女神の片瞬き(ウインク)
懐かしいな、この景色。
単線で一両編成の列車から降りた駅は以前よりも少し寂れていた。目に見える駅の風景がぼやけた古ぼけた写真のように映った。
生き生きとした深緑の山々の裾に沿って線路が続いており、そこに小さな駅があった。山から吹き下ろす森林の空気が美味しい。ふいに列車が駆動する時の錆びた鉄が焼けたような匂いが鼻を突いた。
秋の連休に田舎の実家へ数年ぶりに帰郷した。今、暮らしている都会から新幹線と電車を乗り継いで六時間ぐらい掛かった。
「長かったな、こんなに時間が掛かるものか」
朝の九時頃に出発して、着いたのが昼の三時過ぎ。飛行機だったら六時間もあれば香港ぐらいまでは行けそうだ。それよりも移動だけでこんなに時間が掛かるのはもったいない。そう思ってしまうのは職業病だろうか。
この駅で下車したのは俺一人だけだった。電車の駆動音が段々と遠くなり、静まり返った無人の改札を通り過ぎた。
実家には母親と父親の懐かしい笑顔があった。
久しく息子の姿を見た母親は晴れやかな表情を見せた。安堵した時に頬が緩む表情だ。父親は畑仕事をしているので、相変わらず日焼けした褐色の顔がニコニコと太陽のように照っている。両親の顔からはきはきとした嬉しさが伝わってくる。
生活感の溢れた居間の座布団に座り、早速リュックの中からお土産を取り出した。父親には酒の肴に上質熟成サラミとわさびのチーズのセット、母親には有名処のショコラ・フィナンシェを渡した。
「ありがとうね、お供えをしてから頂くから」
父親は仏壇の前に供えられたお土産を開けたそうに眺めていた。俺は仏壇に線香を立てて、帰郷を伝えた。ひんやりとした畳の部屋に線香の香りがゆっくりと広がった。
「もしかして荷物はそれだけ?」
お土産を出した後のペチャンコになったリュックを見て、母親は驚きながら聞いた。
「明後日には戻らないといけないし、あんまり詰めると重たくなるから」
軽装でリュックの中には必要最低限の着替えしか持ってこなかった。単に荷造りするのが面倒なだけでもあった。土産を出したリュックは驚くほど軽くなった。
実家に帰省するのは就職して以来だから、三年振りかな。専門学校生の時は毎年かかさず帰ってきていた。新人は帰れない、休めない。今、勤めている会社にはそのような風習がある。開発会社のプログラム業務は常に多忙を極めている。息つく間も無いほど次から次へとプロジェクトが続き、同時期にプロジェクトを掛け持ちになる事もある。
入社して約三年間は一人前になるまでの期間として、正月や盆休みなども無い。特別な理由が無い限り、大型連休は無いといっても過言ではない。会社の体質もあるのだろうけど、今の会社ではそれが普通の事だ。
三年目になった俺はたまたま秋に大型連休ができ、思い立って戦々恐々ながら帰省することができた訳だ。両親とは電話で話すことはあったが、ゆっくりと話したい事が山ほどあるので、この連休中に話し合いたいと思っている。あと今晩、高校の同窓会があるから参加する予定だ。
それにしてもさっき出してもらった麦茶が香ばしく、とても美味しかった。普段の生活ではミネラルウォーターかジュース、栄養ドリンクが多く、麦茶を飲むことが無かった。家の中の雰囲気や匂い、何もかもが懐かしかった。
夕方、集合場所の山村にある飲み屋までバスに乗っていた。曲がりくねった山道を曲がる度にバス内部が大きく揺れ、身体も合わせて左右に傾いた。
同窓会は毎年開かれているようで、俺は三年振りの参加だった。自分がみんなの事を覚えているかどうかよりも、みんなが自分の事を覚えてくれているかどうかが心配だった。
当時、俺はクラスの中ではあまり目立たなかった存在でもあったからだ。南河京司、俺の名前を覚えていてくれるだろうか。
バスが遅れたせいで開始時間に遅れそうになり焦ったが、なんとか間に合うことができた。
山の中腹に小さな集落があり、そこに飲食店が何軒か集まっている。その中で川べり近くにある飲み屋で同窓会が開かれる。 “居酒屋白兎亭”と書かれた大きな看板の老舗の飲み屋に到着した。
飲み屋内には見覚えのある顔触れがすでに集まっていた。みんな高校を卒業した後は就職をして地元に残った者、都会に出ていった者、各々が身の振り方をそれぞれ選んで散らばっていった。やっぱり都会に出て行く人が多いようで、久々の再会を懐かしむ声が多い。
座敷に上がり、見渡して旧友を探した。高校時代にいつも一緒に行動していた親友の石持健治の姿は見当たらなかった。あいつは優秀で確か電力会社に就職したはずだ。就職してからその後の話を聞こうと楽しみにしていたが、不参加なのが残念だ。今の時期は忙しいのだろうか。
大部屋に大きなテーブルが四つ並んでおり、みんなランダムに座っているので、適当に空いている座布団に腰を下ろした。今回、参加者はクラスメイト全員ではなかったが、参加者は三年前の同窓会より減っている。テーブルに酒が配られる前から大きな話し声があちこちから巻き起こっていた。騒ぐメンバーは昔から変わらないな。
委員長の藤島崇雅と副委員長の三島凪子が立ち上がり、ざわついたその場を仕切りだすと周りから徐々に静かになっていった。
「えー、それでは高校三年A組の同窓会を始めたいと思います。堅い話は抜きにして、同窓会を楽しみましょう。えー、皆さんグラス持っていますか? 持っていますか? はい、それでは再会を祝して乾杯~~!」
「乾杯~!!」
皆、周りの人とグラスを鳴らした。
俺はたまたま隣に座っていた友達の鈴村さんに話しかけた。鈴村夏美、しっかりしてそうだけど、たまにずぼらな面を見せるどこか抜けた所のある性格な子だ。高校時代に掃除当番で一緒になったのを覚えている。よく話した事があり、仲良くしていた女子生徒の一人だ。昔は髪が長かったような気がするけど、今は短めのボブヘアーにしている。
「鈴村さんは地元組だった? 商店街だったかな?」
「そう、私はずっと地元組。商店街の店が去年に閉店しちゃったから、今は隣町のお土産屋で販売の仕事をしているの。機会があったら寄っていってよ」
ニコッとした表情が当時と変わらないな。
「南河君、都会暮らしはやっぱり楽しい?」
下から覗き込むような目線で鈴村さんは聞いてきた。
「そうだなぁ。都会は飽きないね、毎週土日はどこかの街でイベントをしていて、見て周るだけでも楽しいからな」
「良いなぁ、私も都会に出た方が良かった」
話していると、後ろから酒を持って大柄な男性が会話に割り込んできた。
「おっ 久しぶりだな~、南河! 二、三年振りじゃね? 仕事は何やっているんだよ」
小崎雅樹、こいつの名前。昔から声がデカイし、態度もデカイ。
「三年振りだな。俺はプログラマーやっているよ。小崎は実家の跡継いだのか?」
「酒屋継いで、毎日配達ばっかりしているぞ。この飲み屋にも毎日配達しているからな。お前、プログラマーってパソコンで仕事かよ。良いな、毎日デスクワークで」
「デスクワークだけど、忙しさがピークの時は会社に一週間泊り込み、なんて事もあるけどな。小崎もやってみるか?」
「マジか! 一週間泊まり込みってキツイな。それってブラック企業じゃねえの? ヤバくね? ヤバイ会社じゃねえの?」
「開発会社ってだいたいそんなものだよ。過労で死んだやつもいないし、パワハラも無いし」
「まあ、そういうのを聞くとやっぱり俺には身体を動かす仕事の方が向いているわ。サボれるし、ガハハハ」
小崎はそう言うと、そのまま違うテーブルへ酒を持って移動していった。確かに脳みそが筋肉でできてそうな小崎にはプログラムとかは無理そうだ。
