忙しい君へ。
僕の彼女は、忙しい人だ。
朝からバタバタと音を立てて、
ああほら、服が脱ぎ散らかってる。
ダボダボとしたトレーナーは彼女と色違いで揃えた。もちろん安心安全の某メーカーで。手の指にかかるその袖で眠い目をこすりながら、忙しない彼女に声をかける。
「おはよう。」
「おはよ!ごめん、起こしちゃった? あと5分で出ちゃうね!」
僕の声に振り向いた彼女は 朝からキラキラとした笑顔だった。
「今日早いの?」
あちこちと動き回っては身繕いをしていく彼女を目で追う。
「うん、ちょっと。昨日仕事残してきたから早く行くの」
僕の彼女は、仕事ができる。
早くて丁寧と評される彼女には、やたらと仕事が舞い込み任され、でも妥協はしないから書類やパソコンに拘束される時間が多い。
それなのに、
「寝てていいよ。」
ほらね。
「いや、今もう一回寝たら絶対に起きれないからやめとく。」
実際 昨日は課題に追われて、よく寝ていない。
「本当に夜遅くまでやってたもんね。終わった?」
「なんとかね。」
「やったじゃん。」
彼女の声に微笑んで応える。
鼻に香るいい匂いがした。
「あれ?朝ごはん作ってくれたの?」
申し訳程度のリビングにある低いテーブルには、湯気を立てた白米とお味噌汁が並んで 真ん中には 昨日の残りの肉じゃがと、忙しない中焼いてくれたのであろう少し焦げ目のアジの開きがあった。
「大根おろす時間はなかった、ごめん!」
てへへと笑う彼女に僕は、なんて声をかけたらいいんだろう。
「そんなんいいよ、ハナはちゃんとご飯食べたの?」
食器棚には、彼女の食器が寂しそうに置かれたままだった。
「じゃあ、行ってきます!食器は洗っておいてね〜」
僕の声には答えることなく、優しい笑顔だけを向けて
彼女はきっかり5分後にもう嗅ぎ慣れた香水を身に纏って扉を開けた。
本当に君は、出来過ぎてて困るよ。
「夕飯 作っとくよ。遅くならないようにね。」
見送りくらいしないと、罰が当たりそうだ。
「うん、ありがとう。いってきます。」
「いってらっしゃい。」
ガッチャンと重たく閉まるこの扉が何年経っても好きじゃない。
ほんの数秒そこに立ってしまう。
でも、
見送りをすると決まって、再び扉が開くのを僕は知っている。
「遅刻するなよ。」
ほら、今日も開いた。
「はいはい、しませんよ。いってらっしゃい。」
「いってきます。」
にへへと笑って彼女は扉を閉める。足音が聞こえて、僕は扉に背中を向けた。
「がんばりすぎだよ。」
彼女が作ってくれた朝ごはんを食べながらそんなことをつぶやいた。
忙しい朝を、僕のために過ごす時間があるのなら。
どうしたら君は、君の時間を過ごしてくれるのだろう。
彼女が社会人2年目に入った今年、しいては僕が大学4年になったタイミングで一緒に暮らし始めた。
というよりも一人暮らしだった僕と、一人暮らしをしたがっていたものの「心配だから」というあの「過保護」という名の子離れ親離れを遠ざける言い分により両親の許可がおりなかった彼女の両親と、折り合いをつけた結果である。
「僕が一緒に住みますから。」
学生の身ながら、何度か食事を共にした彼女の両親にそう告げて、無事に彼女は実家を出たということになる。
気づけば季節は秋、といったところだろうか。初めこそ当番制とかって振り分けていたものの、お互いに仕事や課題に追われ、できる方がするというスタンスに変わっていたのだが、大学4年の学生で彼女にとって年下の僕は少し、頼りないのかもしれない。
早くに親が離婚して、独り育ててくれた母親が看護師だったせいか、なんとなく憧れたその道に進んでは、課題だとか実習だとか、忙しい日々を過ごしていた。
忙しさにかまけて時間のままなんとなく過ぎていく日々に大学2年のある時 嫌気がさして、新しいことをしようと始めたボランティア先で出会ったのが彼女だった。
彼女は当時 2つ年上の大学4年で、僕が住む隣駅の大学に通っていた。
当時から、人のために自分の時間を使うのが好きな人だった。
「自分より他人」自分の力を誰かの為に使うことは、案外難しい。常にそんな思考回路になれることもないのに、彼女は本当に、元々の世話好きも高じて ひどく他人優先主義だった。
「なんで、ボランティア始めたんですか?」
ある日のボランティア。施設に移動中のバスで、隣に座った彼女と初めて会話をした時だった。
