15・過去
アクセルは迷いの中にいた。
医師の私室を含む離れの診療所に向かう間、彼は現在の事もこれからの事も考えたくなかった。何も、考えたくなかった。
だがどうしてか、もう長い事向かい合っていなかった過去の事が奔流のように押し寄せ、彼の心を呑み込もうとしていた。
記憶が蘇る。
5つか6つくらいの幼い頃の記憶……村が大規模な盗賊団の襲撃に合った時、奥の部屋で眠っていた彼を起こしもせずに両親は逃げ去った。彼を折檻している時の顔しか思い出すことが出来ない両親の面影……。
盗賊は金品を奪い、彼の家に火を放った。必死で逃げ出した彼を難なく捕まえた盗賊は、彼の襟首を掴み、笑いながら、近くの崖から下の渓流にゴミか何かのように投げ捨てたのだ。
下流の村で奇跡的に救われ、彷徨った生死の淵から脱してからは、ただ食べさせてもらう為に奴隷のように働いた。厳しい冬にも納屋で寝かされ、寒さに一睡も出来ず、与えられた小さなパンを一晩かけてかじった。
13になり主人のもとから逃げるように隊に入ってからは、ただひたすら己を磨こうと鍛錬に励んだ。
若年ながら周囲に気を遣うこともなく、人を寄せ付けない雰囲気を持った彼は、隊の中で孤立した。なまじ武術の才があり、年齢不相応に小隊を任された事も災いした。
16の時、小隊を率いて北の国境に派遣された。
隊の者は皆、彼より年上だった。最初から隊員は年若い隊長に反感を抱いていたが、中でもヒギンズという男は度々彼の指示を無視し、単独で先走っては自分自身の身も他の隊員の身も危険に晒した。それでもアクセルは彼の窮地を幾度となく救った。それが隊長の役目と信じていたからだ。しかし、彼が皆の前で叱責する為にヒギンズはアクセルを恨んでいた。
ヒギンズが見張り番に立ったある晩、ふと目覚めたアクセルは、自分一人が敵の目前にいることを知った。ヒギンズは他の隊員達を巧みに煽り、彼に薬を盛り、敵の奇襲の前に彼を置き去りにして撤退したのだ。薬の為、足元さえ覚束ない。
アクセルは死を確信し、思った。自分の人生は一体何だったのか? 命を救ってやった男に陥れられ、死んでいく。友人も家族もなく、無論恋人もない。死んでも悲しむ者もなく、すぐに忘れ去られてしまうだろう。己を鍛え、敵を倒した。だが、何一つ生み出す事はなかった。
(俺は何の為に人として生を受けたのか……?)
だが疑問に答えを出す猶予はなく、悲壮な決意という程の事もない妙な諦念のもと、彼はふらつきながら剣を構えた。楽になど、死にたくない……。
その時、現れたのが竜だった。
「オーウェン、しっかりしろ!」
別部隊の小隊長だった竜とは、単なる顔見知り程度の間柄で、個人的に言葉を交わした事もなかった。それなのに、アクセルの窮地を救おうと、たった一人で敵部隊の前に飛び出してきたのだ。
アクセルは、自分は白昼夢を見ているのではないかと思った。一つ年下の、まだ少年にしか見えない竜が、よろめくアクセルを背後に庇い、敵の攻撃を避け、切り崩す。子供と思って侮っていた敵兵士が数人、瞬く間に朱に染まり、敵小隊の殺気も段違いになる。そのままだったら、二人とも結局血祭りに挙げられていただろう。
だがその時竜の部下たちが駆けつけ、人数は互角になった。乱戦の末、彼らは敵を撃退した。
「しょうたいちょーっ、もお、なんで俺らを置いてくの!」
息を弾ませながら髭面の男が笑って言った。
「だって、みんなが合流するのを待ってたら、オーウェンが危なかったんだよ」
「うーん……でも、待ってなかったから、小隊長も共々、危なかったんすけど」
「ああ、まあ、それはそうだよね。でも、結果的には僕も誰も死ななくてよかった。みんなのおかげだね」
竜は無邪気に笑う。
「しょうがねーなあ、竜ちゃんは。味方が危ないとなりゃ、途端に自分の安全を忘れちまうもんなあ」
中年男が言うと、返り血を浴びた男たちも屈託なく笑った。
呆気に取られているアクセルに、竜が歩み寄った。
「君のとこのヒギンズ達が戦闘した様子もなく引き上げてきて、だけど君の姿が見えないもんだから、さり気なく彼らの会話に気をつけていたら、君を置き去りにしたって聞こえたもんだからね。無事でよかった」
