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生贄の羊 2

 「主よ、ぼくは―――」

 ―――醜い。

 雨後、澄み渡る青空の下、ラビシュを交えた子どもたちの遊び声が木霊する。

 その声を聞きながら、暗い書斎の一隅アルガスは天を見上げていた。

 「おいおい、いつもどおり辛気くせぇな、辛気くせぇよ」

 言ってノックもなしで上がりこむのは子どもたちではない。更にしつけが行き届いていない荒くれ者、フィッタ・フィーロの頭ジゼット・ポゥだった。

 「ポゥ……」

 生気のない目を向け、アルガスは呟いた。その様はまるで壊れかけの人形のようだ。顔色は白さを超えて青白い。

 「ハ、なんだなんだ、なんだよ。その辛そうな顔はよ、切れちまったのか?」

 言いながらジゼットはへたり込んだアルガスの前にかがみ込んだ。

 「ポゥ、ぼくはいらない。もう、いらないんだ」

 「そんな悲しいことを言うなよ、言うなよな。俺様は知ってるぜ、知ってるよ」

 焦点の定まらない目をしたアルガスの肩へと抱きながら、ジゼットは自身のポケットへと手をさし伸ばす。

 つまみ出された親指と人差し指の間には、黒い粉末がついていた。

 「あ、……ああ」

 うつろに沈むアルガスの瞳が差し出された指の動きにつられて上げられる。

 その先には、にんまり笑うジゼットの顔があった。

 「ハ、おいおい、そりゃねぇだろ、先生。

 主は言っているぜ、聞こえねぇか? 聞こえるだろう?」

 指に付いた粉をゆっくりとすりつぶすように摩擦しながら、アルガスはいつも通りの言葉を口にする。微細な摩擦熱に反応した粉が、淡い空色の煙を上げ、特有の甘い匂いが鼻をうった。死体の焼ける匂いよりも、肉の腐る匂いよりも度し難い、史上最低の香りだ。

 それを鼻腔いっぱいに含みながら唱えるのは、いつも通りの腐った言葉だ。

 「もっと、もっと、もっとだ。もっと救うんだ。

 この世が主の愛で埋まりつくすその日まで。世界から哀しみを拭い去れ」

 むき出しにされた白い歯とは裏腹に、ジゼット・ポゥの心は冷え切っていた。

 救いなどこの世界にないことは自身が一番知っている。

 ―――ほんとうに、くそったれな世の中だ、世の中だなぁ?

 光が失われていくジゼットの瞳とは反対に、死人同然だったアルガスの瞳には生気が宿っていく。見る見るうちに、消えゆく煙よりもなお澄んだ蒼穹の瞳が輝きだす。

 ゆえに、だからこそ、ジゼット・ポゥはこの瞬間が大嫌いだ。

 生贄の羊の血で汚れるこの瞬間が、ジゼット・ポゥは嫌いだった。



 ◇

 光が揺れる。

 場末の酒屋にふさわしい暗く汚れた灯りだ。

 「いい灯りだろう? やわらかくって暖けぇ。これがほんとうだとオレ様はそう思う、そう思うね」

 ジゼット・ポゥは部屋を静かに照らすガラス細工へと目をやって、自慢げにそう言った。

 見事な作だ。おそらく名のある名工の作なのだろう。淡い擦りガラスと計算されつくした造形が絶妙なやわらかさを描き出している。

 ―――けれど、それだけだ。金にはならない。

 蝋燭などという骨董品を使っている明かりなど時代遅れだ。懐古趣味の貴族には人気があるかもしれないが、そうした伝手のないラーズにとっては無価値としか言いようがなかった。

