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そして少年は昏き底を覗き見る

 「ふう」

 

 ぐびりとラビシュは杯のなかのジュースを飲み干した。舌に広がる甘さは変わらず疲れた体を癒してくれる。

 

 「ふあぁ。変わらず言い飲みっぷりだね、ラビシュくん」

 

 言って笑うのはクラウという名の少女だ。時間があると必ず寄るようになった宿屋兼定食屋の娘で、毎度ひとりでジュースを頼んでいるうちに、いまではこうして話しかけてくるようになっていた。

 

 「喉が渇いているんだよ」

 「いつもそういうけど、水もあるよ?」

 

 首の辺りで切り揃えた茶色の髪を揺らして、クラウが訊ねた。

 

 「疲れた体には甘いものがいいんだよ。知らないのか?」

 「え? そうなの」

 「……たぶんな」

 

 ラビシュはあいまいに言葉を濁した。自身で体験している甘さが導く心地よさを頼りにしているだけで、ほかにはなにも裏づけなどない。突っ込まれれば困ることになる類のものだった。

 

 「へぇ! ラビシュくんはいろんなこと知ってるんだね。でも、ラビシュくんそんなに疲れる仕事してるの? ……というか何をしているんだっけ?」

 「それは、……手伝いだよ。計算したり、在庫確認したりそんなのだ」

 

 ラビシュは言葉を濁した。ラベル・ワンで闘っているなどとは口が裂けても言えはしない。口をついて出たのはラーズの手伝いでやらされる無難なことだった。

 

 「計算できるんだね! すごいなぁ。学校も行ってないのに」

 

 クラウは感心したように瞳を丸くする。いつもそうなのだ。ラビシュが驚くほどにクラウは素直にだれかを賞賛する。

 

「べつにすごくなんかない。クラウだってこうして店手伝っているじゃないか」


 なぜか後ろめたくてラビシュはクラウを誉めた。事実ラビシュと同じ歳で学校にも行かず、店を手伝っているのは生半なことではないとラビシュは思っていた。

 

 「……すごくなんかないよ。もっと私にできることがあったら、お母さんもゆっくりできるはずなのに」

 「忙しいのか?」 

 「うん。一年位前からかな。お金が要るんだって、毎日忙しそうにしてるの。お父さんはほとんど帰って来なくなっちゃたし……」

 

 クラウが目を伏せる。母親と父親。どちらもラビシュにはなじみのあるものではなかったが、クラウが寂しいと感じていることだけは分かった。

 

 「……そうなのか」

 

 どう声をかけてよいか分からず、ラビシュはただ低く同意した。

 

 「ふふーふ。デートとはやるじゃないか、ラビシュ」

 

 途端陽気な声が降ってくる。

 

 「そんなんじゃない。なんの用だよ? 今日は休みのはずだろう」

 

 ラビシュは否定しながらラーズを見た。いつのまにやってきたのか、いつも通りの薄ら笑いを浮かべ、ラビシュたちを楽しそうに眺めている。

 ラベルに出場した後はすべての仕事は休みというのが通例だというのに、変なところで出会ってしまった。

 

 「ふふー、照れるなよ。それじゃあレディに失礼だぜ」

 「い、いえ! わ、私はべつに……」

 

 ラーズがそうからかうとクラウは照れたようには否定した。心なし頬があかくなっている。

 

 「なんの用だよ。外で食事はしない主義だったんじゃないか?」

 

 ラビシュは気にすることなく、ラーズに聞いた。守銭奴のラーズはなにか理由がなければ、外で食事することはない。そのラーズが定食屋にいることをラビシュは怪しんだ。

 

 「……ちょっとね。ちょうど良いところで会った。仕事があるんだ。喫緊で片づけたいんだけれど手伝ってくれよ」

 

 はぐらかすように笑い、ラーズが頼みを切り出した。ラベルで闘った日にこんな風に仕事を頼まれるのは初めてのことだ。

 

 「……特別料金だぞ」

 

