プロローグ
夕方と夜の境目。
空には紫色のカーテンが怪しく広がっていて、空中には細かい塵のような赤い粒子が舞っていた。それを真っ黒な煙がまるごと呑みこんで、天へと昇っていく。
空を見上げていたら、けほ、と咳が出た。目が染みて涙が浮かび、喉がいがいがして痛い。
いつまでも淡々と続く日常に飽き飽きしていた、それは認める。とはいえ、こんな非常を求めていたわけではなかった。
私は自然と出てしまうため息をこらえる気にもなれず、力なくベランダの手すりに身体を預けた。
背後ではごうごうと炎が渦巻いている。宙を隔てた隣のベランダはすでに真っ赤で、慎ましく配された植物やプランターが容赦なく燃やされていた。あれが自分の迎える未来なのかもしれない思うと、ぞっとする。より隣に近い右半身がじりじりと熱い。
遠くで聞きなれたサイレン音が聞こえるが、それもかなり遠かった。今日は年に一回のお祭り、花火大会のある日だ。通りは車と人でごった返し、通行するだけでも人の波をかきわけなくてはいけない。
たとえそれが、緊急車両であっても変わらない。まあ、たとえ辿り着いたとして、ここは地上十五階の高層マンション。消防車の梯子が届くのかはわからない。
迂闊だった。
私は満員電車並みの動員になる花火大会が嫌いだった。だから家族は総出でも、自分だけは家に残っていた。部活帰りの疲れもあり、ソファでうとうとしていたらもう手遅れ。
出火元は知らないが、火の手は早く、飛び起きて急行した玄関はすでに火の海だった。だから仕方なくこのベランダに逃げ込んだわけだが――
袋小路のベランダで、じわりじわりと迫る炎を眺めているよりは、水を被って火の中に飛び込んだ方がましだったかもしれない。
ここから飛び降りてもまず助からない、まさに万事休すだった。もう自分でもあきらめてしまっているせいか、心臓が早鐘を打っているにも関わらず、心は変に落ち着いていた。
深いため息を吐く。短い人生だった。さよなら、退屈だったが楽しくもあった学校生活。
――とん。
そう、世界に別れを告げた時、すぐ近くの手すりで、炎の爆ぜる音とは異なる軽い音がした。なにかと思ってそちらに目をやり、すぐ目を丸くする。
そこに存在しないはずのものが、立っていた。それも手すりの上に。当たり前だがさっきまでそこには誰もいなかった。しかし、確かに目の前に今、制服を着た人が立っている。耐火服を着た無骨な消防員ではない。見覚えのある制服を着た、普通の少女。
「助けにきたよ」
こちらの戸惑いをよそに、突然降り立った少女は、手すりの上という危険な場所にも関わらず、にこりと笑うと手を差し出した。
「ええと……」
炎に染め上げられた紅の背景に、現実の中の非現実的な少女。とても正気とは思えない状況の中で、差し出された手に、自分は惹かれるようにゆっくりとだが手を伸ばし重ねた。
「よし」
年の頃はそう変わらないはずの少女はひとつ頷くと、重ねた手をぎゅっと握り返す。
「じゃあ、行くよ!」
掛け声ひとつ。次の瞬間に少女はふらりと出かけるように、手すりを蹴った。
「ちょ、ちょっと!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。少女が向かった先は手すりの向こう側だった。
足を踏ん張り、少女の突然の無理心中に抵抗する。たとえこのまま火に焼かれるとしても、自ら死を選びたくはなかった。
しかし抵抗も虚しく、すでに自分の足はベランダの床にはない。そのまま重力に引かれて、あとは落下するだけ――でもそうはならなかった。
身体が浮いている。しかも地面とは反対方向、すなわち空の方へと徐々に上がっていた。
「え……え!?」
あまりの衝撃に声は言葉にならなかった。身体が空気にでもなったように、少女に掴まれた腕には自分の体重を感じない。黒煙が傍を一緒に昇っていく。
「絶対に、手を離しちゃだめだからね」
少女が釘を刺す。それに自分はこくこくと機械のように頷くことしかできなかった。言われなくてもそんなことはしない。眼下には小さくなったビル群がある。その先は、想像したくない。
始めは空に向かって風船のようにふわふわと上昇していたのだが、ある程度の高さまで来ると速度が上がり、体勢は地面と水平になっていった。
耳元でびゅうびゅうと唸りを上げる音。少女は風を切り、夜空を突っ切って行く。どおん、と遠くで重低音が響き、それに遅れて空に大輪の花が咲く。花火大会が始まったようだった。
過ぎていく風が、熱せられた肌を冷やし心地良い。
慣れてくると、さっきまでいたベランダの地獄と比べてここが天国のように思えた。最低でも、花火を鑑賞する上でここが特等席なのは間違いない。もしかしたらすでに自分は死んでいて、それで天国までの夢を見ているのかもしれなかった。
そうやってひとしきり飛んだ後で少女は、見知らぬビルの屋上に降り立った。とん、と彼女が現れた時のように、その着地は驚くほど軽やか。
繋いだ手が解かれる。途端にそれまでの重力がまとめて降りかかってきたように、自分は立っていられなくなって、地面に膝を折ってしまう。
「……あれ?」
立ち上がりたいのだが、足に力が全くはいらなかった。手で膝を叩いて、それで自分がぶるぶると震えていることに気づく。
「怖かったよね……」
少女が小さく呟く。
「そんなことは――」
否定しようとして、少女が飛んだことのことを言っているのではないと気づいた。途端に現実が襲いかかってくる。夢のような時間はすぐに終わりを告げる。
助かった――のだろうか。身体から力が抜けてしまったのが火事の恐怖によるものなのか、助かった安堵によるものなのかわからなかった。
「ごめんね、私にできることはここまで」
少女の言葉に自分は首を振った。命を救ってくれて、謝る必要なんてどこにもない。
「これからたぶん大変だと思うけど、頑張ってね。それじゃあ」
別れの挨拶は淡白で、少女はそれだけ言うと、今度は自分の足で走り去っていった。
一人残された人間は、呆然と座り込んだままその様を眺めていることしかできなかった。
少女は魔法のように空を飛んで自分を救い、幻のようにさっと消えてしまった。
繋いだ手を見下ろす。彼女の熱は残っていない、しかしこびり付いた黒い煤が、さっきまで燃え盛る火炎の傍にいたことを伝えてくる。
あまりに非現実的なことが続いたせいで頭はパンク寸前だった。遠くからサイレンが聞こえて来る。
一つ言えること、それは――また空を飛びたいということ。