「んー、なんかさ。ありがとうって言われたらもちろん嬉しいんだけど、そうじゃなくてここに自分がいるって思えるんだよね。」
あの時は、空が目一杯に青くて バスの中に差し込む少し傾き始めた陽の光を眩しそうに遮りながらそんな難しいことを言った。
「ハナさんはここにいるじゃないですか。」
そんな僕を鼻でふふっと笑って。
「そうなの。ここにいるんだけどね。無償の愛とかそんな綺麗なものじゃなくてね、」
彼女はまだ、小さく笑い続けていた。
「自分のためなんだよね。多分、自分の生きがいなの。必要とされてる力になれてるなら、それが自分が必要の証で、ここにいていいよって言われてる気がするのね。だから、楽しいし、続けてる」
「あぁ、なんとなく、わかったかも。」
きっと、自分にも似たような感覚があった。
「そう?よかった」
そうして、陽の光を浴びて 安心したように笑う彼女の笑顔をちょっといいな、なんて思ったのはきっとずっと言わない内緒の話。
「おいしいなぁ。」
彼女が作る朝ごはんは、とてもおいしかった。
◯
2限目からの講義に間に合うように大学に着いて、数少ない男子学生の隣に座る。彼は同志であり、親友だ。
「課題終わった?」
「ほぼ寝てない代わりに終わったわ。」
「一緒だわ。」
この4年の間に何度 この会話をしたのだろう。この苦労はきっと、他の学生には分かんないんだろうなぁと思ったりするにはもう慣れっこだった。
「昼まで爆睡しちゃって寝坊するかと思ってたけど、普通に目が覚めた。」
「まじ?」
「まじ。なんか起きちゃったんだよね。」
ははーんと笑う彼のこの顔だけは、好きじゃない。
「彼女だなー?もう半年経つじゃん。慣れた?一緒の暮らしは。」
「慣れたもんは慣れたけど、なんか、頼りないんかなーって思うわ。」
あぁ、本当はこんなこと誰かに話すタイプじゃない。
今日は絶対、何かがおかしい。
「聞いてやろっか?」
「いいよ、うるさい。」
「うっわ、まじかよお前。」
大きい声とか、気さくそうな笑顔とか。
お前のそういう感じがちょうどいいんだ。
「まあ、あれじゃん? どうせ今日は夕飯でも作ろうとか思ってるんだろ」
「正解。」
それで、その察しがいい感じも。
「いいんじゃん?彼女さん、なんか尽くすタイプって感じだし、好きでやってんじゃんか。ありがとうって気持ち忘れなかったらいい気がするけど。」
「そうなー。」
でもそれは、彼女が普通の感覚の女の子だったらの話だと思った。
大学から帰宅して、なんとなく食べたいと思ったカレーを作りながら、考えていた。
彼の言葉は間違ってない。
1つだけ言うなれば、彼女は、「ありがとう」なんてこれっぽっちも期待してないような女性なんだということだ。
人を大事にしてしまう君が、
自分を大事にしない君が、僕にとってこんなにも大事なんだということをどうしたら伝えられるんだろう。
静かな部屋に人参がさくりと音を立てて、まな板に転がる。
君がいない部屋は静かだ。
「ただいま〜!」
静寂を破る大きな声が聞こえる。
足音がどんどん大きくなって、扉が開いた。
「ただいま、ナツキ。」
声のする方に振り向いて、笑顔を向ける。
「おかえり、ハナ。」
「ふふ、ただいま。」
彼女は、嬉しそうに笑った。その顔は少し、赤くなっていた。
「随分と早いね。」
時計はまだ、6時前だった。
彼女はいつも9時の少し前に帰宅する。
「うん、そうなの。ナツキに早く帰ってきてって言われたからね。」
そんなの、いつも言ってるのに。
「それに、夕飯も作ってくれるって言ってたからね。」
大学に残ってたり、バイトとかで滅多にないから申し訳ないけど、僕の方が早いときは、いつもそうしてるよ。
1つにまとめたセミロングの髪をほどいて、部屋着に着替える君を横目に見ながら、お鍋に火をかける。
「カレー?」
「うん、あとはルー入れて煮込めばいいだけだよ。」
「ちょっと早過ぎたかね」
「早く帰って来てくれる分にはうれしいからいいよ。」
君はまた、嬉しそうに笑った。
でも君の顔は少しいつもより、なんていうかちょっと火照っているから、
ごはんの出来具合よりも、多分僕の予想は合ってるだろうけど、君の早い帰宅の理由の方が心配だ。
そうだ、君の好きなホットミルクでも作ろうか。
「具合、悪いんじゃないの?」
ソファに座る君がぴたりと止まる。