「プログラマーってそんなに大変なのね」
鈴村さんは嵐が過ぎるのを待っていたかのように話しかけてきた。
「プログラムの作業はやる事は決まっているけど、それを納期に間に合わせるのが大変かな」
「だから一週間泊まり込みとかがあるのね」
「仕様が決まっていたら良いけど、だいたいは決まってなくて、見切り発車しないと間に合わない。こう見えてプログラムは“力業”なんだよ」
「ちからわざ?」
「仕様が決まってなくても、仮で作っておいて、後々に詳細な部分を埋めて辻褄を合わせる。バグなんて出て当たり前の世界だから、最終的なデバッグは全力でバグを取る。無理矢理押し込める感じで」
こんな事を人に語るなんて今まであまり無かったかもしれない。
「へぇ、難しそう。よく分からないけど、そういう仕事なのね。私も無理そうだから、接客の方が向いているわ」
いかにも居酒屋のコース料理という盛り付けられた皿が順次、テーブルの上に並んだ。料理を食べながら酒も進み、ビールの次は日本酒を飲み始めた。こういう時にしか酒を飲まない俺は日本酒の味がとても美味く感じた。
突然、どこかのテーブルから大きな声が聞こえた。
「俺たち来年、結婚します」
みんなが注目する先を見てみると、それは委員長の藤島と副委員長の三島だった。
「おっ マジか! 委員長、副委員長おめでとう!」
俺は日本酒の入った枡を持って、騒いでいる人だかりへと移動した。
何故か突然、藤島コールが巻き起こる。
「部屋の中で胴上げは止めてくれ~」
委員長と副委員長の二人は高校時代から仲が良かったから、結婚するのはやっぱりという感じだ。二人が付き合っていたのは、クラスメイトの誰もが何となく分かっていたはずだ。皆、おめでとうの言葉を二人に浴びせていた。
「まだ来年の話だから」
委員長はもう明日にでも結婚するみたいな勢いの雰囲気に押されていた。
酔っ払った小崎が藤島と肩を組んで大声で歌いだした。
「♪貴様と俺とは~~」
店の中でこのテーブルだけお祭りのような盛り上がりを見せていた。会社の飲み会とは違って、こんなに腹の底から笑ったのはいつ振りだろう。今年は同窓会に参加できて良かった。
その後、店を出て送迎バスが来るまで、みんな近くの河原でなんとなく時間を潰していた。
薄っすらと雲がかかった月明かりで周囲や人の姿や景色はぼんやりとしか分からない。丸くなった石が川べりに無数に転がっているので足元がおぼつかない。姿は見えないが、小崎だけは声で居る位置がだいたい推測できる。
委員長の藤島が千鳥足でこちらに寄ってきた。
「南河、明日空いている? 渓流で釣りでもしようと考えていてな、いつものメンバーで。お前も一緒にどうだ?」
「ああ、俺も参加したい。明日は特に何も予定入れて無かったから大丈夫だ」
「分かった。一応、昼からの予定で。十三時に駅前で集合になっている」
それだけ言って、委員長は踵を返してフラつきながら歩いていった。相当な量のお酒を飲まされたのだろう。
俺はなんとなく川岸へ惹かれるように足が進んだ。目の前は薄暗く何も見えないが、河の流れる音はすぐ傍に聴こえる。ちょっと飲みすぎたのか火照った顔に当たる川からの吹く風が涼しい。分厚い雲が流れて、辺り一体が月明りに照らされて一際明るくなった。夜空を見上げると、ひときわ大きな満月が見えた。
「綺麗な月だね、まんまるで」
後ろについてきた鈴村さんが一緒に眺めてそう言った。
「そうだね、まんまるだ」
その美しい満月に魅了されて暫く眺めていた。
星もキレイだが、月の輝きの方が強く、圧倒的な存在感を放っていた。ルナティックという言葉があるように月が人を惑わすような力を持っているというのも何となく理解できそうだ。そういえば、都会で暮らしていて月なんてじっくりと見たりすることも無いな。目を閉じても強い満月の光が眼に焼きついていた。
一瞬、気分が悪くなり、足元がふらついて二、三歩ほど脚が前に出た。視線を夜空の月から川の方へ下ろすと、目の前に女性の後姿があった。ん? 誰だったかな。
顔が見えないため、服装からクラスメイトの誰だったかを思い出そうとするが、なかなか思い出せない。薄い白黒チェックのワンピースを着ている。後ろ髪が長く整ったストレートで艶々としていた。その後姿からは不思議と凛とした上品さを感じさせた。
こんな子いなかった気がするなぁ。
頭を傾げていると今まで吹いていた風が止み、生暖かい空気が身体を包んだ。ふと、まばたきをした次の瞬間には女性の姿は消えていた。ついさっきまで目の前に居たのに一瞬でいなくなった事に驚いた。
「あれっ? 消えた……」
頭で考える前に口から言葉が出た。俺はその場を左右見渡して、先ほどの女性の姿を探してみた。
「えっ? 何? どうしたの?」
後ろにいた鈴村さんが近づいてきた。
「目の前にいた人が突然消えた……」
「人が消えた? ちょっと怖い話とかやめてよ。私、そういうのは苦手だから」
よくある心霊的な感じではなかったからか、怖いといった感情は全く無かった。酔っ払っていたから錯覚でも見たのだろう、たぶん。
俺はそう解釈するしかなかった。でも、妙な事に目の前で消えた女性に心がときめいていた。後姿しか見ていないが、見入ってしまうほどの美人に思えた。さっきの状況を思い返して、そんな事を考えていた。
夜空の満月は流れてくる雲によって再び朧月になり、周囲は薄暗くなった。どこからか委員長の注意する声が聞こえた。
「川に入るのは危険なので止めてください」
こんな薄暗い夜に川に入る奴なんているのかと思ったが、向こうの方で小崎が膝ぐらいまで川に入って騒いでいた。同級生でもない人を装いたかった。そうこうしているうちに送迎用のマイクロバスが到着した。
マイクロバスは駅前に着いて、その場で解散となった。二次会に行く者、電車で帰る者、徒歩で帰る者、各々が別れていった。俺はほろ酔い気味で駅前から歩いて実家へと戻ってきた。それにしても楽しい同窓会だったなぁ。
今日は帰省での移動時間が長かった事もあり、両親と話をしている時も瞼が重くなっていた。酒も入っているので余計、身体に睡魔が近づいてくるのが分かった。こんなに眠たくなると睡眠薬はいらないな。
まだそんなに遅い時間でもなかったが、風呂からあがり、布団に横になるとすぐに寝てしまっていた。
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いつもの仕事帰り、終電車を降りて日付の変わる時間帯に家までの真っ暗な夜道を歩いていた。ざわついた駅前のコンビニを過ぎると人は誰も歩いておらず、すれ違うこともない。
街灯が一定間隔に点いている真っ直ぐな道を一人だけ歩いていると、照らされてできた自分の影がぐるぐると回転しているように見える。毎日の疲れが溜まっているからか、さっきからずっと同じ所を歩いている感覚になる。まるで無限回廊を歩いているみたいだ。
このままどこまでも夜道が続いていて、家にたどり着くことは無いのか。このままいつまでも夜が続き、明日は永遠に来ることは無いのか。このループした空間の中を歩き続ける。そのうちいつか行き倒れて、力尽きるのだろう。やっと楽になれる。そんな夢を見ていた。
次の日、起きた時には正午をまわる時刻になっていた。二日酔いも無く、頭がスッキリとして起きる事ができた。こんなにぐっすりと深く眠れたのは久しぶりだ。
大きなあくびで背筋を伸ばした後、ボーっと部屋の天井を眺めていた。