 「ふふーふ。そうかい? 残念だが、ぼくにはまったく分からないよ」

 すげなくラーズはジゼットの言葉を否定した。

 「そうかよ。じつにお前らしいとオレ様はそう思うぜ、そう思うね。役にたてばなんでもよろしい。じつに、吐き気がするほど商人的な考え方だ」

 ジゼットは褒めているのかいないのかわからないセリフを吐いた。毒を吐くジゼットの顔はにっこりとほほ笑んで、彼の人懐こしさをよく示していた。

 「だろう? なんと言ってもぼくは商人だからね」

 「だが、俺様は嫌いだ、嫌いだね。美学ってもんがねぇ」

 「美学、ねぇ……」

 言いながらラーズは、あらためてジゼットを観察した。

 白いズボンに黒い開襟シャツを着て、首には豪壮な金のネックレスがぶら下がっている。その上、シャツの襟は開かれて、まるで首を守るかのように上を向いて立っていた。彼曰く、そこが一番のポイントなのだそうだ。

ジゼットの本職を思えば無理もないのだろうが、ラーズには理解しがたい美意識であることは確かだった。いつもラベルで見かける格好のときの彼の方が、まだましだ。

 「人には愛着ってもんがある、あるな? どんなものでも捨てるときには思い出のひとつでも感じるもんだ。すくなくとも俺様はそういう人間だ。なんでもかでも壊れたら新しいものへなんて言うのは、俺様のもっとも嫌いな考えのひとつだ、ひとつだぜ?」

 ―――下手な話題の振り方だ。

 ラーズは嘆息した。

目の前で真新しい指輪のついた手を組んだジゼットの言いたいことは、そのような道徳の話ではない。

 ラーズの持っている道具―――ラビシュのことだ。

「ふふーふ。ご高説をありがとう。……ところで、その美学ってやつは一体いくらで売れるんだい?」

 ラーズは取り合うことなく、いつも通りの作り笑いで応じた。

 「ハ……。はっきり言っておいてやる。俺様はお前がきらいだ、きらいだぜ? ラーズ」

 褐色の肌に生える白い歯をむき出しにして、ジゼットはラーズをにらんだ。だが、その強められた語気が、ジゼットの職業特有の偽りであることもラーズはわかっていた。威圧こそが、フィッタの頭にとって重要なもののひとつなのだ。

 「ふふー、そんなことは百も承知さ。だが、好悪なぞこの世界で最も意味のないものだぜ? 

ここに二人の人間がいる。

一人は好ましい性格だが、無能な男。一人は虫唾がはしるほどに嫌いだが、有能な男だ。キミはどっちと仕事をする?」

 「……ラーズ。言いたいことは分かるがあめぇよ、あめぇな?」

 ジゼットは横から部下の差し出した酒をひとつあおって、ため息をついた。

 「へぇ?」

 「前提が違ってやがる。無能と仕事? ありえねぇ、ありえねぇな? 無能は悪だ、人間じゃねぇ。ただのゴミだよ。ゴミとお前は友達になりてぇのか? なりたくはないよな? 俺様はそう思うぜ」

 「ふふーふ。いやはや、さすがは裏を仕切るフィッタのボスだね。言うことが違う」

 フィッタというのは、この街を仕切る一家の名前だ。半ば隔離されたこの都市の裏側すべてに深く関わっている。

 その頂点に立つのが、ジゼット・ポゥという男だ。ラベルで見るようなふざけた姿ではなく、短く刈り込まれた白髪と濃い褐色の肌が精悍さを漂わせている。

 権力を持ち、金払いがよく、欲望に正直な男だ。それに賢しくもある。

 人間としては嫌いだが、商売相手としては好ましい相手だった。

 「面倒だ、面倒だな? 