止まってそして、小さく笑った。
君の口が小さく動いたのが見えて、でもなんて言ったかは分からなかった。
「そうでもないよ、ちょっと頭痛いだけ」
ソファの上で体育座りをするのは、君の寂しい時とか悲しい時とか不機嫌な時とか、とにかく何か良くないときなのは最近気づいた。
こっちを見ないで、寒そうなつま先をうつむいた目で見ていた。
「寒くない?」
「うん。へーきだよ。」
君が体を壊すのは、いつぶりだろうか。
お鍋の中でくつくつと音を立て始めた牛乳に、少しの砂糖を入れて、スプーン一杯のハチミツを。 君への「おつかれさま」をたくさん込めて、くるくるとかき混ぜた。
「熱は?」
「ないよ、大丈夫。」
付き合ってもうすぐ2年になる。時間にしたらそんなに長く君といないのかもしれない。
でもさ、
「嘘はよくないなぁ。ハナさんや。」
君が、辛そうなときはさすがに分かるよ。
「朝から悪かったの?」
君のマグカップにホットミルクを注ぎながら、横目で見る。
「、、、参っちゃうなぁ。」
そんなことをつぶやいて、君は体を丸くして、小さくなった。
「んー?」
「なんで、分かっちゃうかなぁ。」
それは、君が大事だからだよ。
「朝はねー、頭痛いなぁくらいだったんだけど、仕事してたら昼過ぎくらいからクラクラしてきちゃってさー。」
そんな君は、朝から僕にご飯を作ってくれて。
それできっと君は、仕事が遅い人の分まで気を遣って、自分の仕事じゃないことも笑って引き受けたんでしょ?
「お昼食べれなくてさ、働いてた方が楽だなーって。」
あぁ、そういうときあるよね。
それはちょっと、分かるかも。
「それで今まで働いてたの?」
「うん。でも、立ちくらんじゃって机の上の書類ぶちまけちゃってさ、先輩に体調悪いのバレて帰されちゃった。」
そう言って肩をすくめるようなことじゃないよ。
「それでね、その先輩が車で会社来てるから送るよってわざわざここまで送ってくれたの。ごめんね。」
君は目を小さく細めて、元々下がっている眉を、もう縦になっちゃうんじゃないかと心配するほどに下げる。
「んー?なんで謝るのー?」
「、、先輩、男の人だったから。」
君は言いづらそうにしたけど、その答えは予想外すぎて、思わず笑ってしまった。
こっちを見て、首を傾げる。
僕はそんな君の目を見ながら、
「はい。」
出来立てのホットミルクをあげた。
「うわぁ、ありがとう。ナツキのホットミルク甘くておいしいんだよね。」
「体調悪い時に、ミルクって俺は無理だけどね。」
そう言って笑うと、君はムッとした顔をする。
「なーんか、風邪引くと飲みたくなるんだよね。でもなんか、自分で作ってもナツキみたいにならないの。ナツキのホットミルク好き。おいしい。」
「ありがとう。」
湯気の立つマグカップを猫舌の君は恐る恐る口につけて すすっと飲んだ。
「うん、おいしい。」
ぬくぬくと笑う、君の隣に座る。
「別に怒んないよ、そんなことで。むしろその先輩には感謝するわ。ウチのがお世話かけましたすみませんって。」
「なにそれ」
君は楽しそうに笑った。
「さーて、本当はどうかな?」
君の額に手を当てがう。
熱い。
「うん、ちゃんと測ろっか。」
そう言って手に持ってきた体温計を渡す。
「ナツキ〜お願い、無いって言って。」
「休むことも必要だよ。」
優しさのつもりで言ったのに、君はふくれっ面をするからよく分からない。
君がぶつくさとものを呟いた。
「なに?聞こえない」
「なんでもないもん」
またそうやって、体を小さく丸めた。
君がホットミルクをすする音が聞こえる。
「カレー、明日にしようか。今日は、おかゆにしよう」
「え、いいよいいよ。カレー食べよう?」
「だめ。カレーなんて食べれる気分じゃないだろ。ご飯食べて薬飲んで寝たほうが治り早いから。今から作るからちょっと遅くなっちゃうけど、出来たら起こすからそれまで寝てて。」
立ち上がって、準備を始めようとすると君も同じように急いで立ち上がろうとするから
「はいだめ、もう決定したからね。寝てるか大人しく座ってるかにして。」
ブランケットを運んできて君に差し出すと、
君は納得のいかないような顔をしてそれを受け取った。
「うん、いい子。」
君は、僕の目をじっと見ながらソファに座り直した。
君がまた、小さく丸くなる。