いつも休日といえば、普段から溜まっているやりたい事を消化するだけで早々と休日が過ぎていく。休日に趣味や雑用で何かしらの作業をしていると、心が全然休めていないのかもしれない。ボーっとして時間を過ごしているのはもったいないような気がするが、そういう時間も必要かなと思った。
ぐっすりとよく寝たので、寝起きでもう腹ペコだ。
食卓には母親のお手製料理のワニの炊き込みご飯とワニのフライ、サラダ、味噌汁が並んでいる。ワニというと普通は爬虫類のワニを想像するが、この地方では鮫の事をワニという。お祭りや正月のようなおめでたい日に食卓に登場する料理で、味は脂ののったマグロに似ていて旨い。これも都会では食べられない料理だな。
おかわりまでして、たっぷりと食べてしまった。
「ちょっと痩せたんじゃない? 向こうではちゃんと食べているの?」
おかわりをたいらげた俺に母親が聞いてきた。
「自炊はしていないけど、ちゃんと食べているよ」
そう言ったものの、毎日不規則な時間にコンビニ弁当や外食が多いので栄養面や健康に心配はある。でも、それは仕方が無い事だ。
周りのほとんどのプログラマーも入社当時より太っている。仕事に合わせていると必ず食事が不規則になってしまう。それに栄養面にまで気が回らない。
そのうち俺も何かしらの病気を抱え、今よりも太って帰ってくる事になるだろう。うっすらとその様な未来が見えている。
「ワニのご飯とフライ、久しぶりで美味しかった~」
俺は大きくなったお腹を摩りながら笑顔でそう言った。食後に数粒の薬を一気に水で流し込んだ。
「あら、何か薬を飲んでいるの? 病気しているの?」
「ん、ああ。これ風邪薬」
「あらそう。仕事は順調なの?」
「しんどい時はあるけど、今のところは順調かな」
テレビのお昼のニュースでも見ながら、両親と何気ない会話をしていた。
父親はサラミを食べながら、ビールの入ったグラスを片手に楽しんでいる。
「これ旨いから、今度も頼む」
日焼けした顔がさらに赤くなっているような気がした。テレビは連休の各地のイベントや高速道路の渋滞情報が何度も流れていた。
特に荷物を持たずに着替えだけ済ませた。
「今日、昼から出掛けてくるから。高校の同級生と釣りをしてくる」
「あら、そうなの。何時ごろに帰ってくるの?」
「決まってないけど、五時か六時頃には帰ると思うけど」
昼食を食べた後、一息ついたところだが、そろそろ出発しないといけない。
太陽の位置が高い十三時をちょっと過ぎた頃に駅前に着いた。
「おまたせ。あれっ、このメンバーだけ?」
駅前には委員長と鈴村さんだけだった。
「小崎と遠海さんが遅れている。後は高平が釣り道具をレンタルしてから来る予定だ。もうそろそろ来る頃じゃないかな」
委員長は腕時計を見ながら少し渋い顔でそう言った。
「小崎は二日酔いじゃないかな、昨夜のあの感じだと」
「そうだな。これ以上、遅かったら置いていくか」
この辺りは小さな駅がポツンとあるだけで、他にはタクシーを呼ぶための電話ボックスと自動販売機が数台のみ。電話ボックスって今でも誰か使っているのかなぁ。
「駅前にコンビニでもあれば時間を潰せるけど。おっ、遠海さんが来た」
「ちょっと遅れちゃった。お待たせしました~」
遠海三咲、高校時代は体育大会の時にリレーのアンカーを務めるほど活発な子だったが、今は少し落ち着いた大人の女性の雰囲気が漂っていた。つばの短い麦藁帽を被り、薄い水色のチュニックとスキニージーンズの服装をしている、おしゃれさんだ。
「今日は私が最後かと思ったけど違うのね。はい、これあげる」
遠海さんはみんなに缶紅茶を手渡した。何かと気を配る性格は変わらないようだ。
その後すぐに一台の黒いバンが走ってきて、俺達の前に停止した。
「うっす、みんな待たせたな」
バンのウィンドゥから南国の少年のような褐色の顔をした高平が現れた。高平信二、高校時代からやんちゃな容姿はそのままだ。たぶん、小学生の頃から変わっていないのだろう。全身、迷彩模様のつなぎを着て、腕まくりをしている。
「よーし、みんな乗れ、乗れ~!」
委員長は助手席に素早く乗り込んで指示を出す。後方のスライドドアを開けて、俺たちは次々と乗り込んだ。
「小崎君がまだだけど、どうするの?」
バンが少し発進した時、鈴村さんが気を遣って言った。
「……仕方がない、出発だ。小崎から連絡はないし、もしかしたら来ないかもしれないしな」
委員長はいつもの事だ、という雰囲気を醸す口調で答えた。
バンをユーターンさせた時、遠くから野太い声が聞こえてきた。
「おーーーーい! 待ってくれー。おーい!」
来た、来た! 車内にいる誰もが思った。
「俺! 俺! 俺も~!」
人通りの無い静かな駅前にひときわデカイ声が響き渡る。スライドドアを開けると、小崎は流れるように飛び込んできた。小崎の顔色が少々悪い、やはり二日酔いのようだ。
運転席と助手席の後ろに俺と小崎が座り、三列シートの一番後ろのシートには鈴村さん、遠海さんが座った。二列目と三列目は対面式になっているタイプだ。
「さあ、出発~」
この辺では有名な山彦渓谷へ車を走らせた。
委員長、小崎、高平、鈴村さん、遠海さん、そして俺。実はこの六人、高校三年A組の掃除当番で一年間一緒だったメンバーだ。
放課後の掃除時間にいつもふざけあって、掃除が終わってからも一緒にどこかへ遊びに行く仲良しグループだ。遊びに行く日はだいたい週に一回の体育倉庫の掃除の日だった。体育倉庫の掃除は時間が掛かるため、掃除を終えて教室に戻ってきた頃にはクラスメイトは誰も残っていない。何故か、みんなでどこかに遊びに行こうぜ、という流れになった。
学生服のまま近所の公園や大型デパート、スポーツ施設でバスケットボールやボウリング、農園で桃狩りやブドウ狩りなど、この地域で遊べる場所はほぼ行き尽くした。特にテスト期間が終わった時は六人で遊びまわったものだ。学校行事よりも六人で遊んだ思い出の方が記憶に残っている。
山彦渓谷まで車に乗って一時間ぐらいで到着した。バンは道路わきにある小さな砂利駐車場にゆっくりと停車した。
「ここも一回、来たことあったよな」
高平が車のエンジンを切ってそう言うと、みんなの頭の中に記憶が甦ってきた。そういえば、この渓谷までみんなで自転車を漕いできた事があった。その時はここにたどり着くだけで疲れて、暫く渓流で涼んだだけで帰った。でも当時はよくこんな所まで自転車で来たよな、ほぼ上り坂なのにペダルを踏んで。今ではそんな体力無いだろうな。
山道続きだったので小崎は少し血が引いたような白い顔をしている。
「小崎くん、大丈夫?」
心配した鈴村さんは優しい言葉をかけたが、小崎は大丈夫じゃないようだ。
車の置いてある場所からは、流れの穏やかな深みのある沢が見えた。所々に大きな岩が散乱し、日陰の部分には鮮やかな緑色の苔が生えている。
「よし、この辺でやってみるか」
高平はバンの上に固定してあるルーフキャリアーを外して下ろした。
「この中に竿が入っているからさ、みんな好きなのを取ってやってくれ」
各々が適当に竿を手に取り、それを眺めていた。
高平以外は釣り経験があんまり無いので、竿を持ったままどうしていいか分からずに説明を待っていた。みんなの目線を感じて高平が簡単に説明しはじめた。
「釣り針に餌を付けて岩場付近に垂らしていたら釣れる。イワナやニジマスがいるはずだから」
説明に対して委員長が皆を代表して質問する。
「餌って、あのミミズみたいなやつか?」
女性陣の視線が少し鋭くなったような雰囲気がする。