たまにゃ、お前ら商人みたいに回りくどくやってやろうかと思ったが、だめだな。これは俺の性分にはまったくあわねぇ、あわねぇなぁ。そうだろう?」

 深くソファへと体を沈めながら、ジゼットは投げやりにそう言った。無論、その様は放棄という名の演技に過ぎない。

 ラーズは薄くほほ笑んだ。

「……で、お前にとって、赤獅子は部下か、道具か、どっちだ?」

 「ふふーふ、それはいったいどういう質問かな」

 「ちっ」

 なおも作り笑いのまま、そう返したラーズにジゼットは舌打ちした。部下がなだめるように葉巻を渡し、火をつける。

 「率直に言って、俺様はアイツが欲しいんだ。よこせ」

 いらついた調子で煙を吐いて、ジゼットはラーズをにらんだ。彼の背後に立つ部下も無言で、ラーズを見つめていた。その沈黙には、自分の主たる男の怒りを恐れる風情があった。

 「ふふーふ。いやはや、困ったね……。人のものを無闇に欲しがってはいけないと親に教育されなかったのかい?」

 「教育はされた。が、商人は別だろう? お前らの持ってるものにはすべて値札がぶらさがってるはずだ。違うか?」

 ずいと体を乗り出して、ジゼットはラーズをのぞき見た。青く、魔力に侵されつつある男の瞳が、不気味な色を滲ませている。

 「だが、高いよ? アレはじつに有用な道具だ」

 ジゼットの言うことは正しい。商人にとって非売品などはあり得ない。自分の命さえも売る人間たちだ。売れぬなど、値段を吊り上げるための言葉に過ぎない。

 「そんなことは知っている。普通なら万札詰まれても売らない売却不可の優良物件だ。だが、いまはちょっと事情が違う。俺はそう思うぜ?」

 「ふふーふ」

 「稲妻はどうだ? 赤獅子より扱い易いか?」 

ラーズの笑みを肯定と受け取ったのだろう。

男はただそれだけを口にした。

 「ま、そこそこだね。でも、臆病な犬より飢えている狼の方がはるかに扱い易くはあるね。餌を放るだけでいいんだ。楽なもんだよ」

 「ほう……。じゃ、本当だと思っていいんだな。あのうわさは」

 男は乗り出した体をソファへとしずめ、獰猛に笑んだ。

 「うわさ? なんだい、それは」

 「しらばっくれるな、くれるなよ。

貴族様がおもちゃをひとつご所望なんだろう?」

 「なんだい、そこまで知っているのか。でも、それならぼくの答えは聞かなくてもわかっているだろう?」

 拍子抜けしたような調子で、ラーズは答えた。

 「ハ、たしかに普通に考えれば、俺様たちよりも貴族の方がいいだろうな。金銭じゃねぇ。貴族につながりの薄いお前は、赤獅子で金とコネを手に入れる。だが、果たして本当にそうか?」

 「……どういうことかな?」

 「簡単に言えばよ、売ってやると言ってるんだ」

 「……へぇ」

 ―――そういうことかい。でも、おかしいね。

 ジゼットは街の裏を仕切っている男だ。そこには当然娼館やそれに類する薄暗い施設も関わっている。そこに絡むのは、必定金を持っている貴族連中だ。貴族と同じく裏街へ通う可能性のある冒険者はこの街にはいない。

 そこで行われているあらゆることを、ジゼットは知っている。それは貴族連中のアキレス健を握っているということだ。

 ジゼットが売ろうとしているのは、そういう客連中の情報だ。

 「意外か?」

 たしかに意外だった。

 ジゼット・ポゥは馬鹿ではない。顧客の情報を漏らすことが、どのような状況をもたらすことになるのか。それがわからない男ではない。

 ―――分からないな。これは、明らかにぼくの方がおいし過ぎる。

 「それほどまでに欲しいのかい?」

 「ああ、欲しい、欲しいね。アレはいい」

 確かに、ジゼットはラビシュに入れ込んでいた。自分自身で実況をするほどの入れ込みようだ。だが、ジゼットはそれ以前にもそういう行為はする男であった。シスの実況もやっていたのだ。だが、それでも欲しいと言ったことはない。