 しぶしぶラビシュは頷いた。べつに無料で手伝ってもいいのだが、ラーズにはこうやって契約を結ばせたほうが話が早い。三月生活してきて学んだことだった。それにラビシュが言い出せなければラーズのほうから言っただろう。そういうことに対して、ラーズはことのほか細かい。

 

 「ふふーふ。これは困った。ラビシュも随分とたくましくなったものだ。シスもきっと喜ぶだろうな」

 「ラーズ、ごまかすなよ」

 

 半眼でラーズを見すえながら、ラビシュは念を押す。

 

 「ふふーふ、分かったよ。払うさ」

 

 観念したように肩をゆすって、ラーズが店の外へと出て行く。ついて来いということだろう。それともクラウの居る場では話せない類のことなのかもしれない。ジュースの代金を机に置いて、ラビシュも席を立つ。

 

 「じゃあ、ごっそさん。……なんだよ、その顔」

 

 その最中、なぜか微笑んでいるクラウが目について、思わずラビシュは問いかけた。

 

 「あの人ラビシュくんの働いているお店の人?」

 「……そうだよ。雇い主」

 

 クラウの言葉にどう答えるか一瞬迷ったが、ラビシュは事実だけをそのまま告げる。さすがに貸主とその債権者とまで素直に答えることはしなかった。

 

 「そうなんだ。すこし安心した」

 「安心?」

 

 言っていることが理解できず、ラビシュはクラウに問いかける。ラーズに出会って安心したことなどラビシュには皆無だった。安心、というならむしろシスの方だ。

 

 「ラビシュくん、ちょっと楽しそうだったから」

 「はあ? そんなことないよ。いやな仕事だ」

 

 どこをどう見れば先のやりとりでそう見えるのか。大いに疑問を感じながら、ラビシュは否定する。事実ラーズの仕事はいらいらする数字とのにらめっこか、さもなくばラベルでの決闘か。どちらにしてもいやな仕事だった。

 

 「そうかな」

 

 なぜか笑いながら、クラウは首をかしげる。さらりと茶色の髪が揺れ、ぱちりと大きな目が数度瞬いた。おかしくもないのに笑いがこみ上げる。

 

 ―――俺とラーズの関係って傍からみるとそう見えるのか。

 

 「そうだよ」

 

 新たな事実の発見に、少し心躍らせながらラビシュは告げた。知らず顔は笑っている。この後に起こることも知らず、その時少しだけラビシュは愉快だった。


 「ふふーふ。これはどういうことかな?」

 

 いつも通りの薄ら笑いを浮かべ、ラーズは床へと跪いた男に問いかけた。

 

 「あ、あと一日! 一日だけ猶予をっ!!」

 

 金、銀、銅と鈍くくすぶる硬貨の山。それを横目で見ながらラビシュは額づく男を眺め見る。四十ほどの痩せた男だ。髭は伸び、髪は乱れほつれ、目の下にはひどい隈が刻まれている。きっと期限ぎりぎりまで必死に金策に走り続けたのだろう。黒く汚れ所々あかぎれた手がいっそうの哀れをラビシュに抱かせた。

 

 ───でも、ラーズは……。

 

 「ふふーふ。約束は約束だ。ランドルさん、あなたに貸した金は金貨千二百。そして期限である今日、ここにあるのはいくらだ? ラビシュ」

 

 ラビシュの感じた哀れなど露ほども感じさせぬ声でラーズが聞いた。

 

 「すべて併せても金貨千と百九十八。……二枚足りない」

 「ということだけれど?」

 「うう……。お願いだ! あと二枚! たった二枚だ! 一日くれれば必ず金を持ってくる!」

 

 ランドルと呼ばれた男がラーズの足へと縋りつく。それを疎ましげにラーズは見下ろした。その目にラビシュは見覚えがある。

 

 『商談はおしまいだ』

 ラビシュに興味を失くした時の目だ。感情などどこにもない。いやな目だった。

 