「そうそう、小さいミミズを付ける。身の中心に挿すとすぐに死んでしまうから、ちょっと外して挿すのがポイントな。袋に小分けしているから、それぞれ持って行ってくれ」
「了解~」
「私は餌が無理かな……」
鈴村さんは一人申し訳なさそうに小さな声で言った。
「ミミズが苦手って言う人もいるかと思って、ルアーも持ってきているからさ。苦手さんはこっち使ってよ」
高平は違う箱からルアーを取り出した。
「ルアー釣りはコツがいるから難易度が高いぞ」
先にルアーが結ばれているリール付のロッドを鈴村さんは受け取った。ボーっとしていて一言も喋らない小崎が不気味に思えた。
岩石から岩石に渡り、各々が沢のほとりで釣りをしている。日陰は常にエアコンが効いているような気温で涼しい。太陽が季節はずれの陽炎のようにぼやけて見えた。
地面や岩石の上を歩くとその振動で魚が逃げてしまうから、できるだけその場で糸を垂らして待つ。
水面を集中して見ていると、森林のあちらこちらからセミの鳴き声が聴こえるのに気がついた。ツクツクボウシかな、九月下旬でもまだセミって鳴いているのか。都会ではもう鳴いていなかったかもしれない。いいや、鳴いていても気付いていない可能性がある。忙しくてそこまで気がまわっていないからだ。穏やかに流れる時間が、頭の中で散らかっている記憶を徐々に整頓させていた。
一時間ほど釣りをしていたが、誰もヒット無し。
「一匹も釣れねぇぞ」
小崎が痺れを切らしたのか、デカイ声が渓谷に響いた。委員長も同様に諦めた様子だった。
「やっぱ時間帯が悪いのかもしれないな。昼からだと魚は寝てないか?」
俺は釣りの知識は無かったが、推測で聞いてみた。
「この辺は昼からでも釣れるはずだけどな。魚は見えるけど、食いついてこない」
高平は首を傾げて、少し申し訳なさそうな態度で言った。
女子二人はすでに諦めて、下流の沢の浅い部分で足を浸して雑談しながら涼を取っていた。
「よーし、この上流にダムがあるから、そこでやってみようぜ」
高平が気を取り直して次の釣り場を提案した。
「釣れないから次へ行くかー」
委員長の言葉に皆は従って、車の前に集合する事となった。
俺は向こう岸にいたので小高い岩石を軽快に飛び越えようとした。一瞬、立ち眩みが起こり、目の前が真っ白になった二、三歩ほど足元がふらついて、左側の深みのある沢に落ちそうになった。すると、俺を静止させるように左手の手のひらをこちらに向けている女性が目の前にいた。薄い白黒チェックのワンピースを着た女性だ。怒っているような怖い形相で俺の目を見て首をゆっくり左右に振っている。口は何かを言っているのだが、声はまったく聴こえない。顔立ちは整っていて、とても美人であり、とても可愛くもあった。大きくてキレイな瞳が魅力的な女性だ。目を合わしていると、心臓がドクドクと全身に響くほど鼓動を打っていた。ふと、まばたきをすると女性の姿は消えていた。
「あっ また消えてしまった……」
目の前には先ほどの岩石があるだけだった。
俺は何事も無かったかのように岩石を飛び越え、車の前に集まった。
「ここねー、いつもは釣れるけどな。上流にあるダムだとブラックバスもいるからトップウォーターの釣り方ができるし、たぶんねー、釣れると思うよ」
釣りの楽しさを伝えられなかった高平は悔しそうな顔をした。
「ダムまで移動するぞ。そこでは釣れそうだから、みんな乗り込んでくれ」
委員長は前向きに導くように言った。俺は車に乗る前に振り返り、もう一度あの女性のいた岩石を見たが、やはり誰もいなかった。
車で移動中、流れる風景を眺めながら、釣りの事よりもあの女性の事を考えていた。あんなにドキドキしたのは初めてかもしれない。心臓の強い鼓動と全身に血が勢いよく流れる感覚がまだ残っている。天地がひっくり返ったかと思うほどの美しい人だった。表情は怒っていたが自分の好みの容姿をしていて、思い出しただけで心がときめいた。今まで周りにいた女性の中で一番だ、理想的で完璧な女性だった。一目惚れってこういうのを言うのだろうな。
俺にとっては女神のようだ。これからはあの女性の事を女神と呼ぶことにした。親しくなりたい気持ちが高まって一向に止まらない。俺は初めて会ったので、女神の事を知らない。でも、あの時の様子だと女神は俺の事を知っているのかもしれない。それに何か喋っていたけど、声が聞こえなかった。まるで無声映画のワンシーンを見ているようだった。
窓の外をまばたきもせずにボーっとしているのがおかしかったのか、身体を揺さぶられた。
「南河君、ボーっとしてどうしたの?」
顔を覗き込んできたのは遠海さん。
「あ、あぁ。つ、釣りのイメージトレーニングしていた」
俺は本当の事は言えなかったので、咄嗟に誤魔化した。
「釣りに来て釣れないと、やっぱり悔しいよね。せっかく頑張って餌を付けたのに」
そういえば遠海さんは最初、餌を掴むだけで声をあげていたが、次第に慣れてきたのか釣り針に餌を付けるのも普通にできていた。遠海さんは適応力が高いようで、何でもやってのける事が多い。
車内は寝ている小崎以外は何かと盛り上がっている。
山彦渓谷からまた一時間ほど、俺達を乗せたバンは山道を上り、拓けた広い駐車場で停車した。ここまで来る人は少ないのか、車は一台も停まっていない。すれ違う対向車は一台も無かった。
連続したヘアピンカーブが続いていたので小崎の顔はさらに白くなっていた。
「すまーん、俺は寝とく」
そう言って小崎は横になっている。身体がデカイためシートからはみ出て落ちそうになっていた。車の中から小崎以外は元気に次々と降りて、鈍った体を動かしていた。
駐車場からは山間にまたがる巨大な湾曲した堰提が目の前に広がっていた。
「うわぁ、ダムってこんなに大きいのか」
心の底から自然と声が出た。
こっちの端から向こうの端まで何百メートルぐらいあるのだろう。堤頂部分は人が歩けるようになっていて、向こうの端までは遠近感が鈍るほどの距離があった。ここに来るのは初めてだったので、実際見るとあまりの巨大さに息を呑んだ。
提頂部からの眺めは壮大で、凸凹とした山々に森林の絨毯が被さっているみたいだった。遠くのほうに集合場所にした駅前や自分のいた街並みがミニチュアのように小さく見える。都会のビル群とは違い自然の素晴らしい景色に心が洗われるようだった。
絶景を堪能していると、背後から水気を含んだしっとりとした風が流れてきた。カーブを描いたアーチ式のコンクリートダムで貯水容量が大きく、貯水側は満杯に近いように見えた。
「放流とかしないかな」
俺はテレビのニュースとかで見るダムの放流の映像を思い浮かべた。
看板の説明には、ダムに水力発電の設備は無く、洪水や土砂崩れなどの水害を防止するための治水を目的としたダムという事が書いてあった。その場にいた皆、釣りの事を忘れて呆然と雄大な風景を暫く眺めていた。
「さぁー、釣りしようぜ」
皆は一旦、駐車場に戻り、釣具を持ってダム湖へ向かった。ダム湖の水面は渓流とは違い、止まっていて時折吹く風によって波立っている。
「この辺で良いだろう、よく見てみな」
高平は周りを見回して釣具を構え、専門用語で説明しながらやってみせた。
「まずロッドをキャストするよな。こういう風にペンシルベイトをドッグウォークさせるだろ、そこでバイトしたら一呼吸おいてフッキング。それの繰り返しでオッケーだから」
キャスト? ドッグウォーク? バイト? フッキング?皆はポカンとして、頭の上にクエスチョンマークが吹き出ていた。