君がそうやって小さくなると、天井から送られる光が1つ消えたみたいになんだかそこだけ少し暗く見えてしまう。
君に優しくしたいのに、君は優しくすると怒るから、たまになんて言ってあげたらいいか分からなくなるよ。
そのままソファにこてんと横になる君に、心の中でありがとうと呟く。
そして僕はカレーの火を消して、新しいお鍋を出しては 冷やご飯をお湯にかけた。
君が早く、元気になりますように。
出来たおかゆを机に置いて、ソファで眠る君のそばに座る。
「ハナ。」
呼んでも君は目を開けない。
すやすやと寝息が聞こえる。
足元に潰されたブランケットをかけてやると、彼女は身を整えた。首元に貼りつく彼女の髪が、身体の熱さを物語っていた。
「ここで、お姫様抱っこでもしてベッドに運べたらいいんだろうけど、」
少ししかめっ面をして眠る君の頭を撫でる。
「ベッドに運んじゃうと、そばにいてあげれないからなぁ。」
これは僕のワガママだ。
今日はまだ、まとめなきゃいけないレポートが残っていて、リビングテーブルと遅くまで仲良くする予定だった。
「ハナ、カレーは明日一緒に食べような。」
それで、明日は一緒に映画でも見よう。
たまには、君と僕でゆっくりしてもいい気がするんだ。
ねぇ、ハナ。
ハナが今も寂しくならないように
居場所が分からなくならないように
君が一番望んでないけど、君に一番伝えたいことを。
「ハナ、朝ごはん、作ってくれてありがとう。」
忙しい君へ。
「毎日、頑張ってるね。おつかれさま。」
自分を犠牲にしてしまう君が、
君のためのおいしいごはんを食べられるように。
「頼りなくてごめん。でも俺も頑張れるから。」
君よりもたくさん 「おかえり」と言えるように。
「早く課題終わらせて帰ってこなきゃね。」
それで、今日みたいに君と僕のごはんを作って。
「ハナ、起きて。」
疲れて帰ってくる君が、こうして少しでも休めるように。
「ハナ。」
体を揺すると、君が目を開ける。
少し目線が泳いだ後に、熱で潤んだ目が僕の目線と重なる。
「あ、、、ごめん。」
少し掠れた小さな声で、むくりと起き上がりながら「ごめん」と謝る君が愛しいんだよ。
「寝ちゃった、いつの間にか。」
君はやさしい。
僕には、もったいないくらい。
「おかゆ、食べよう。」
素直に こくんと頷く君は多分まだ、寝ぼけてる。
「少し冷めちゃったかもしれないけど、まあ ハナには食べ頃でしょう。」
僕のその言葉には優しく笑って「ありがとう」と呟いた。君は そのままずるずると床に滑り落ちて、ちまりと座る。そしてスプーンを手にとって、両手を合わせる。
「いただきます。」
目をつぶって、軽くお辞儀をして。
君のそういうところが好きだ。
「どうぞ。俺も、いただきます。」
君と同じように、手を合わせて、お辞儀をして。
「ナツキもおかゆなの?」
「うん、カレーは明日ハナと一緒に食べるよ。」
おかゆを一口、口に運ぶ。
「だから、今日は早く寝て、早く治してね」
おかゆを口いっぱいに 「うん」と頷いた君が笑ってくれた。
「ナツキ、ありがとう」
「そんなんいいよ」
使い古された言葉には、使い古されるだけの理由がある。
君の笑った顔が見れたらそれで十分なんだ。
「でも、言いたいから。」
そんな真っ直ぐに見つめて来ないで。
「じゃあ、、こちらこそ。」
僕は、目を逸らして軽くお辞儀をする。
君に見つめられると、未だにちょっと照れるんだ。
「こちらこそって。ナツキからお礼を言われることは何も無いよ。」
「あるよ。」
君は、そういう言葉が欲しいわけじゃ無いって言うけど
きっと、
言われたら嬉しくないってわけじゃないでしょう?
「たまには、俺のために休んで。」
忙しい君は、時々頑張り過ぎるから。
どうかその頑張りが、褒められるものだと伝わるように。
頑張ってる君を知ってる人が、隣にいることが伝わるように。
忙しい君へ。
君は強がりが過ぎるよ。
たまには僕にも、君のために頑張る日を作らせてほしい。
きっと、伝えなくちゃいけないのに、浮かんでは消える言葉は毎日たくさんある。
今日は、君に伝えようと思うよ。
「いつもだよ。いつも、ありがとね、ハナ。」
君の笑顔が咲く。
あぁ、もう。
君からの「ありがとう」なんていらないから。僕はこれで頑張れるみたいだ。
ねぇ、いつも祈ってるんだよ。
君の頑張りに、たくさんのありがとうの花が咲きますように。