 「たった二枚? そのたった二枚を持って来れなかったのはどこの誰だい? 約束はまもるためにあるんだぜ? ふふー、まさかランドルさんほどのお方がそのことを知らないわけじゃないでしょう?」

 「ぐっ!」

 

 縋りついて離れないランドルの顎を蹴り上げて、むりやりに引き離す。怯えを宿した目でラーズを見上げ、ランドルは唇をつよくかみ締めた。

 

 「ふふーふ。解決策はなくはない。あの店を売ればいい。金貨五十で買おう。金貨四十八枚持って家族三人で再出発するのと無一文でほうりだされるのは、どちらが楽か考えるまでもないでしょう」

 「あの店は……売れんっ! あれを売って妻や娘とどう生きろというんだ……」

 

 歯噛みしながらランドルは言う。なにかに耐えているようなそんな悲痛な顔だった。

 店がなにを指しているのかラビシュには分からない。だが、金貨四十八枚程度で家族三人がろくに生きていけないことだけはたしかだった。きっとその身はすぐさま貧民街へと落ちていくだろう。

 

 ―――たった金貨二枚で……。

 

 自身が銀貨二枚で買い取られた過去を忘れ、ラビシュは同情した。たったの二枚だ。だれかが貸すだけでランドルの命はつながれる。

 ラビシュは強くこぶしを握り締めた。払えるのならばラビシュ自身が払ってしまたい。だが、自身も債権者だ。誰かを救う金があるならば、自分に返せ。きっとラーズは言うだろう。

 

 「知らないな、そんなこと。別にその妻でも娘でもいいんだよ? 店がだめなら妻子でいいじゃないか。今日見てきたけれど、きっと高く売れる」

 「私に妻や娘を売れというのかっ! この守銭奴がっ!」

 

 一転ランドルは掴みかからんばかりの勢いでラーズに近づいた。

 

 「やめろっ!」

 言いながらラーズとランドルの間へラビシュが体を入れ込んだ。ラーズを債権者から守ること、それが金貨を数えることとあわせてラーズに命じられたラビシュの仕事だった。

 

 「おまえっ!」

 

 血走った目でランドルが止めに入ったラビシュを見咎める。そしてなにかに気づいたのかのように大声で怒鳴りたてた。

 

 「そうか。おまえかっ!! お前がわざと俺の金をすくなく数えたんだな!」

 「なっ! 俺はちゃんと数えたっ!!」

 

 襟をつかまれ激しくゆすられる。体と同じくラビシュは激しく動揺した。自身が疑われたこともそうだが、ランドルの突然の豹変に度肝を抜かれたからだ。血走った眼はラベルで見た誰よりも恐ろしい。鬼気迫る恐ろしさがそこにある。

 

 「ふふーふ。そこまで言うのなら、貴方が数えればいい」

 

 ランドルの手が離れ、ラーズを見た。いつも通りの薄ら笑いを浮かべ、ラーズはランドルを見ている。ランドルの血走り激しく揺れうごく瞳とラーズの見下すような瞳が交差する。そのさまはさながら蛇と蛙のにらみ合いだった。

 

 「だが、もしも足りなければ分かっているよね?」

 「っ!! どうとでもすればいい!」

 

 投げやりにランドルが叫び、椅子へドカリと腰掛ける。そのまま震える手つきで硬貨を一枚一枚数え上げていく。売り言葉に買い言葉だ。ラーズの口車にまんまとランドルはのせられている。

 

 「ラビシュ。下準備をしてくるから、様子を見ていてくれ」

 

 すでに結果など分かっているといわんばかりに、ラーズが席を立つ。準備の内容がどのようなものかの想像はつかなかったが、ランドルにとってよくないものであることだけは容易に想像がつく。

 

 「それじゃあランドルさん。自分の命だ。ゆっくり気の済むまで数え上げるといい」

 

 そんな言葉を投げかけてラーズは部屋を後にする。その顔が悪魔のようにゆがんでいるのをラビシュだけが見咎めた。

 