そして、高平がロッドを振って三投目、着水とともにルアーが水中に吸い込まれた。
「おっ、きたぞ。バレるなよ~」
皆の注目の中、高平は見事に三十センチメートルオーバーのブラックバスを吊り上げた。
「おぉ、すごいな。そんな大きいのが釣れるのか」
さっきの専門用語はよく分からなかったが、俺も見様見真似で言われた通りに竿を振った。ルアーを投げて引き寄せるという動作を何度かやってみたら、ブルブルっとした感触が竿に伝わってきた。
「俺もきた、ブルっときた」
思いっきり引き上げると、同じぐらいの三十センチメートルオーバーのブラックバスだった。高平の釣り上げたブラックバスの横に並べてみたら、二センチメートルほど俺の方が負けていた。
「よっしゃ!」
高平はガッツポーズをして高らかに声をあげた。
こういう部分も昔から変わらないな。釣り上げた魚の大きさで勝って、目がキラキラとしている。もし逆に俺が勝っていたら、俺はこんなに喜んでいただろうか。ガッツポーズすら出していないと思う。
都会に出て、何か心の大切なものを失ってしまったような気がした。
「今日は入れ食いだな、渓流よりも最初からこっちに来ておけばよかった」
すでに三匹目を吊り上げていた高平がハイテンションでそう言った。みんなブラックバスやイワナなど何かしらの魚を一回は釣り上げていた。
「おっ 雨だ、雨!」
ポツリ、ポツリと大きい雨粒が突然降ってきた。見上げると、さっきまで青かった空が濃いいグレー色の雲に覆われている。雲の流れる速度が目で見て早く、見る見るうちに雨足が強くなる。
「夕立だ! 一旦、車へ避難するぞ」
委員長の大きな声が上がる前に、あちらこちらに散らばっていた皆が片づけを始めていた。俺も急いでロッドを引き上げて片付けた。さらに雨足が激しくなる。
すでにびしょ濡れながら、俺は車の中へ飛び込んだ。
「いやぁ、参った。参った」
「傘は持ってきているか?」
「一本も無いよ」
「バケツを引っくり返した雨ってこういうのを言うのね」
「山の天気は変わりやすいってね。でも、変わりすぎだろ」
「アハハハハッ」
寝ていた小崎以外は皆、ずぶ濡れで笑いあった。
車の屋根やウィンドゥには雨粒とは思えないほどバチバチと何か堅い物が当たる音が鳴り続けている。
ダム湖も雨で跳ね返った水しぶきが煙のように立ち込めている。湿気の高い車内から外を見ると、白い霧が周囲を流れていて、薄暗くなっていた。
「少し早いけど、霧が深くなる前に戻るか。駅前まで二時間は掛かるし」
助手席に座っている委員長は後部座席にも伝わるように言った。
「この辺は外灯も無いし、日が暮れると真っ暗だろうな。それにこの霧。霧というよりも雲だな」
高平は車のエンジンをかけながら、そう呟いた。
小崎はまだ熟睡中で大きないびきをかいてシートに横たわっている。車の3列目のシートに鈴村さん、遠海さん、俺が窮屈に座っている。
「よし、戻るか。安全運転で行けよ」
「まかせとけって」
俺たちを乗せた車はヘッドライトを点けてゆっくりと発進した。久しぶりに仲間とこうやって過ごしている時間がなんだか嬉しかった。こういう時間がいつまでも続けば、と高校時代の放課後にもそう感じたのを思い出していた。
駅付近まで戻ってきた頃には周囲はすでに真っ暗だった。まだ雨はしとしとと暗闇の空から落ちてきている。俺たちはその場の流れで近所の焼鳥屋へ飲みに行っていた。
「昨日も飲み会で、今日も飲み会ってどうなの?」
女子達がそう言う。
「有りだろうー。有り! 酒は百薬の長っていうだろ。ガハハハ」
具合の良くなった小崎が割り込むように酒を持って注いでまわる。
「まあ、飲み会というよりも今日は食事。俺は車の運転で飲めないから食うぞ」
高平は両手に焼き鳥をそれぞれ持ち、二刀流で次々と口に運んでいる。
「次回は海に行こうよ、車に乗って行けるのだったら」
こんな風に遊びに行く場所の提案をするのは遠海さんが多い。
「次回っていつだよ。来年か?」
そう受け答えをするのは、高平で今度は鳥釜飯を食べている。
「ガハハハ、次は海釣りか~。メバルにヒラスズキに……」
大きな声で小崎はビールジョッキを片手に嬉しそうに言った。
「釣りも良いけど、他にも何かしようぜ。海に行くなら」
俺はメンバーとのこういう会話が楽しかった。鈴村さんはその会話のやり取りを頷きながら静かに聞いていた。
騒がしい店内の一角で騒がしく飲み食いをしている。
「そうそう、聞いてほしい事がある」
委員長は大きく目を開き、全員の目を一通り見てからそう言った。
「何、何? 来年の結婚の話か?」
小崎があてずっぽうでそう言うと、遠海さんと鈴村さんの視線が集まった。そういう話は女子が食いつくのが早い。
「それとも、本当はホモだったから相談したいって?」
小崎が冗談混じりでそう言うと、遠海さんと鈴村さんの視線が集まった。こういう話にも女子が食いつく。
「ちょっと喋らせてくれよ。実は俺……、起業しようかと考えている」
それを聞いた一同は豆鉄砲をくらった鳩のような表情になった。そんな俺らを尻目に委員長は続いて話し始めた。
「脱サラして店を経営する予定だ。まだ来年になるだろうけど」
最初に口を開いたのは小崎だった。
「もう酒が回っているのか? 来年って結婚する予定じゃねえの? 金銭的に大丈夫かよ」
「市から助成金が出る。この辺の地域で起業した場合、最大五百万円まで資金援助してもらえて、無利子で二百五十万円まで借りる事ができる」
「いやいや起業に掛かる金銭じゃなくて、給料的な話だよ。安定した売り上げがあればいいが、それが無い場合だってあるだろ」
「給料が無いときは今までの貯金を切り崩すさ」
続けて小崎が見るからに興味津々で聞きほじる。
「それよりも起業って何を始めるつもりだ?」
「基本的にはネットビジネスがメインだ。最初のうちは仕事が無いだろうから、その間はカフェを開業しながら」
また皆、目をまん丸にした。
「カフェ??」
「そうだ。起業するオフィス兼店舗も無償で提供してもらえるので、何か使わないともったいないし」
「結構、起業に対して優遇されているみたいだな。オフィスが無償提供とか、そんな事あるのか」
「一応、期間が決まっているけど、延長も可能だし」
皆からの質問が落ち着いた所で委員長はこう言った。
「そ、こ、で、どうだろうか。俺が起業した場合、協力してくれないか」
みんな現職に就いているので、当然ながら一つ返事でOKという雰囲気ではなかった。
「悪いけど、俺は実家の酒店を継がないといけねえし」
小崎は仕方がなさそうにそう言った。
「俺も実家の漁具店を継ぐ事になるだろうなぁ」
高平も仕方がなさそうにそう言った。
「そうだよな、実家が店を経営しているとそうなるのは当然だよな。でも、ネットで商品の販売もできるようになるぞ。酒屋は難しいかもしれんが、釣具はできるかもしれん。今よりも販売範囲が広がるのは間違いない」
小崎と高平はなるほどな、といった表情を見せた。
「南河はどうだ? ウェブ系のフロントエンドエンジニアのお前が協力してくれたら助かるが」
委員長は俺の顔を見た。
「俺は……、今は順調で安定しているからなぁ。デスクワークしかしてこなかったから。もし営業みたいな事もするとなると苦手な方だからなぁ」
俺は正直にそう言った。
「そうだよな、都会で成功しているからな。今更リスクのあるベンチャーに行こうとは思わないよな、普通」
答えを推測していたのだろうか、委員長は納得した表情を見せた。
