作為と錯誤の海に ③ 契約
「ふふーふ。君はしめて四百の金をぼくに借りている」
ラーズの根城があるというゴードの街中を、ラーズの横に並んでラビシュは歩いていた。その少し後ろからシスが無表情のままで着いてきている。シスはさきのラビシュの姿をどう思ったのだろうか。気にはなったが、とても聞く気にはなれなかった。
「これは、なかなかに大金だ。貧民街出身の君が返すには、危険を冒すほかはないだろう。かつてのぼくのように」
ラビシュは黙って頷いた。
金を稼ぐ方法がすでに普通ではないことは分かりきっていたことだった。
「ふふーふ。君には剣闘士になってもらおう。そのファイトマネーでぼくに金を返すんだ」
「剣闘士? なれるのか?」
闘技場はゴードに数ある娯楽のなかでもトップクラスの人気を誇る。いくつか格があり、ザノバと戦ったような粗末なものが最低で、ラベルと呼ばれている。そこで戦うのはもっぱら剣奴、つまりはラビシュのような奴隷たちだ。
次点がラルーファ。平民や下級貴族、ラベルから上がってきた剣奴が鎬を削る場所だ。そこで戦うものを剣闘士という。命を賭けるだけあって、金払いは相当にいいと聞く。だが、参加している人間のほとんどは、その先にあるものを目指している。
エル・ラルーファ。ラルーファを生き抜いたものたちと、一部の貴族やそのお抱えの精鋭だけが参加を許される。レベルは高く、その分見返りも多い。グラファと呼ばれる剣闘士。それは栄光の名前だ。たとえ、最下層の出身であろうとも関係ない。勝てば、すべてが手に入ると言われている。
「ふふー。いきなりは無理だろうね。資格も、強さもぜんぜん足りてない。すぐ死にたいわけじゃないだろう?」
「当たり前だ」
「だろうね。ふふーふ。君ならそう言うと思ったよ。だから……シス」
言われてシスが半歩前に出る。なだらかに流れる銀の髪、女にしては長身なその身が小さく揺れた。
「シスが君を指導する。と同時に、ラベルで―――」
「ちょっと、待ってくれ」
「なんだい?」
「シスが教えてくれるのか?」
「んふふーふ。だってよ、シス?」
楽しげにラーズはシスに話を振った。
「不満?」
「……いや、不満ってわけじゃ」
ラビシュは言いよどんだ。不安かと聞かれれば、不安だ。だが、それ以上にシスから習うというのはなんだかイヤだった。
「心配は無用さ。シスは強いよ。これでも元冒険者、ダンジョンに潜れるくらいの実力者だ」
「冒険者?」
驚愕と若干の猜疑を宿してラビシュはシスを見る。
冒険者になるためには条件がある。そのひとつがラルーファに参加し、規定の勝利数を上げることだ。つまり、シスもラルーファに参加したということだ。たしかに剣の腕はあるようだったが、ラルーファに参加していたとは思っていなかった。もしかしてシスもラビシュと同じ下層の出身なのだろうか。
「エル・ラルーファへの参加資格も持ってた。魔法も剣もそれなり」
「エル・ラルーファッ!」
今度こそ、心の底からラビシュは驚いた。年に数人しか参加することを許されないグラファへの挑戦権を持っている人間がこんな処にいるのが信じられなかった。
「私もなかなかやる」
少し自慢げに胸をそらしてシスが言う。チェストアーマーに守られた慎ましやかな胸が小さく揺れた。
「どうして、そんな人がこんな奴のところに……」
「ふふーふ。言うなあ、ラビシュ」
「あっ」
とラビシュは口をふさいだがもう遅い。きっちりばっちりラーズの耳には入っていた。
「ふふー、気をつけたまえよ? ぼくはエル・ラルーファに出るほどの実力者を雇っている男なんだぜ」
「うっ」
「まあいいさ。対等だと言ったしな。話を戻そう。シスが君を指導する。それと同時並行で君はラベルに出る。それにぼくの仕事も手伝ってもらおう。人手不足でね。君にやってもらうことは、いまのところこれぐらいだな」