 「きゅ、九十八枚……。そんなことない……あるはずだ。あるはずなんだ……」

 

 かつかつかつ、硬質な机を爪が打つ音が響く。すでに数えなおしは三度目だ。ランドルの手が積み上げられた硬貨とは別の場所を彷徨い、硬貨を求める指先が机を叩く。すでにランドルの掴むべき硬貨はすべて机の上へと整然と積み並べられている。

 

 「なんでだ。なんでない。あと、たった二枚なのに……。いや、待て。あそこだけ少し高くないか? そうだ。やはり数え間違えているんだ。そうだそうだ」

 

 机に並ぶ十ずつ積まれた硬貨の山。そのひとつが少しだけ高さが異なるのを見つけてランドルはふたたび積んだ硬貨へと手を伸ばす。

 

 ―――いい加減にしてくれ。それは銀貨と銅貨が混じっているからだろう。

 

 金貨、銀貨、銅貨はその厚さも大きさも異なっている。ランドルが見つけたのはそれが混ざって積まれていた硬貨の山のひとつ。ただそれだけのことだった。

 ランドルもそれを知っている。すでに三度数え上げたのだ。数え間違いなどないことをランドルも知っている。だが、その二枚が自分の命を左右するのだ。なくとも見つけなければ生きられない。足りないという現実、その奥にある死ぬのだという現実から目を背けるための無意味な延命行為。それはさながら賽の河原の石積みだ。それがいまラビシュの前で展開されている光景のすべてだった。


 ―――もう止めてくれ。はやく来てくれ、ラーズ。


 ラビシュがそう願い、目を背けるのも無理はない。必死に生きようとあがくランドルはかつての、そしていまのラビシュのそれを思わせる。ありえぬ硬貨を必死に見つけようとあがくのは、明日の自分かも知れぬのだ。それを直視できる人間などほとんどいない。


 ちゃりん。


 音を立てて落ちた硬貨がころころと地を回る。ランドルの手から落ちた硬貨が、ラビシュの足元へと転がり止まった。落ちた硬貨の行方を追っていたのだろう。ランドルがふっと顔を上げ、ラビシュの方を見た。


 憔悴しきった顔はすでに青を通り越して土色だ。目に生気などかけらもなく、ただうつろな目でラビシュを見やる。その顔を見るのがいやで、ラビシュは足元の硬貨を拾い上げ、目が合わないようにして落ちた硬貨を机へ置いた。


 「落ちたぞ」

 ラビシュがそう言った瞬間だった。


 「あ、あんたっ!」

 ランドルの手がラビシュを腕をがっちと掴んだ。

 「な、なにするんだ!」


 驚き狼狽したラビシュはランドルの手から逃れようと力いっぱい腕を引く。だがびくりとも動かない。どこにそれほどの力があるのか。ラビシュは驚きで言葉を失った。


 「あんたがいた。金だ! 頼む、金貨二枚を貸してくれ! 頼む! それがあれば俺は、おれの家族は助かるんだ!!」


 ラビシュの腕に必死にしがみつきながらランドルが懇願する。先ほどまでランドルは金を数えるのに必死でラビシュの存在を忘れていたのだ。それを思い出し、そして飛びついた。この場でランドルに残された最後の方法はラビシュに足りぬ金を借りる以外にはありえない。ランドルがそう考えたのも無理のないことだった。