「私も同じかな。今の販売の仕事がようやく落ち着いてきた所で。でも、辞める可能性はあるかもしれないけどね」
鈴村さんはそう言った。
「私は協力しても良いよ。」
遠海さんの二つ返事に皆が驚いた。
「遠海さん、ありがとう。本格的に話が進んだらまた相談させてもらうよ」
委員長の顔が一気に輝くような表情に変わった。
「みんなの意見や状況を聞けて良かったよ。ありがとう。また気が変わったらいつでも連絡してきてくれないか。起業するのはまだ先の、来年の話だから。まあ、起業するのもまず市に事業計画が通らないと。だけどな」
委員長は話を遠ざけて終わらせようとした。
「でも何で起業するなんて思い立ったわけ? 今の会社が良くないから?」
遠海さんは話が終わる前に質問を投げた。そうだ、起業を決めた肝心な経緯を聞いていなかった。
「今の会社が良くないことは無いけどな。最近、起業コミュニティに参加する機会があってな。その影響かな」
今日の飲み会は終始、起業の話で盛り上がって終わった。
外に出ると雨はもうすでに止んでいて、辺りは土砂が湿った匂いがする。湿ったアスファルトの嫌な臭いではなく、澄んだ空気の匂いだ。駅へ行くメンバー、車で送ってもらうメンバー、徒歩で帰るメンバーに別れた。
俺は一人みんなと別れて実家へと帰る途中、考え事をしていた。起業かぁ、やっぱり委員長は見えている視点が違うなぁ。俺だったら起業なんて思いつかないな、リスク云々以前に。
お酒も良い感じに回り、ほろ酔い加減がとても気持ち良い。酒クセの悪い小崎は今日もかなり飲んでいたので明日も二日酔いだろうな。
閉まっている踏み切りの前で通過する電車を待っていた。携帯電話を眺めながら立っていると、脚がもつれて二、三歩ほど進んだ。すると、薄い白黒チェックのワンピースを着た女性が目の前にいた。はっ、と息を呑んだ。また逢えたと思うと嬉しくなってきた。やっぱり女神の顔は美しく、見ているとドキドキしてくる。しかし、女神は怒っている顔をしていた。今回は瞬きをしないように我慢している。瞬きをすると、またいなくなってしまいそうな気がしたから。女神は首をゆっくりと横に振って何かを言っているが、やはり俺には何も聴こえない。
突然、貨物電車が轟音とともに踏み切りを通過した。その影響で目を瞑ってしまい、次に目を開いたときには女神はいなかった。また消えてしまった。
何だろう……、俺を助けてくれたのかな。もしかしたら俺の守護霊?いいや、でも昼にも現れたから幽霊ではない、ちゃんと足もあった。踏み切りは自動的に音を立てて上がった。
実家に帰ってくると、父親は横になってテレビを眺めながらわさびチーズを食べていた。
「このチーズのやつも旨い」
俺は父親に同級生の起業の話をした。
「良いじゃないか、起業なんてものは若いうちにしかチャレンジできないからな。景気も以前より良くなってきたからチャンスかもしれん。五年後、十年後の姿を見据えて事業の計画を立てないといけないからな。事業を始めてから最初の半年で軌道に乗れるかが重要だ。毎月の給料を支払えるように売り上げを上げるのは、殊のほか大変だからな。畑は儲からん肉体労働だ。天候が偏ればどうしようもない。収穫できずに肥料になった野菜など数え切れないほどあった。常に前を向いてやらないとやっていけない仕事だ」
酒を飲んですでに出来上がっているのか、普段は口数の少ない父親がこれほど多弁になるのは珍しい。
父親は若い頃に都会の中小企業で営業をしていたが、脱サラして地方で畑仕事を始めたんだ。その経緯を俺が就職する時に聞いたことがあった。それが起業話の導火線に火がついたのだろう。
暫く話を聞きながら、もし自分が起業に参加したらどうなるだろうと考えていた。仕事は安定しないかもしれない、楽ではないかもしれない。父親の言うとおり、若い年齢の時にしかできないかもしれない。
中秋を過ぎた夜は夏の蒸し暑さが抜け、エアコンをつけなくても心地良い季節だ。風呂上りに横になっているだけで、瞼が自動的に閉まる。やっぱり睡眠薬はいらないな。
もう明日には都会に戻らないといけない、また六時間かけて移動して。楽しかった実家での暮らしもおしまいだ。はぁ。楽しかったなぁ。
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いつもの会社通勤でいつもの電車に乗り、いつもの歩道を歩いていた。何の前触れも無く、自分の足元が突然崩れていく。
「うわっ。落ちるっ」
すると、周りの住宅やビルが次々と崩れていく。地面が沈下して落ちていく。
次は街全体が崩れていく。そこかしこの街々が崩れていく。やがて地球がゆっくりと崩れていく。
これで全てが終わる。もう何も悩まなくてもいい、何も苦しまなくてもいい。やっと楽になれる。そんな夢を見ていた。
目を覚ますと俺は知らない場所に倒れていた。周りを見回しても暗闇で薄っすらとしか見えない。
湿り気のある土の上にうつ伏せで横たわっていたようだ。頬や手、腕、服に付いた土を手で払い、ゆっくりと立ち上がった。立ち眩みで目の前が真っ白になるが、すぐに視界が戻ってきた。月は無く、風も無く、音も無い。
俺はさっきまで夢を見ていたはずだ、ここで眠っていたのか。何故こんな場所に寝ていたのだろう、実家に帰ってから寝ないと。いいや、でも確か実家には帰ったと思うのだが、記憶があいまいだ。
父親と話をしたのは覚えている、それから後はどうしたのだろう。風呂から上がってから、いつの間にか寝入ってしまっているのか何も覚えていない。
依然、辺りは真っ暗だ。三メートルほど前に微量な明かり灯っているのに気付いた。その明かりは徐々に強くなり、まばゆい大きな丸い光へと変化した。
何だ、これは。俺は今まで見たことの無い現象に驚いていた。やがて大きな光の塊が何かを形作っていく。今度は光の強さが徐々に弱まり、微細な形でできた物が姿を現した。それを見ると心臓がドキドキしてきた。
それは薄い白黒チェックのワンピースを着ている女性だった。薄い光の膜のような靄に包まれている。
顔立ちは整っていて、何度見ても美人だ。美人の顔を見るだけで、顔が少しほころんでしまう。親しくなりたい気持ちで一杯だ。
まばたきを我慢しつつ、今度こそという気持ちで話しかけた。
「あの、君。俺は君に会いたかった。まだ数回しか会った事はないけど、もしかして俺のことを知っているのかな?」
目の前の女神は何も答えずに、こちらをじっと見ている。俺はまばたきが我慢できずに目を閉じてしまった。目を開いたら、女神は消えずにいた。やった、今回は大丈夫だ。
美しい女神は落ち着いた口調で話し始めた。
「南河京司、私は知っているのよ。貴方が今年、帰郷した本当の理由を」
透き通った可愛らしい声だ、ドキドキが止まらない。
初めての問いかけに答えるこの瞬間が緊張する。
「帰郷した本当の理由? 久しぶりに両親や友達に会いたかったからだけど、田舎でのんびりしたかったからかな。君もこの辺に住んでいるの?」
こういう時、言葉のキャッチボールが続くようにお喋りになってしまう。俺の話を聞いているのか聞いていないのか分からないが、女神は話を続けた。
「貴方はこの地元で死のうと思って帰ってきたのよ」
「……えっ!? 死のうと思って帰ってきただって??」
突然の事で俺は驚いた。何を言い出すのだろう、死のうなんて思ったことは無い。
「覚えていないの? 貴方は三回、死のうとしたわ」
「三回も? そんなの心当たりが無い。何かの間違いじゃないのか?」
困惑する俺に対して、女神は俺の目を見ながら冷静に答えた。