 ―――ひとつだけ、思いつくことはあるけどね。

「そこまで破格の条件を出されるとはね。でも……」

 「もったいぶるんじゃねぇよ。言え、はやく」

 ―――それでも、ぼくの欲しいものには届かない。

 「ぼくは、おいしすぎる話にはのらないことにしているんだ」

 「……そうか。そうかよ? あくまでも、お前は俺様に売るつもりはないってそう思うんだな?」

 「ふふーふ」

 これで話はおしまいだ。不遜に笑いながら、ラーズはそれだけ告げる。

 「そうか、そうかよ……。じゃあ、仕方ねぇな」

 ジゼットが合図を送り、数十の部下たちがラーズを囲む。話は終わり、ここからはフィッタ得意の暴力を元にした交渉のはじまり、ということだろう。

 「そうさ、仕方のないことだ」

 話合いがうまくいかなければ、交渉に入る。じつに正しい姿だ。

 「そうだな、仕方のないことだ、仕方のないことだな」

 言って、ジゼットは部下が装てんした魔砲杖をラーズに向ける。当たれば至近距離だ。最初に載っていたことが不自然なほど粉微塵に頭は吹っ飛んでしまうだろう。

 「ふふーふ。それ、ぼくが卸したものじゃないよね? どこで買ったんだい?」

 「べつに知る必要はねぇな、ねぇだろ?」

 「ま、それもそうか……。

ところで、それ以上動くと穴が開くぜ?」

 言われ、はじめてジゼットはソレに気がついた。

 自身の喉へまっすぐ伸びる刃―――異様に細いそれはシャーリ・エストーのそれだった。

 「おめぇ……」「ふふーふ」

 「よう、ジゼット。今日はアフロじゃねぇんだな」

 のんびりと言葉を返したのは、赤髪の伶人、稲妻という愛称で知られるシャーリ・エストーだった。いつもの白い服ではなく、フィッタ・フィーロの団服を着ている以外は傲岸不遜ないつも通りの稲妻だ。

 脅しのために多くの人員を割きすぎたのが問題だったのだろう。取り巻きにまぎれて入ってきたようだった。

 「稲妻ァっ!!」

 突然のシャーリの登場に固まる一行のなか、ジゼットの部下がひとりそう怒声を上げた。

 「ハ、だれだあんた?」

 「てめ、俺を忘れだとっ」「そんなのどうでもいいけどよ。あんた、状況わかってんのか?」

 言ってシャーリは剣先に少しの力を込めた。ジゼットの褐色の首に、赤い粒がぷくりと浮かんだ。

 「てめぇ……」

 「ヴォル」

 ジゼットに名を呼ばれ、ヴォルは身を引いた。引きながらシャーリを見る目は、忠義ではなく私怨によって濁っているようだった。

 「で? 俺様に剣を突き立てて、おめぇどうするんだ、どうするんだよ? 売るつもりはないんだろう? 商談はもう頓挫しちまってんだぜ?」

 「ふふーふ。おかしなことを言う。商談は始まってすらいないぜ?」

 「なに?」

 「君はラビシュが欲しい。ぼくはラビシュを売りたくはない。ああ、とても難しい案件だ。でも大丈夫。ぼくは商人だからね。交渉不可の商談なんか存在しない。君の言うように、ぼくの持ち物に不売の札がかかっているものなど、ただのひとつもないのだからね。

 問題は、ただひとつ。値が折り合うか、それだけだ」

 いつも通り薄ら笑いを浮かべラーズは言葉を紡ぐ。その淡々とした語り口が、ジゼットの部下たちになにかを感じさせたのだろう。彼らの持っていた得物が、微細に揺れる。

 その中で、ひとり喉元に刃を突き付けられながらもジゼット・ポゥだけは身じろぎ一つしなかった。ただラーズをにらむだけだ。

 「ハ、なるほど、なるほどな。さっきは俺様の焦り過ぎとそういうわけか、そういうわけだな?」

 「ふふーふ。正解だよ。ぼくは君の提案を受け取る気はないが、ほかのものなら受け取るつもりさ」

 「ほう。そりゃ重畳だ。ぜひ聞かせてもらいたてぇな、聞かせてもらいてぇよ」

 「ふふーふ。それじゃあ、商談をはじめよう。なに、きっとみんな満足いく結果を得られるはずさ」


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