 「いっ! 痛てぇ! 離せ、離せよ!!」


 ラビシュは叫び、なんとかランドルの手から離れようと腕を振る。二人の動きに合わせ机の上に並べられた硬貨がばらばらと揺れ落ち、硬質な音を響かせる。


 「頼むっ! 金貨二枚! それだけでいい。俺を助けてくれよ! 娘を! 妻を! 助けてくれ!」


 ラビシュの言葉など聞かずランドルは言葉を繰り返す。すでに目に正気はなく、ただ眼前に垂れた蜘蛛の糸へ必死に縋りつく亡者と化している。


 「―――貸せるものなら貸してぇよ!!」


 激痛のあまりラビシュは言ってはならない言葉を口にした。それは紛れもない本心だった。


 だが、貸すわけにはいかないのだ。ラビシュもラーズの債権者なのだ。ランドルに金を貸して救えば、ラーズになにをされるか分かったものではない。ゆえにラビシュはずっと黙っていたのだ。ランドルが硬貨を数えながら己を失っていく様を歯噛みし、拳に爪をくいこませながら、必死に目をそらし続けてきたのだ。


 「なぜだ! なぜ、貸してくれない!! ラーズかっ! 仕事かっ! 貸してくれればなんでもする!! 仕事だって妻の店がある! だから、頼む!! 頼む」


 ラビシュの思いなど構いもせず、ランドルは必死に言葉をつむいだ。生きるためなのだ。ラビシュもそれを知っている。狂おしいほどにランドルの気持ちがラビシュには分かった。

 だが、ラビシュ自身が生きるためにはランドルをここで切り捨てる必要がある。ラーズはきまぐれだ。そしていつもラビシュを試している。いまこの状況もラビシュを試すひとつの試験かもしれないのだ。ここでラビシュが首を縦に振れば、ラーズはラビシュを見捨てるかもしれない。決してありない可能性ではないのだ。


 ―――いやだ。俺は生きるんだ。


 「助けてくれ! 助けてくれよ、なあ!!」


 だが、目の前で血涙を流すランドルを見れば心は揺らぐ。生きるためには誰かを殺す必要がある。そんなことは知っている。事実ラベルではそうやって生きているのだ。ザノバを殺し、グルックを殺した。生きるためにはもっと多くの人を殺すことになるだろう。

 畢竟、それと同じことだ。ここでランドルに『貸さない』と告げることはそれとまったく同じことだ。


 ───だが、ザノバは。グルックは。ラベルで殺してきたやつらは!


 死ぬ覚悟をしていた人間だ。ラビシュを殺そうとして、逆に殺された。それだけのお話だ。だが、いま目の前にいる男はどうだ? 力なく必死にラビシュに縋り泣くランドルは、ザノバたちと同じ存在なのか。見捨てていい存在なのだろうか。自身が生きるために踏みにじっていい存在なのだろうか。

 ラビシュはひどく狼狽した。自身が生きるためにとらねばならない行動は分かっているのに、それを選ぶことが正しいかどうかが分からない。いや、選ぶことが恐ろしくてたまらない。


 「う、うあ……あ、ぁああ」

 知らずラビシュの口から懊悩が漏れ出した。


 「貸してくれっ!! でなければ、俺は死ぬのだ!」


 落ち窪んだ幽鬼のような顔がラビシュの視界を埋めつくす。すでにランドルの顔は人間のそれではない。ラビシュにとってはただの恐怖の対象だ。思考は凍りつき、心は恐怖で揺れている。


 ―――いやだ! もうこんなもの見たくない!


 抱いた拒絶は解決を求めて動き出す。楽な道、安易な道を求めて彷徨い歩く。この場での解決は簡単だ。ただ首を縦にふればそれでいい。この疎ましい腕からも、恐ろしいランドルの目からもたったそれだけで逃れられる。


 「あ……」


 「ふふーふ! いやじつに極まった状況だ!!」


 ラビシュが恐怖に押され、首を振ろうとしたときだった。

 勢いよく開かれた扉とともに、その場に似つかわしくない陽気な声が響く。手には黒獅子の面とラビシュの剣を抱えている。


 「ら、ラーズ……」

 まるで救い主を認めたような目で呆然とラビシュはその名を呟いた。


 「遅くなって悪かったね。いろいろ手間取ってしまった」


 ずかずかといつも通りの薄ら笑いを浮かべ、ラーズが二人へ近づいた。


 「ぁ、あ、あああ……」


 言葉にならぬうめきをあげてランドルがラーズを見上げる。瞬間ラビシュを掴んでいた手がするりと緩み、ラビシュは素早くランドルから距離をとった。


 「ふふーふ。ランドルさん、隠し事はだめじゃないか。ぼくにも家族にもね。……それで命は足りたかな?」


 自身の足下に散らばった硬貨を眺め見ながら、ラーズがランドルへと問いかける。当然答えはなく、ランドルはただ悄然とラーズを見上げるだけだ。


 「ふふーふ。やはり足りなかったようだ。いや、調べものが無駄にならずにすんでよかった。嬉しいな」

 