「月夜の川岸で入水自殺しようとしたのが一回、渓流の小高い岩石から身投げ自殺しようとしたのが一回、電車の踏み切りに飛び込み自殺しようとしたのが一回」
俺はその場面を思い出してみた。
「それはどれも君が俺の目の前に出てきた時じゃないか」
「そうよ、私が止めに入ったのよ。貴方が死のうとするから」
でも、まだ納得いかない。
「もし君の言うことが本当だったら、何故、俺は死のうとする。俺は死のうなんて思ってもいない。理由もないし、訳が分からない、勝手にそう決め付けないでくれよ」
話しているうちに、つい大きな声になってしまった。
「忘れてしまったのね……。自分にとって嫌な記憶は消してしまうシステムだから」
そう言葉を切って、何かを決心したのか今までとは違う強い口調で俺にこう言った。
「貴方は今年の春に心が壊れたじゃない!」
俺は突然激しい頭痛に襲われ、両手で頭を抱えた。それと共に頭の中で記憶がボヤッと思い出されてきた。
「貴方は全てを思い出して自身が認識し、乗り越えないと死のうとする気持ちは止まらないわ」
記憶を辿るように女神は続けた。
「貴方は今年の三月初旬から四月まで会社にほとんど泊まり込みで、修正対応にデバッグを全て貴方一人で行わなくてはいけなくなり、毎日仮眠も数時間しか取れなかった。家に帰るのはお風呂に入るだけ、また出勤の連続。食事も喉を通らなくなり、ご飯を食べるのは一日一回。流し込むようにおにぎりを一個、それだけで満腹になる。それ以上食べると吐いてしまうほどだった」
そういえば、俺は半年前の今年の春、仕事が忙しかった。なんとなくボヤッとしていた記憶の輪郭が確実にくっきりとしてきた。いいや、あれは嫌な夢だったはず……。頭痛がさらに激しくなり、頭が割れそうに痛い。
女神は俺を見つめながら続けた。
「デバッグが予想よりも長引き、納期までのタイムリミットが迫ってきた頃、貴方は一日中デスクワークが続いていたわ。あまりにも座ったままの作業が長かったため、貴方は脚が弱って椅子から立ち上がれなくなったわ。無理に立ち上がり、歩こうとして脚がもつれて床に倒れこみ、そのまま気を失った。そして出勤してきた同僚に発見されて、救急車に運ばれて入院した。もうその頃にはすでに精神は完全に病んでいた」
俺の頭の中に重い記憶が完全に甦った。頭痛が少し治まってきたが、今度は動悸が激しくなってきた。あれは嫌な夢ではなかったのか……。
女神は俺を見つめながら続けた。
「退院して自宅に戻ってからも、貴方は体調が良くならず、寝たきりの状況だった。横になっていても睡眠薬が無いと眠れない。まるで数十キログラムの鉄の塊が背中に乗っているように身体が動かせない。毎日薬を飲んでも一向に改善はしない。イライラが募るだけで何もできない。何をするのも億劫だった。症状が軽いときでも家から約五十メートル先のコンビニで買い物するのがやっとだったわ。一つのパンを何日もかけて食べて過ごしていた」
そうだった、頭の中でその時の記憶が大きな津波のように迫っている。目が開けられない、気持ちを整理する前に目を開けてしまうと気が遠くなってしまう。俺はしゃがみながら、深呼吸をして心を落ち着けていた。
女神は俺を見つめながら続けた。
「それから病状は徐々に良くはなってきたけど、仕事が順調なんて事はない。職場に復帰してみんな心配してくれたけど、それは最初だけ。貴方が倒れてデバッグ作業を途中から同僚に代わってもらった事や、通院や体調不良による不安定な出勤状況が続いて迷惑ばかり掛けていたわ。それで徐々に社内の邪魔者になっていた。会社で仕事がまともに安定してできないとそういう扱いになってしまう。会社なんて仕事の実績結果のみが評価される世界だから」
心の中に押さえていた現実が受け止めきれず、しゃがみながら地面に頭をつけた。背中一面に憎悪に似た重圧がのしかかる、寝たきりの時に嫌というほど味わった重みだ。俺の気力が目には見えない巨大な渦を巻いて吸われていく。
女神は俺を見つめながら続けた。
「貴方はそんな歪んだ現実が虚構の記憶だと心の中で思い続けていたため、記憶の醜い部分だけが固まり、心の深層の奥まで徐々に沈んでいった。それとともに極端な気分の浮き沈みも減っていたわ。一見、精神病が治ったように見え、それから一ヶ月ほどは精神が安定していた。だけど、心の奥底では自殺願望が巨大に膨らんでいた。この秋の連休で帰郷し、昔の同級生と楽しい時間を過ごしていると、現実の自分と虚構の自分がイコールになっていた姿に若干の違和感が生まれた。そのほんの小さなひびから自殺願望が漏れ出し、帰郷してから三度起こった」
それが死のうとしていた原因だったか……。自分には気がつかない心の奥底、意識の深層では自殺願望から死のうとしていた。それが突発的に起こっていたなんて……。女神はそれを止めに来てくれていたのか。
今、自分に起きている出来事が客観的に想像できた。精神病が治ったように見えたのは、嫌な記憶を消してしまったというよりも、記憶を司っていた意識が機能しなくなっていた、といった方が正しいのかもしれない。深い意識が停止して、表面上の意識のみが機能した状態のまま生活をしていた。でも、そうすることが一時的に俺の精神を守るために必要だったという事だ。
女神は薄っすらと瞳に涙を浮かべながら続けた。
「貴方は消してしまった記憶を逃げずに受け止めて克服しなければ、心の奥底の自殺願望は止まらないわ」
俺は頭を地面につけたままの状態で女神が語っていた話を事実として、自分が消していた記憶を受け止めようとした。すると、俺の中で、心の深層に沈んでいった固まりがゆっくり浮き上がり、機能しなくなっていた意識が少しずつ機能しだすと、失われて欠けていた俺の記憶が徐々に満たされ始めた。自殺願望が頭の中に木霊のように響きわたり、阿鼻叫喚をあげていた。
嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ……。
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい……。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……。
死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい……。
今まで消してきた希死念慮が一気に脳内を埋め尽くし、破裂しそうになっている。もう駄目だ。
四方八方から無数の鋭い棘が俺を狙い、一瞬のうちに身体を貫いた。人間が嫌いだ。
紙幣が空から無数に降ってくる、こんな紙切れに俺は自分の命を削り、生きる時間を捧げているのか。世の中が嫌いだ。
身体が切り裂かれ、圧力で押しつぶされて、ただの肉の塊となった。自分自身が嫌いだ。
全ての精神的苦痛が永劫に続く、己の尾を飲み込むことで環となった蛇ウロボロスのように。そして、全ては虚無に帰する。まるでトンネルの出口から差し込む光が遠くなり、自分の存在が消えていくような感覚になった。
精神の空間が壊れる瞬間、心の片隅に強く残っていた女神への気持ちが波動となって輝いた。
あああああああぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
念慮をかき消すように叫んだ。
