……」
マリアの半開きのピンクの唇に、竜は吸い寄せられる。思わず抱きしめて、その唇を味わった。甘い。
「いいの……?」
「隊長さんなら……」
会話すら拒絶される事も覚悟していたのに、誘われている、としか考えられない。それでも竜は慎重になってしまう。なにかやましいこと、なんて経験がなかったから、この期に及んで卑怯に逃げ場を確保しようと……相手から言質をとろうとしている自分の浅ましさの、自覚は微かにある。
でも、この機会を逃すなんて出来ない事だ、とも思った。
「なんで俺? きみみたいな娘なら、婚約者のいる男なんかじゃなくたって」
「そんなの関係ない……わたし、わたしには関係ない。隊長さんがそのひとを私より愛していても、いま、隊長さんの隣にいるのは、わたし。わたし、隊長さんを愛しています。今だけでもいいの。隊長さんのものになりたい……!」
「今だけなんかじゃない。俺も。愛しているから」
間違いじゃない。マリアは自分を愛している。
それを知り、竜の迷いは晴れた。――後から考えれば、これが、迷いと苦しみの沼への一歩になってしまった訳だが、この時の彼はそんな事は思いもせず、ただ幸福を感じた。
ゆっくりと身体を重ねても、娘は微かに震えただけで抗わない。竜は、花の香りに噎せながら、美しい娘の色香に酔いしれていった。
―――
翌朝。
薄手のカーテンを透かして夜明けの淡い光が優しく瞼をなぶる。
幸福感に揺られながら竜は目を開けた。普段と異なる部屋の様子に一瞬戸惑い、すぐにここが何処かを思い出す。目の前に、柔らかな金の髪が流れている。
(マリア……)
恥じらうように背を向けて両の手で胸のふくらみを包み込むような姿勢で、傍らにマリアが眠っていた。裸の肩が規則正しい寝息と共に微かに上下する。ほつれ毛を張り付かせた滑らかな首筋に続く、染み一つない絹の肌。
すべてを愛おしく感じ、また今すぐにでも手を伸ばして抱きしめたい衝動に駆られるが、起床の時間が迫っている事を思い、ありったけの自制心を働かせた。触れれば、抱きしめるだけでは済まなくなる。
未練たっぷりに竜が身を起こすと、気配でマリアも目を覚ました。
「ん……」
目を擦りながら起きあがるとそのまま白い裸身が露になる。気付いてマリアは顔を赤らめ、慌てて布団を肩まで引き上げた。
「マリア……」
何か言わなければ、と思うが適当な言葉が思いつかない。マリアは潤んだような瞳を大きく見開いて、竜の台詞を待っている。結局、何の独創性もない事を口にした。
「マリア、愛してるよ」
「嬉しい……」
か細い声でマリアは応じた。潤んだ瞳の表面が弾けて涙がふたすじこぼれ落ち、はにかんだ笑顔を布団に埋めた。何もかもが可愛らしく、愛おしかった。
だが、この時まではまだ、竜の中では、許婚の霖を捨ててマリアを選ぼうという明確な決意があった訳ではない。
家族や親類、村の皆から認められ祝福された縁組みであり、子供の頃から彼女の親兄弟とも家族同然の付き合いをしてきたのに、それを破棄して、生まれすら分からない異人種のマリアを妻とするとすれば、それは彼にとって故郷を捨てるに等しい行為となるのだ。
(だけど、俺は真剣にマリアを愛しているんだ)
竜はそっとマリアの頬に触れ、優しく口づけた。
(今、俺にはマリアが必要なんだ。霖じゃない。そして、マリアも俺を必要としてくれている。今は、それでいいじゃないか……)
それが、自分勝手な思いである事には目を背け、甘い唇を味わう事に没頭する。マリアは離すまいとするかのようにしっかりと竜の腕を掴みながら躰を預けた。
「もう、行かなきゃ……、隊長さん」
「二人の時は名前で呼んでよ」
「……竜さん」
竜はマリアの金色の頭を優しく撫でた。
「心の中では、ずっとそう呼んでました。竜さん……」
「マリア……俺のマリア……」
もう一度抱擁を交わし、それから幾分慌てて竜は部屋を出た。幸い、廊下には誰もおらず、際どいところで竜は誰にも気付かれずに自室に戻る事が出来た。
勿論マリアの部屋に泊まった事は規則違反であり、公になれば、隊長自ら一日独房入りという、世にも情けない顛末となる。
(かんかんだろうな、アクセルの奴……)
浮かれた気分で考えて、それから昨日の事を思い出し、はっとする。
最早アクセルをこれまで通り副隊長に就けておく訳にはいかないのだ。早急に彼に代わる人間を選ばねばならない。だが、実績、実力ともに彼に匹敵する者などいはしない。今までは隊の業務の半分はアクセルに委ねて何の心配もせずに済んでいた。自分自身でその仕事をするのと変わらないくらいの信頼があったからだ。しかし、これからは……。
(浮かれてる場合じゃないよな。気を引き締めないと、隊の士気に関わる事だ)
竜は軽い溜息をつき、懊悩を振り払うように冷たい水で幾度も顔を洗った。
洗面所には早起きの隊員が一人居合わせたが、彼は隊長が清々しい顔で朝の挨拶をするのに心中驚いた。長年の親友とあのような形で決別した事が、さぞかしショックで一睡も出来ずに悄然としているだろうと、誰もが予想していたのだ。
(あんな事があっても少しも落胆を面に出さないなんて、さすがだよな……)
隊員は秘かに感嘆しながらその場を離れたが、それは買いかぶりであった。確かに竜の中には落胆もあった。だがそれは、有能な補佐役を失った事に対する落胆に過ぎない。かけがえのない親友を失った事に対し悲嘆する事を、彼はこの一夜で既に忘れかけていたのだった。
―――
竜が室を去ると同時にマリアはベッドから跳ね起きた。
乱暴にシーツをひっぺがし、丸めて部屋の隅に投げ出す。それから服を着て洗面所に走り、布を水に浸して絞り、自室に駆け込むと服を脱ぎ捨てて急いで布で全身を拭き清めた。
「ああ、嫌だ! 熱いシャワーでも浴びれたらまだましなのに、この糞忌々しいとこにはそれさえありゃしないんだから! ああもう、こんなんじゃあの雄犬の手垢が取れやしないったら!」
あまりに強く擦った為に白い肌が斑に赤みを帯びてくる。舌打ちして彼女は布を投げ捨て、裸のまま硬いベッドに足を投げ出して座った。
「あああ、おぞましいわー……。でも、計画通り、ほぼ順調! クソ爺いのせいでアクセルの奴を竜に殺させ損なったのはちょっと読み違いだったけど、まあそれはそれでいいわ。殺したのとあんま変わんない位の効果はあったし、アクセルの奴は生かしといたら生かしといたでまだ役に立つかも知んないし。まあ、多少は足掻いてくれなきゃ、あの方も退屈なさるかも知れないし」
マリアは冷えてきた躰を自分で暖めようとするように、両膝を引き寄せて抱きしめた。独り言を言いつのるうち、最初の毒々しい表情は消えてゆき、次第に拗ねたような淋しげな表情が浮かんでくる。
「マスター、誉めて下さるかなあ。よくやったねって、笑って下さるかなあ。帰りたい……こんな穢れたとこから早く……エデンに帰りたい……」