「手伝い?」
疑問顔でラビシュは聞いた。手伝いというのがなにを指しているのか気になったからだが、ラーズは別の解釈をしたようだった。
「ああ、心配しなくてもいい。きちんと手伝ってもらった分の金は払うさ。それとラベルでのファイトマネーはすべて君のものだ」
「え?」
ラビシュは驚いた顔でラーズを見た。
「うん? なんだい。その顔は」
「いや、返済のためにファイトマネーはすべて持ってかれるのかと思ってた」
四百もの借金を返すのだ。問答無用でファイトマネーはすべて返済にあてなければならないと思っていた。
「むろん、金は返してもらうさ。ただ治療費や武具なんかは君持ちだ。必要経費というやつだね。時によってその経費は違うだろう? だから返す額は君に一存するよ。だが、期限は決めておこう。中だるみのナアナアは一番良くないからね」
そこで一度、ラーズは話を切った。おそらく期限を考えているのだろう。
必要経費などはラビシュの頭のなかにはまるでなかったことだった。たしかに今回のように怪我をすることもある。戦うなら武器もいるだろう。利子がないことはありがたかったが、ラーズからすれば利子などよりも自分で準備を整えてくれるほうがはるかに安上がりなのかもしれない。
―――商売ってのは単純じゃないんだな。
ラビシュは、そんな変な感想を抱きながら、ラーズを見ていた。
「五年だ。それで完済できなければ、その時もう一度商談といこう。ただし、ぼくがもう一度君を買うかは分からないがね」
含みを持たせてラーズは言った。
―――期限は五年。年間換算で……。
「分かった。年八十枚返せばいいんだな」
「んふふーふ。そうだね。きっちり返すとそうなる。あれ? 随分簡単に計算できたな? まさか君学校に行っていたのかい?」
ラーズが意外そうに聞いてきた。後ろではシスの息を呑む声も聞こえる。
学校にはふたつある。貴族の師弟が通うアカデミアと教会が開いているパンデオンだ。ここでラーズが言っているのは恐らくパンデオンのことだろうが、どちらにしてもラビシュには縁遠いところだった。
「まさか」
ありえないとラビシュは否定した。
「そうだろうね。だが、だとしたら、君はどこでそれを学んだ?」
いつもの薄笑いとは違い、真剣な顔をしてラーズが聞いた。その声は幾分か興奮で上ずっているような気さえする。
「え、どこって言われても……。ずっと前からできたけど。みんなできるもんじゃないのか」
少なくとも誰かに習った記憶はない。それに生きていく上で役に立ったこともないのだ。せいぜい商人に値段をごまかされないくらいのものだった。
「ふっ、ふふーふ。……ラビシュ」
いつもの軽妙さなどどこへやら、低くラーズが笑う。
「ポーションが四十三入る箱が三つある。そこにひと箱四十のポーションを入れると合計は幾つになる?」
「……百二十」
怪訝に思いながらも、ラビシュは応えた。正直意味が分からない。
「それでは、ポーションの値段をひとつ二十としよう。九十二売れた。売り上げの合計は?」
「……千と八百四十。なあ、なんなんだこれ?」
「ふふ、ふふーふ! これはいい拾いものだ。まさか計算ができるとは思わなかった。いやあ、これは手伝ってもらう仕事も増えるというものだ。まさかとは思うが、文字も書けるなんてことはないかな?」
「書けるけど……。それがどうかしたのか?」
簡易体のものではあったが、字は書ける。これもいつからか自然にかけるようになっていた。だが、スラムにはそもそも文字を読み書きする機会などほとんどないのだ。やはりこれもそれほど役立ったとは言えなかった。