暫く激しい心の苦痛が続いていたが、記憶が満たされていくごとに不思議と緩やかに薄らいでいった。雷雨の黒い雲が通り過ぎ、眩しいほどの晴天のような気持ちが不思議と心の中に広がっている。記憶が全て満たされた時には苦痛ではなく、仄かな安らぎが充満していた。本来の自分はこういう自分だったという懐かしささえ感じられた。
俺は立ち上がり、女神を見つめた。忘れていた記憶を思い出すことで、結果的に助けてくれた女神。
女神との会話の中で浮かんできた疑問をぶつけた。
「何故、君は俺の心の中のことを知っている? 奥底に沈め、忘れ消し去ろうとしていた俺の記憶を何故知っている? 君は一体、何者だ?」
女神は言葉に困り、目線を外そうとしながらこう答えた。
「……聞いてどうするの?」
「どうもしない。ただ、君に興味がある。君のことが知りたいからだ」
女神は今までとは違い、優しい表情を見せた。とても可愛かった。
「貴方には分からないと思うけど、私は貴方の“アニマ”よ」
頭の上にクエスチョンマークが飛び跳ねた。
「アニマ? アニマって何だ」
「端的にいえば、貴方の中の“女性元型”という存在」
頭の上のクエスチョンマークがもう一つ増えた。
「女性元型……?」
「そう」
「分からない、説明してくれ」
「そうね……。簡単に説明すると人間が生物として生を受けたとき、肉体は雌雄同体で性別によって雄なら雄、雌なら雌に成長する過程で各々の特徴の個体へと変化してくわ。しかし、精神は雌雄異体、つまり二つの精神が宿っているの。性別が雄だった場合、雄の精神としての男性元型が表に現れて意識を司るようになるわ。その時、雌の精神としての女性元型は意識の深層にある無意識へ沈下していき無意識を司るようになるわ」
「その女性の精神が君だって事?」
女神はコクリと頷いた。
何だか分かったような、分からないような感じだが、要するに俺は“俺の男性精神”で、目の前にいる女神は“俺の女性精神”という事なのか。ちょっと信じられない眼差しで女神をまじまじと見つめた。愛おしい気持ちが溢れてくるのを抑えながら、女神に話した。
「精神が二つあるなんて不思議だな。でも、全然似ていないな。俺たち」
「そうね、双子ではないから。二卵性双生児みたいなものじゃない。人によっては似ている人もいるとは思うけど」
「俺の女性精神はとても真面目そうな印象がするよ」
「それは貴方もね。ちなみに男性精神の理想の女性像は女性精神をモデルにしているわ、その逆も同様にね」
「そうなのか、だから……、おっと」
ふいに地面が浮き上がるような感覚があり、一瞬よろけた。地震ではなく、足元の大地自体が波を打って持ち上がる感じだった。
「身体がもうすぐ目覚めようとしているわ。そろそろ戻らないといけない」
「えっ、どういうこと?」
薄暗かった俺達の周りは間接照明のようにぼんやりと薄明かりになってきていた。
「貴方の意識にお邪魔していたの。身体が起きそうだから私は無意識に戻るわ」
「もっと話したかったけど、ここでまた会えるかな」
俺は女神の瞳を見つめながら懇願の気持ちで言った。
「それはできないわ。私も貴方が病気で倒れて半年間は無意識の中で動けずにいたのよ。じっと傍観する事しかできなかった。でも、貴方が帰郷してようやく動けるようになったわ。それで今回、貴方の自殺願望の発生場所を探し当て、意識と無意識を構成する“自己”の揺らぎを作用として、その反作用で私の精神を遷移させる事ができた。でも、もうこんな危険な事はできない。意識と無意識の間には壁のような分厚い膜があって、その間を遷移するのも簡単ではないの」
離れたくない気持ちを抑えきれない。
「それじゃ、また現実世界で目の前に会いに来てくれないか?」
「あの時、実際には私は現実世界には現れていないわ」
「現れていない? でも、俺はちゃんとこの目で君の姿を見たよ」
女神が現れたシーンを思い出してそう言った。
「あれは貴方の網膜に直接、私の姿を映し出していたから現実の世界にいるように見えただけなの」
「そんな事ができるのか。そうか、それで君の声が何も聴こえなかったのか」
「そうね、声が届かないって分かっていても叫んでしまっていたわ、もしかしたら伝わるかもしれないと思って」
確かにあの時、女神は何か言っていたが何も聴こえなかった。
「そうだったのか」
「最初は映し出す角度が見当つかなくて後姿しか映ってなかったと思う」
「そういえば、最初に川岸で見た時は後姿だった」
疑問だった不思議な現象に納得した。
「そもそも男性精神と女性精神が会うなんて事は本来無いものだから」
「そうか……」
八方塞がりでどうしようもなくなった。
「ねえ、一つ聴いておくわ。貴方はこれからどうするの?」
「どうするって? 何を?」
「仕事は続けるの? 今後の方針を聞かせて」
「……ん。そうだな、俺は今の仕事をもう少し頑張ってみようと思っている。それでもまた病気になってしまったら、帰郷して治療しようと考えている。地元で委員長の起業を手伝うのも良いと思うし……。なんだか逃げ道を作るようでカッコ悪いけどな」
「うん、わかったわ。自分に無理しないでね。私は見守っているから」
女神の優しい言葉が嬉しかった。
「今回は助けてくれてありがとう。もうこんな事にならないように気をつけるよ」
「貴方なら立ち直ってくれると信じていたわ。ちょっと荒療治だったけどね」
「一時は俺自身が崩壊するかと思ったよ。少しは精神的に強くなったかもしれない」
「そうね。乗り越えた貴方はもう大丈夫だと思うわ。もし私が倒れて沈んだ時は助けに来てよね」
女神は片瞬き(ウインク)をした。
「分かった。もちろん、その時は助けに行くよ。えっ、でもどうやって?」
その瞬間に目の前からフワッと消えてしまった。
女神が発していたまばゆい光も消えて、周囲は夜が明けた時のような陰影のコントラストを映し出していた。明るくなるに連れて、今まで見えていた背景だった周囲の空間がまるで幾つもの大きなシャボン玉がはじけるみたいに目の前が真っ白になった。張り巡らされた脳のニューロンに流れる電気信号が行き交う中を一瞬で転移した。
「わあっ」
急に身体が落ちる感覚があって、飛び起きて目を覚ました。変な夢を見ていたかのように大量の寝汗をかいていた。
時計を見ると七時を少し過ぎた時刻だった、普段平日に起きる時刻だ。目覚まし時計をかけていたが、鳴る前に止めた。
朝食は今日もワニ料理にしてもらった。帰り支度も五分で終わり、両親と出発まで尽きない話をした。ここからまた片道六時間掛けて都会の自宅へ戻る。移動する長い時間、考え事をする事ができる。
電車の中で過ぎ去る風景を自然と眺めていた。女神との会話は覚えている。自分自身の中で起こった不思議な出来事も覚えている。夢ではない、いいや本当は夢だったかもしれない。でも、記憶は全て思い出している、虚構ではない真実の記憶を。その出来事が何故か遠い過去の事のように感じられた。
今度、連休に休日出勤が無くて休める機会があれば、また帰郷しよう。自分を見つめ直す時間、今後の自分の方向性を決める時間、それに仲間と遊ぶ時間として使い、もう少しだけ自分を大切にしようと思う。
今日で秋の連休も終わりだ。明日からはまた仕事の日々が始まる。これからも頑張ろう。そう決心すると、車窓から見える景色はいつもより現実的に見えた。
完
平成二十八年 十一月十九日 第一版 発行
平成二十八年 十二月三日 第二版 発行
平成二十九年 二月二十六日 第三版 発行
この作品はフィクションであり、実在の人物・地名・団体・事件などとは一切関係ありません。
また、この作品の文章・イラスト・歌詞など全ての著作権は作者に帰属します。