ラーズが机へと腰掛け、ランドルに話しかける。その様をラビシュもランドルもただ呆然と眺めていた。


 「あのお店奥さまのものらしいね。だめだぜ、ウソは。それに悔しいのは分かるが、奥さまに捨てられてるのなら、言ってもらわないと困るな。うっかり奥さまのところに取り立てに入っちゃったじゃないか」

 「……ケラのところに行ったのか?」


 ぽつりとランドルが口を開いた。


 「ふふーふ、行ったよ! 金の代わりにこんな言付けを頂いた。『落とし前は自分でつけろ』だってさ。愛されてるじゃないか!!」

 「う、うぅぅ……」

 

 妻にも見捨てられランドルは床へと力なく突っ伏した。切れ切れに鳴る嗚咽が部屋に木霊する。ランドルがラーズに店を妻子を売らなかったのは、高潔さなんかじゃない。ただ実際にそれはランドルのものでないことを、ランドルにはどうしようもないことをよく知っていたからだ。

 

 「さて、もうどうなるかは言わなくても分かるよね。だが、ランドルさんとは長い付き合いだ。妻へ捨てられ、この上ぼくにまで見捨てられてではあんまりだ。だから、場所を用意したよ。こちらの用意した人間と戦い生き残れ。そうすれば君は自由だ。借金はチャラにしよう」 

 

 どこかで聞いたような甘言(疑似餌)をラーズが垂れ流す。その餌に飛びつくようにランドルは面をあげた。顔は涙と鼻水で汚れ、もうなにがなんだか分からない。ただラーズに踊らされるおろかな道化がいるだけだ。

 

 「ほ、本当か……」

 

 まるで地獄に仏を見たように、ランドルは歓喜に打ち震えながらラーズを見上げた。

 

 ―――最悪だ。

 

 「ふふーふ、本当さ。約束しよう」

 「は、約束だ! 約束したぞ!! 生き残れば、俺は自由だ!」

 

 ―――最悪だ。

 

 二度同じ言葉でラビシュは毒づいた。

 なんて出来の悪い三文芝居だろう。これは別にランドルのためのものではない。ラーズからラビシュへの悪趣味なメッセージだ。ラビシュもランドルと同じ、ラーズの手の中にある玩具なのだということを示す。ただそれだけのための悪趣味な三文芝居だ。

 

 「ふふーふ。ラビシュ、分かっているね」

 

 背に隠れたラビシュにあててラーズが小さく呟いた。手には獅子の面と剣がある。それの指すことなど明白だ。ランドルに自由はやってこない。ラビシュが殺すのだ。

 

 「……分かっている」

 

 ―――ああ、なんて。なんてクソッタレなんだ。

 

 こんなくだらないことを思いつくラーズも。それを錯誤しているランドルも。従うことしかないできないラビシュも。そして、こんなクソッタレなことを許容し続ける世界も。

 

 ―――すべてが。この世界のすべてがクソッタレだ。

 

 面を取り、剣を貰い受けラビシュは扉へ向けて歩き出す。その後ろでは、陽気に不気味に笑う悪魔の声と、自身の生還を信じて疑わない壊れた道化の乾いた笑いが鳴り響く。


 狂った笑いの二重唱に、どこからか嗚咽のような声が重なって三重唱を奏で出す。その音が自身の喉から出ていることを知ることもなく、ラビシュは部屋を後にした。



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