君に会いたくて・了
彼が山越えに選んだのは、曲がりくねった狭い山道だった。
新たに敷かれたうねりの少ない迂回道路もあるのだが、山頂近くを回るこの旧道が彼は好きだった。
高速道路や広く視界の開けた道を走るのとはまた違う感覚だ。
趣味で峠を攻める真似事を楽しむには丁度良い道だった。
山道は、周囲の木々や抉り抜かれた土手で曲がり先の視界が極端に制限されている。
大きく膨らむのは視野の確保には重要だが、反対車線へ出るような走り方は危険走行だ。
無駄に命を張るほど若くもなければ無謀でもない彼は、高速移動に特化したバイクである『隼』で無理はしない。
基本的には、大型のスポーツバイクは山のくねった道を走るのに向いていないからだ。
そこはモトクロスの領域である。
山頂に近づくにつれて、カーブがさらにキツくなり、ガードレールの向こう側は断崖になっていく。
それでも二車線を確保している旧道の角を折れる時には、カーブラインを普段より意識して体を倒した。
視界は真っ直ぐに進行方向に、流れていく道と横合いの崖の境界線へ固定し続ける。
S字に差し掛かると、左右に倒す度に空気が抜けるような音に似たフォン、フォン、というバイクの車体が上げる音と、サスペンションの柔らかさを感じる。
バイクは、曲がる時には視線の向きが重要な乗り物だ。
街乗りで意識する事は少ないが、視線誘導を意識せずに車体を膝を擦る程に倒す行為は極めて危険である。
その最中にもし視線を外せば、下手をすれば転倒する。
転ければ、愛車も傷付く。
自分が疲れている自覚のある彼は、自分の技術ギリギリという無理こそしなかったが、視線以外にカーブ直前のリアブレーキのタイミングと、カーブで視界が開けた瞬間のスロットルに細心の注意を払うような走行をした。
上りは、すぐに速度が落ちる。
『隼』のエンジンには負担を掛けるものの、よりバイクを操っている感じのする上りの方が彼は好きだった。
そうこうする内に、この山道で一番カービングのキツいポイントがくる。
急ではない。ただ、長い。
リアを踏んで体が僅かに後ろに引かれる感覚、同時に体と車体をバンクする。
バイクを操るのはハンドルではなくタンクを挟んだ太ももと、上体による体重移動だ。
本気で速度を落とさないように倒すと、タンクに上側になった足を引っ掛け、ハンドルにぶら下がるような状態になるが、そこまではしない。
きちんと足でタンクを挟み、視界を前へ。
アクセルは一定に保つ。
視界が開けるまでの数秒に意識を集中する。
山道の風は涼しく、街を走るのに比べて思考はクリアだった。
日が翳り始める頃合いまでに、このポイントを抜ける事が出来て良かった。
このポイントを抜けた先も、彼の好きな場所だった。
カーブを抜けた瞬間に、体を起こす。
この場所は少しの間、直線だ。
海への丘とは違い、体を倒したのと逆の方角に視界が拓けており、夕日に照らされた眼下の山間と、同じ色をした彼が住んでいた街の姿が、一気に飛び込んで来た。
山頂近くの涼しい風も、強く吹き抜けて汗を乾かしていく。
街の姿は、またすぐに現れたカーブの向こうに消えたが、彼は満足だった。
下りはライトを点けて普通に走行し、大きな道路に当たると制限時速を守って走り、側道へ抜ける。
目的地は、街の幹線道路の脇にある、それなりの規模の珈琲豆販売店主と喫茶店が一緒になった店だった。
日はすっかり暮れているが、まだ店は開いていた。
彼は、裏手の従業員用駐輪スペースのさらに奥、店主のプライベートスペースである車が二台止まれる駐車場の片方に『隼』を止める。
駐車場のもう片方は、ATの軽自動車で埋まっていた。
愛車を労い、横の軽が駐車場の明かりに照らされているのを見て、眉をしかめる。
埃で汚れていた。
店主は、乗り物は移動手段、走ればいいという位の興味しかない人物だ。
明日洗ってやろう、と思いながら、彼はメットを脱いで頭をくしゃくしゃと掻き、濡れそぼった髪の汗を飛ばすと、店の表側に回った。
※※※
からん、と下げられた鈴の涼やかな音色を鳴らしてドアを開けると、いらっしゃいませ、とカウンターの中で顔を上げた店主が妙な顔をした。
閉店間際の来客に内心はうんざりしていただろう彼女に、ただいま、と笑みを含んで声を掛ける。
驚いた顔ののまま、休みだったの? と問われて、彼は、連休、と短く答えた。
店主は若くはない。
子どもが手を離れてから、お互いに顔のシワが深くなったが、相変わらず彼女は綺麗だ。
じゃ、泊まるのね? と言われて、彼は頷いた。
店の中に他に客はいない。
従業員は顔馴染の一人で、軽く彼に頭を下げた。
走って来たの、と彼女に言われて再び頷き、ごそりとポケットを探って、買ったキーホルダーを渡した。
撮った写真は、プリンタで焼いて後で渡すつもりだった。
データ管理の方が楽だろうに、彼女は古風にアルバムに写真を収めるのが好きだ。
一緒に行こう、と幾度か誘ったが、邪魔でしょ? と返されるだけだった。
デートには応じてくれるのに、ツーリングには誘っても来ない。
口下手な彼は、思い出の写真を渡す事は出来ても、その感動を彼女に伝えるのは苦手だった。
そんな彼の内心を知りもせず、帰って来るなら言ってくれたらまともに晩御飯用意したのに、とぶつくさ言いながら奥に引っ込む彼女。
だが、その足取りは軽いように見えた。
疎まれてはいないようだ。
知ってはいたが、戻ってきて素直な彼女を見ると、やはり安堵する。
続いて奥に入って靴箱の上にメットを置き、ブーツを脱ぐ彼に、戻ってきた彼女が、でも何で戻ってきたの? 用事? と、問いかける。
用事と言えば用事だ。だが、急いた用事ではなかった。
一応首を縦に振ると、彼女はふぅん、と声を漏らした。
これからまた出掛ける? と言われて、それには首を横に振る。
疲れた、と彼が我が事ながらぶっきらぼうに伝えると、先にお風呂にどうぞ、汗臭いわよ、と言われた。
また奥に引っ込んだ彼女に、彼は頭を掻きながら風呂へ向かった。
そう、用事はあった。それはもう達成された。
――――君に会いたくて帰ってきた、と。
決して自分は言わないだろうが、もし彼がそう言ったら、彼女は一体どんな反応をするだろうか。
以上執筆者peco様




