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生贄の羊 1

◇ 

 ―――夢を見ていた。

 

 遠いとおい、過去という名の夢だ。

 いまは置いてきた情熱のすべてがそこにはあった。

 

 「雨、ですか……」

 

 夢から醒めた気だるい頭に、窓を打つ雨音が響く。

 ざあざあと止めどなく続く音は、単調であるが故に奥深い。

 

 ―――ぼくは、ぼくには……。

 

 「いけませんね……」

 

 過去に掴まりそうになる頭を振って、ドゥーザ・アルガスはそう呟いた。

 夢は甘美だ。それが過去のものであればなおさらに、ずうっと浸っていたくなる。不可逆的であるが故に、つらいものすら懐かしく尊く感じてしまう。それが過去という名の夢の効用だ。

 単調な雨音に暗く濁った雲たちは、そうした行為を行うにはあまり相応しすぎる。

 知らず、過去に浸りそうになってしまった。

 

 「雨は、いけません。

 思い出したいことも、思い出したくないことも、すべてを思い出させてしまう」

 

 ―――は、いけませんね。もうずいぶん浸っているじゃないですか……。

 

 自嘲して起き上がり、アルガスは寝巻きを脱いだ。

 本がうずたかく積まれた寝室に似つかわしくない衣裳棚を開く。まったく同じ意匠の服が並ぶ中央、大きな姿見がアルガスの姿を映していた。

 男には似つかわしくない白く細かい肌。それもそのはずだ。ドゥーザ・アルガスは男であって、男ではない。あるべきものを持たず、もっていてはならないものを持つ、異形の身だ。

 だが、いまはそんなことなどどうでもいい。

 反転し、鑑に映るそれを見る。

 刻まれているのは、逆さの聖母―――背教者の刻印だ。その背教の証にはしる縦、横の十字傷。醜い傷跡を指で撫でながら、アルガスは謝意を口にした。

 

 「主よ―――貴方に百万の感謝を」

 

 過去から現在を生きるために必要な言葉を今日もアルガスは口にした。



 「まったく……。毎度のことながら、貴方たちには呆れてしまいます。

 ただの鍛錬でこんな傷を創るなど、正直正気の沙汰とは思えません」

 

 毎度のように小言を言いながら、アルガスはラビシュの傷の手当を行っていく。

 治癒の魔術には相応の知識がいるため、大抵の治癒術士は教会や貴族などの富裕層に限られる。武器職人であるタリクが使えるのは、例外中の例外と言っていい。

 牧師であるアルガスが治癒を行えることを知ったのは偶然だが、それ以後ラビシュは治癒をアルガスに頼んでいた。

 

 「本気じゃなければ意味がないんだ。そうじゃないと強くなれない」

 「強く、ですか? 貴方はいまでも十分お強い。それ以上を求める必要があるとはあまり思えませんが」

 

 諭すようなアルガスの言葉にラビシュは答えない。

 ただ黙然としているだけだ。

 アルガスに話しても分かるはずはない。ラビシュはそう思っていた。

 教会の牧師として孤児たちの面倒を見るような人間に、ラビシュの渇望が分かるとはとても思えなかった。

 

 「……これ以上は説教になりますからやめておきましょう。ただ……」

 「先生、ラビシュ来てるってほんと?」

 

 アルガスがなにかを言いかけると同時に、子どもたちが群れをなして入ってきた。その先頭で声を挙げたのは、クルルという名の子どもだった。

 

 「クルルくん、皆さんも。部屋はノックしてから入るものとお教えしたでしょう?」

 「あ、いるいる」

 「ラビシュだ」「ラビシュ」

 

 アルガスの注意にも答えず、子どもたちはラビシュを見つけるなり、ずかずかと取り囲んだ。

 

 「なんだ、怪我してんのかよ」

 「先生、はやく治してやんなよ」

 「なんだぁ、ラビシュ。やられちまったのか」「だっせー」

 「シャーリ姉ちゃんにまたやられたんだー」

 

 総勢十名ほどの子どもたちが思い思いに口にする。

 

 「うるさい」

 

 憮然とした口調でラビシュは答えた。

 アルガスのところにたびたび訪れたおかげで、孤児院の子どもたちもラビシュにずいぶんと馴れ馴れしくなった。全員が年下のはずなのに、なぜかラビシュは舐められていた。

 唯一、敬意を払ってくれるのは、

 

 「やめろよ。ラビシュ兄ちゃん怪我してんだぞ」

 

 クルルくらいのものだ。

 

 「はあ、貴方たち。いつも言っているでしょう。ラビシュくんは大切なお客さんなのですよ」

 「えー、ラビシュが客ぅ?」

 「金づるじゃないの? いつも怪我して治療受けてるし」

 「貴方たち、いい加減に……」

 「はあ……。いつも通り土産持ってきてるから、食って来い。

リーゼに渡してあるから、早くしないとなくなってるかもなぁ」

 

 アルガスが声を荒げる直前に、ラビシュはそう言った。

 いつの頃からか持ってくるようになった菓子類だ。最初はアルガスへの礼だったが、いまでは子どもたちに向けてのみやげ物になっている。

 

 「おお、流石ラビシュ」「愛してるぜ、ラビシュ」

 

 調子のいい事を言って、子どもたちが去っていく。

 

 「え、あ」

 

 そのなかでひとりだけ、出て行く仲間たちとラビシュを見比べる子どもがいた。クルルだ。ラビシュの怪我が心配だが、子どもらしく菓子も気になるといったところだろう。

 

 「いいよ、行ってこい。出ないと、本当に残ってないかもしれないぞ」 

 「あ、うん。ラビシュ兄ちゃん、また後で」

 

 言うなりクルルは子どもたちのあとを追って出て行った。

 

 「毎度、ありがとうございます、ラビシュくん。

アレはあの子なりの親愛で、決して悪意ではないのですが……」

 「いいよ、分かってる」

 

 ラビシュはそういって軽く頷いた。

 ラビシュも孤児院に居たことがあったのだ。そこで生きる彼らの不安も、あり方も理解できるものだった。

 

 「ありがとうございます。

いけませんね、貴方には助けられてばかりだ」

 「べつに。俺のほうが先生には世話になってるよ。傷もそうだし、本だって」

 

 ラビシュがアルガスの元を訪れるのは、治癒だけではない。

 アルガスが多量に持つ本を借りにきているのだ。印刷技術も製本も製紙も活発でないこの世界でアルガスの持つ本の量は異常だ。物語という娯楽もそうだが、なにより実践的な魔法の理論や剣術のことなどは、ラビシュの目的のためには役立っていい。

 菓子などは、その小さなお返しにすぎなかった。

 

 「そう言ってもらえると助かります」

 

 言ってアルガスは微笑んだ。

 それは、ラビシュの話を聞いて流した涙とは反対のひどくぎこちない笑みだった。


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