「なんで……俺はあんたの部下でもなんでもないのに?」
「卑怯なやり方を見過ごして君を見殺しにしたりしたら僕は自分が情けなくて夜も眠れなくなるからね。だから、別に君の為じゃなく、僕の安眠の為なんだ」
「そうそう、睡眠は美容と健康のもと、ってね」
髭面の男が茶々を入れ、また男たちが笑う。
アクセルには、何もかもが信じられなかった。
戦場で、軍で、こんな馴れ合いが……こんな結束が? 今まで自分は部下に舐められまいと必死で虚勢を張っていたんだな、とアクセルは初めて気付いた。竜を見ているとそれに気付かされた。人種も年もばらばらの荒くれ男たちが、竜を中心にひとつになっていた。
アクセルの部下達は竜の証言の下、大隊長により処断された。ヒギンズは処刑され、他の者は厳しい労役に就かされた。
アクセルは希望を出して竜の隊に編入された。竜をもっと近くで見たかったのだ。
竜を知るにつれ、彼にいかに自分の持っていない資質があるかよく解った。竜にはいわゆるカリスマ性があり、大抵の者が、竜の為なら一肌脱ごうという気にさせられるのだ。
竜とて最初からばらばらの隊員達を掌握できた訳でなく、最初の夜には暴力の洗礼を受けそうになったらしい。が、一対多にも関わらずそれをかわし、リーダー格の男だけを見事にのしてしまって、後には何の処分もしなかった事をきっかけに、徐々に部下達に認められるようになっていった、と、中でも陽気な髭面の男が語ってくれた。
アクセルには、その頃とても竜が眩しかった。
あまりにも恵まれた少年……だが、妬む気は起こらない。竜は彼が今まで持っていなかったものをくれた。彼を必要としてくれる者……竜は言った。
「力を貸してくれよ。もっと、世の中をよくする為に」
それは、今までさして目的を持たずに闘っていたアクセルにとって、不思議に魅惑的な呼びかけだった。
生きる目的……そんなものについて考えた事がなかった。考えれば、それがない事に気付くからだ。
だが、もう、目を逸らせて生きていかなくてもいい。竜と共に闘えば、未来を見ながら生きていける。16才のアクセルは、その時そう感じた。
相変わらず人付き合いは苦手だったが、彼を憎む者は減った。竜が親しくしているのだから根は悪い奴ではないのだろう、という評価が隊に浸透していった。そして1年間をその部隊で過ごした。
途中、竜の許婚の秋野霖が、同じ大隊の別の小隊に配属され、その頃は休みには3人で過ごす事も多かった。
1年程して、霖は負傷がもとで、辺境の部隊に転属させられた。国境の小競り合いは激化もせず、収まることもなく、ただ毎月双方数人ずつの死傷者を数えることの繰り返し……。
もっと市民を護るような仕事がしたい、と竜は思い始め、都市警護の部隊への転属を希望した。誘われるままにアクセルも同じ希望を出し、それまでの功績が認められて奇跡的に二人揃って希望が通り、この街へ来た。
竜に必要とされていると思い、竜と共にある事が、いつの間にか当然のようになっていた。だが、今、もう竜は彼を必要としていない。竜は、彼を殺そうとした。
涙が知らず溢れる。
自分が泣くなどという事は、生涯起こり得ないと思っていたのに。無言で掌で目頭を押さえているとハリストックの部屋の前まで着いていた。老医師は何も言わずに戸を開けて彼を導き入れた。
「先生……俺は竜の兄貴を殺した犯人かもしれないんだぜ? そんなに簡単に部屋に入れていいのかよ。あんたなんか一瞬でぶっ殺して逃げちまうかもしれないぜ?」
自虐的な言葉に医師は軽く肩を竦めた。
「儂の眼がそんなに曇るほど老いぼれておるなら、こんな命なんぞ惜しくもないわ。莫迦言っとらんで早う座らんかい」
肘掛けの取れた椅子に腰を下ろすと、医師は焼酎のお湯割りを作ってくれた。切った口の中の傷にきつくしみたが、消毒だと思って飲み下す。身体がぽうと暖まり、胃の中が熱くなる。
少なくとも、自分はたった独りではない。実の父親には何ひとつ暖かい思い出などないが、よく言うような“父親のように感じる”というのはこういう感じかも知れない、などと漠然と思う。
「……先生にはでかい借りが出来ちまったな」