「いやはや、これは困ったな。すばらしい拾いものだったということだ。こんなことならもっと金を貸しておくべきだった」
「計算くらい誰だってできるだろう」
ラビシュは当たり前のようにそう返した。そも計算する機会が少なかったのだ。誰もができるがしない。ラビシュはそんな風に考えていた。
「ふふーふ。だそうだよ、シス」
にやりといやな笑みを浮かべたラーズがシスを見た。
「……人には得手、不得手がある」
顔を背けたシスがそう小さな声で呟いた。さっきほどまでの自慢げな姿は、かけらもなかった。
「え? まさか、できないの?」思わず、ラビシュはそう聞いた。
「ま、学ぶ機会がなかっただけ……」
変わらずそっぽを向いたままでシスが応えた。顔が少し赤くなっているのは、恥ずかしいのだろうか。
「ふふーふ。ラビシュ。シスが普通さ。この世界で文字を書き、計算をなすのは一部の人間の特権だからね。多くの人はできないことだ。……だが、そうなると少し考え直す必要もあるのかな」
「考え直す? まさかさっきの商談をなしにしようとか言うつもりか? 商人はウソをつかないんじゃないのか」
ラーズの言葉にラビシュは強く反応した。さきほど反古にされそうになったことが、いまだにラビシュのなかに強く残っていた。
「ふふーふ。そうではないよ。ただ仕事の内容を……」
ラーズがそう言った時だった。
「ラーズ。下がる」
シスが左手でラーズを制し、前に出る。右手は腰に差した長剣にかかっている。
「おや? これは説明が省けるかもな。シス。いつも通り手早く頼むよ」
のほほんとした調子で、ラーズが言う。
「了解。迅速に、狩る」
言うが速いか、ラビシュの視界からシスが消えた。
「どこに?」
「ふふーふ。あそこだ」
ラーズが指差す。そこにはいままさに、建物から落ちてくる男と、それを建物の上から見下ろすシスの姿があった。
「え? 落ちっ」
「ふふーふ。無問題だよ。あれは敵だ。ほら、次はあそこだ」
言って、ラーズが指差したのは、さきほど男が落ちた建物の対角線上に位置する店屋だった。その前にひとりの男がうずくまっている。
「いない」
ラビシュはシスの姿を捉えようと頭を振る。だが、どこを見てもシスの姿を見つけることはできなかった。
「ここにいる」
「うわっ!」
ラビシュは声をあげた。いつの間にか、シスが男をひとり小脇に抱えて、ラビシュの隣に立っていたのだ。
「ふふーふ。今日は三人か。少ないな」
「少ない。でも、これで全部」
ラビシュの問いかけに、シスは不満げに答え、抱えていた男を放り投げた。
「……今日は、って。いつも襲われてるのか?」
色々と言いたいことはあったが、ラビシュはそれだけたずねた。平然としている二人を見ていると、激しく取り乱した自分がなんだか恥ずかしくもあった。
「ふふーふ。ぼくは人気者なんだ」
ラーズは楽しそうに嘯いた。瞬間、ラビシュの脳裏にいやな予感がきらめいた。
「まさか、仕事ってのは……」
「察しがいいな。まあ、続きは家でやるとしよう。腹も減っただろう」
言って、ラーズは目の前の小さな建物を指差した。
ゴードの東側に位置する商区には不釣合いな、小さな家だ。ほかは店舗兼住居となっているような二階建ての間口の広い家なのに、その家はほんとうにこじんまりとしていた。
ほかの建物に隠れて存在しているような小さな家だ。
「ここが、あんたの家なのか?」
確認するように、ラビシュは問うた。
「ああ、ここが愛する我が家だ」
「……小さいな」
思わず、ラビシュは呟いた。家というよりは小屋といった風情だ。獅子の顔がデフォルメされたような飾りがドアの真ん中についている意外はなんの飾りもない。質素で簡素で、退屈な家だった。
―――もしかして、ほんとうはラーズって貧乏なのか?
