能見凛子 2
女子は身を乗り出し能見先輩に何やら話しかけているようだった。険しい表情をしているから、楽しく会話をしているわけではなさそう。対して能見先輩はどこ吹く風といった感じで、まともに相手をしているように見えない。机に置いたノートだろうか、に目を落としている。
とりあえず私のような部外者が、軽々しく割って入っていいような雰囲気ではなかった。
今回はあきらめ時間を改めようと、私はドアから手を離す。
「後輩さんや、誰かにご用?」
帰ろうと思った矢先、声をかけてくる別の女子。
「え、あ……あの」
「誰かに会いに来たんじゃないの?」
どうやら中を伺っている私に気づいて、声を掛けてくれたみたいだった。
「えと……能見先輩に用事が――」
ここまで来ておいて用がないというのもおかしな話、戸惑いながら名前を告げる。
「能見さんね、りょーかい。ちょっと待ってて、呼んでくるから」
「でも取り込み中みたいなので、出直します!」
「ああ、いいのいいの。あれ、よくあることだから」
女子は呆れ顔を浮かべながらひらひらと手を振ると、能見先輩の方へ行ってしまった。本当に、会話を止めてしまっていいのだろうか。
彼女が能見先輩に声をかけた。すると能見先輩が顔を上げてこっちを見る。私の顔を確認すると、話しかけていた対面の人に何事か告げ、それからこっちに向かって歩いてくる。
話しかけていた人は能見先輩を呼び止めているが、先輩はそれでも振り返ることはなかった。最後に取り次いでくれた女子がにこやかに手を振ってくれたので、一礼することで応える。
「ここじゃうるさいのがいるから、場所を変えましょう」
能見先輩は短く言うと、先に廊下を歩いていってしまった。
「あの、よかったんですか? 邪魔しちゃったんじゃ――」
慌てて追いかけながら訊く。
「いいの、むしろ助かったから」
「そ、そうですか」
本人にそう言われてしまうと返す言葉がない。足早に先を進む能見先輩の後ろを、黙ってついていく。
能見先輩はそのまま、教室が並ぶ廊下から離れた階段まで来ると足を止めた。私が上がってきた階段と比べると、格段に人通りは少ない。
「それで、今日は?」
振り返った能見先輩が先に訊ねた。ただ立っているだけなのにオーラというか、その存在感に私は萎縮してしまう。
あの能見先輩が私の目の前にいて、話しかけてくれているなんて、夢みたい――
「私、上本結衣って言います。それで……昨日は、ありがとうございました!」
まず私はお礼を言って、深々と頭を下げた。昨日は頭が混乱して、先輩にお礼を言わせてそれきりだった、先に助けてもらったのにも関わらず。
「私の名前は……教室まで来られたんだから、知っているのね?」
「はい……突然押しかけてしまってすみません……」
「そのことはいいのよ、逃げる口実になったから。それに昨日のことも、たぶん初めてだったんでしょう?」
「はい……びっくりしてしまって……」
思い出すだけで自分の不甲斐なさに恥ずかしくなる。
「無理もないわ……」
「それで、シロからイーレッセの話を聞きました。私に、魔法使いになって欲しいって言われて……正直迷ってます、それで能見先輩の話を聞きたいと思って、お邪魔しました」
私の言葉に、能見先輩はきょとんとした顔を浮かべている。大きき目をぱちぱちとさせていて、これまでの雰囲気とちょっと違う。そんなに私の迷いはおかしかっただろうか。
「シロ……シロ?」
「あ!」
あの犬を私が勝手につけた名前で呼んでいたことに気づく。
「あのすいません、シロっていうのは違うんです……その」
「シロって……あの使いのことよね?」
「はい……」
あきらめて、素直に返事を返した。
「昨日一度も助けてくれなかったので、それで……いかにもな名前をつけてみました」
「シロ、ね……」
私の不遜な名づけに、能見先輩はシロの単語を口にしながら、小刻みに肩を震わせている。
「すいま――」
「ふふっ――」
私がとにかく謝ろうと思って口を開くのを遮るように、能見先輩から息が洩れた。
「ふふふっ……あははははっ!」
怒りの言葉ではなく、能見先輩は突然、お腹を押さえながら大爆笑を始めてしまった。
「え?」
きゅ、急にどうしたんだんだろう? 何故かツボにはまった能見先輩は未だ、シロという単語を口にしながら、笑いが止まらない。
「あの、大丈夫ですか?」
「ごめんなさい、シロって響きがなぜかすごくあの使いのイメージにぴったりで」
まだ少しにやけている能見先輩。シロっていうネーミングがそんなにウケるとは思ってなかったけど、喜んでもらえたのならすごく嬉しかった。シロには悪いけど。それに、大笑いする能見先輩を見れて、少し親近感が湧いて緊張感も薄らいだ気がする。
「そうね……」
能見先輩はうなずきながら右手の時計を見た。そろそろHRが始まってしまう。
「話をしてもいいけど、もう時間がないから……放課後でどう?」
「い、いいんですか!?」
思いも寄らぬ申し出に、大きな声で聞き返してしまう。
「ええ、上本さんは部活には入っているの? 私は入っていないんだけど」
「一応テニス部に。でも今日ぐらいなら……」
部活なんかはよりよっぽど、能見先輩と放課後を過ごすことのほうが有意義に違いない。そう、魔法使いの話もあるわけだし。
「それは駄目」
能見先輩はきっぱりと首を振った。
「でもそれじゃあ、能見先輩を待たせてしまいます」
「それは大丈夫、図書室で時間を潰しているから。そうね、六時頃に校門でいいかしら?」
「は、はい。それなら、お願いします」
ちょうど部活が終わる頃だろう。それでも過ぎそうなら絶対に抜け出してやる。
「じゃあまた放課後に」
能見先輩が言うのと、予鈴が鳴るのはほぼ同時だった。
「すみません! こんな時間まで――」
「いいから、急ぎましょう!」
目が合い、能見先輩とうなずき合うと、急いで階段を降りる。先輩とは三階で別れて、私はそのままさらに下へ。ダッシュにならないくらいの早足で教室に向かった。
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