「ほう、いつか返してくれるのかね? 楽しみじゃな」
「一生かかっても返せっこねーな」
「なんじゃ、おまえさんが一生かかったら、儂はとっくに墓の下じゃのう」
「いや、多分俺の方が先にくたばるだろう」
「何を言うとる、若いもんが」
「……」
そこで会話が途切れ、二人は暫く黙って飲み物を啜った。やがて、医師が沈黙を破って言った。
「おまえさんは、巌くんが殺された夜、何を見たのかね? 竜が言うておった……おまえさんは何かまだ話してない事があると。マリアの話とおまえさんの話が違うのは、おまえさんが何か手がかりをつかんでいて、それを言えない事情があるんだろう、と」
「言えない事情……か」
アクセルは自嘲気味に笑った。
「その事情とやらを、あいつは、俺が巌さんを殺った事だと、そう思ってる訳だ」
「そうは言ってはおらんぞ。ただ、隊員達の中におまえさんを疑う者がおるので、早く解決しないとおまえさんの立場が悪い、と言っておった」
「ふん……口でなんと言おうと、結局腹の中では俺が犯人だとずっと思ってやがったのさ。俺とあの女の言い分が対立してから、ずっと。ただ、長年の相棒がそんな事をやったと思う事に、あいつの清廉潔白なココロが耐えられないから、黙って見ぬフリしてただけだ」
「まあ、あやつはあやつなりに悩んでおったんじゃよ。普通なら、おまえさん、もっと厳しく取調べを受けても仕方のないところなんじゃから」
「……あんたも俺がやったと思ってたのか?」
「いや。いくらおまえさんが不器用でも、やるとしたらもう少しは自分に疑いのかからん方法でやるじゃろ」
平然とハリストックは言う。アクセルは苦笑した。
「わかんねーよ……俺は頭がおかしいのかもしれん。だって先生、信じられねーだろ。あの女が巌さんを締め殺したなんて話は」
「うむ……まあ常識で考えて、あり得ん事じゃの。ま、とにかく話してみい」
アクセルは訥々と、あの晩見たもの、そしてさっき起こった事をすべて、出来るだけそのままに医師に話して聞かせた。話している自分自身にも、どうにも現実として受け入れ難い内容もある。たとえ医師が信じてくれなくても仕方がない、と半ば投げやりな気分だった。
「ふーむ……」
話を聞き終えて、老人は暫し黙り込んだ。
「信じてくれなくていいんだぜ。俺があんただったら、絶対信じないね。信じるなら、あんたも俺と同じように頭がいかれてるって事だ」
「まあ、まあ、そう急かすな。確かにマリアがあの大男を腕一本で締め上げたなんて話は、あまりにも信じにくい。……しかしじゃな、おまえさんのような超現実的な男が、言い訳にしろこんな突拍子もない話を思いつく、などという事こそ、儂には到底信じられん話なんじゃよ」
「先生……」
アクセルは、感謝というよりむしろ呆れた気持ちで医師を見返した。
「しかし、そうとすると、マリアは一体何者なんじゃ? どうして巌くんを殺したりしたのじゃろう?」
「俺が知るかよ。こんな事して、あの女にどんな得があるのかさっぱり解らん」
吐き捨てるようにアクセルは答えたが、ふと、思いついて言い直した。
「いや……まあ、一番考えつくのは、何かあの兄弟に、または竜に恨みを持ってるって事か」
「竜に惚れとるのは、見せかけなんじゃな」
「そうだ。あの女が顔を歪めて、竜の間抜け、って言うとこ、あの莫迦に見せてやれたらな……。まあ、あいつが騙されてどうなろうが、もう俺の知ったこっちゃないがね」
自分に言い聞かせるような強い口調だった。
「あの娘が何か超人的な力を持って殺人まで犯したとなると、このままで済む訳はないと思うが……」
「俺には関係ないね」
「む……まあ、どちらにしろ、今は様子を見るしかないのう。とにかく、おまえさんの身柄は儂が預かっておるんじゃからの、上から何か沙汰があるまでは、勝手に出て行く事はならんぞ」
「解ってるよ。けど、もし竜の奴が俺を巌さん殺しの犯人として告発するようなら、その時は、むざむざ大人しく処刑されてやる気はないからな」
「そこまではせんじゃろう……証拠がある訳でもなし」
「そう願いたいね」
……こうして、アクセルは老医師の居室の居候となった。