そんなことを思いながら、ラーズを見上げたが、ラーズは変わらず薄ら笑いを浮かべたままだ。
「率直だな。だが、男は見かけだけで判断してはいけないな。ふふーふ。中身がすべてさ。人も家も」
「なんだ、それ?」
「開ければ分かるさ」
ラビシュはそのまま手を伸ばし、ちょうどライオンが加えた形になっている円形の取っ手を手に取った。
「ちょっと、汚い手で触れないでくれる? あーしの玉のような肌が汚れちまうじゃないの」
瞬間、そんな低い声がラビシュを罵った。
「うん?」
ラビシュはわけが分からず、辺りをきょろきょろと見まわした。そこにはにやにやとラビシュを見るラーズと無表情のシスがいるだけだった。
「ふふーふ。どうした? ラビシュ」
「いや、いま声が……」
「だから、触るなって言ってるでしょ、このガキ! あーしに触れていいのは筋骨隆々のナイスガイだけって決まってんのよ」
「ほら、いま!」
「ふふーふ、紹介しよう。こちらはダングス。リリー・ダングス。我が家を守る魔法生物だ」
言って、ラーズは獅子のデフォルメされたものを指差した。瞬間、照れたように獅子が波打った。
「魔法生物? この気持ち悪いのが……」
「あ、こいつ言ったわね。あーしが一番気にしていること言ったわね。てか、こいつ誰よ。次に連れてくるのはあーし好みのナイスガイって言ってたじゃない! このうそつき!」
「ふふーふ。すまないね。次は必ず連れてくるよ」
言って、ラーズはラビシュの手を引いてドアを開けた。
「ああ、まだ話は終わってないわよ」
そんな声を残して、ダングスは消えていく。どうやら扉を開けられると消えてしまうようだ。
「なんなんだ、あいつ?」
「さあ? 詳しくは知らないんだ。でも、彼女が見張ってるおかげで泥棒は入らないようになっている。便利だろう? それに、幽霊だと勘違いされてたから、ずいぶんと安かったんだぜ」
後から聞いたところによると、ダングスは鍵の役目をしているらしい。ラーズとシス、そしてラビシュの三人しか通さない意志を持った鍵だ。
「私はあまり好きじゃない」
つまらなさそうに、シスが言う。
「ああ、ソリが合わないんだよ」
興味深げにシスのほうを見ているとラーズがそう耳打ちしてきた。
「なんで?」
「さあ? 知らないな。興味もない」
二重になっていたドアを開けながら、ラーズが応える。ほんとうに興味がないのだろう。その声からはどうでもよさがにじみ出ていた。
「では、あらためて。ようこそ、我が家へ」
言って、ラーズが部屋を指し示す。机と椅子が二脚、そしてソファの置かれた小さな部屋。それに続くように厨房がある。他に扉もふたつあり、奥には部屋があるのだろう。そしてなにより二階へと続く階段が、ラビシュの視線を釘付けた。どちらにしろ、外見の何倍かも家の中は広かった。
「……二階がある。なんで?」
ラビシュは単純な疑問を口にした。外で見た家はとてもではないが、二階がある構造にはなっていなかった。
「ふふーふ。だから言ったろう。男は中身さ。ここは魔法の家だからね。ぼくも詳しくは知らないが、空間をいじってあるらしい。二階の端の部屋が君の部屋だ。好きに使ってかまわない。見に行ってみるといい」
「いいのか?」
見てはいなかったが、自分に部屋が与えられるとは思ってもいなかった。最悪風雨がしのげる場所であればよいなと思っていたくらいだ。
「金を返し終わるまで、ぼくと君は一蓮托生。遠慮しないで使ってくれ。ただそれ相応の働きはしてもらうつもりだがね」
「ああ」
「それでは手早く契約の細部を詰めてしまおう。疲れているだろうからね」
言って、二脚しかない椅子のひとつにラーズは腰掛ける。その顔は薄ら笑いを浮かべた商人のものだった。