そして、服従の鐘はなった
◇
「いったい、なんだったんだ……」
疲労を感じさせる声で、ラビシュは思わず呟いた。
ドゥーザ・アルガス。
脳裏に浮かぶのは、先ほど出会った教会の男のことだった。
ラビシュの話を聞いて涙を流した男の元を、ラビシュは逃げるようにして去ってきた。クルルを預けてくることはできたが、ラビシュはひどく混乱していた。
自分のために涙を流す人間がいることに驚いたのだ。
あの後、アルガスから理由を聞くことはなかったが、あの男がラビシュのために涙を流したのは確認するまでもない事実だった。
「お、帰ってきたか。どうだった? 変な奴だったろう」
「……稲妻|≪ライトニング≫」
声に導かれて、顔を上げればソファの上でシャーリが悠々と寝転がっていた。
「あいつはなんだ?」
「あ? 名乗らなかったのか。あいつはアルガス。お人よしの牧師で、生贄
野郎|≪ナルシスト≫だ」
「いや、そういうことじゃない。そうじゃなくて……」
―――あいつは、なんで泣いたんだ?
ラビシュは言葉を呑んだ。
シャーリに聞いたところでわからないことを聞こうとしていることに気が付いたからだ。
不思議そうに、シャーリは首をかしげたが、なにも聞いてはこなかった。ただつまらなそうに、次の言葉を口にする。
「それより、ラーズのやつが呼んでたぜ。分館の方で待ってるとよ」
◇
「なんだよ。ずいぶん慌ただしいな」
シャーリ・エストーは開け放たれたままの扉を見、そう毒づいた。
すでに赤獅子|≪ラビシュ≫の姿はない。シャーリの言葉も最後まで聞かず、赤獅子は本館を飛び出していた。
「そんなに、伯銀翼|≪ヒュド≫のことが心配なのかねぇ」
ラビシュの行先はわかっている。
伯銀翼―――シスの眠る分館、かつての赤獅子たちの住まいだ。
―――勘のいいガキだ。
ヒュドの眠る分館。そこにラーズがいるという情報だけで、すべてを悟ったに違いない。そこで語られる内容は、ヒュドのことだ。赤獅子に取れば、それだけで十分な情報だったのだろう。
「いや、望んでいるだけかもしれねぇなぁ」
思わず、苦笑がこぼれた。
すでにシャーリはこれから起こる結末を知っている。ラーズから聞かされた通りだとすれば、それは赤獅子にとっては最悪のシナリオだろう。
なにも感じないわけではない。
だが、それよりももっともっと欲しいものがある。待ち焦がれるものがある。
『これで、ラビシュはもっと強くなるよ』
ラーズは言った。
それが本当かどうかはわからない。シャーリからすれば、あのような悪趣味なことで、人が強くなるなど眉唾ものだが、可能性があるならばそれでいい。
――― 一ミリでも強くなる可能性があるのなら。オレが少しでも楽しめるなら。胸糞わるくなることもする。クソみたいなこともしてやろう。
―――だから、強くなれ。
「強くなりやがれ、赤獅子」
◇
「あ、あーた、ラビシュっ!」
勢いよく開くドアの音とともに、リリー・ダングスの声がなった。
「シス。どうやら来たようだよ」
跳ねるような足音を聞きながら、ラーズはささやいた。その先のシスは変わらない。ただ深く、眠るように瞼を閉じたままだ。
―――さて、殺されないといいのだけれどね。
これから行うことを思いながら、ラーズは不覚にもほほ笑んだ。殺される可能性を考慮しながら、一方で決してラビシュは殺さないだろうと思っている。そんな自分の曖昧な愚かさを――― 十ほどの子どもの理性を信じている自分に、ラーズは不思議を感じずにはいられなかった。
―――だが、そうだからこそ……。
ラーズはラビシュを利用することに決めたのだ。
◇
「ラーズッ」
奥の部屋―――かつてのシスの部屋の前に着くなり、荒く息を吐きながら、ラビシュはラーズの名を呼んだ。
「やあ。シャーリから聞いたよ。先生に会ったらしいね。どうだった、相変わらずの贖い人|≪ナルシスト≫だったかな?」
「話をずらすなよ、ラーズ。そんなことを話すために呼んだわけじゃないだろ」
「ふふーふ。先生の話は、まったく無関係というわけではないんだぜ? 君が、彼と会ったからね。すこし急ぐべきかと思ったんだ」
「そんなこと、いまはどうだっていい。シスはどうなった」
強くラビシュはそう言った。ほかの話などするヒマも余裕もなかった。
「ふー、そんなにシスに会いたいのかい? 薄々想像はついているんじゃないのか。このまま、見ずに置くというのもひとつの方策だぜ。なにしろ、君はもう自由の身だ。このまま、見ることなく別れ、生きていく方が幸せなんじゃないか。少なくとも、ぼくはそう思うね」
呆れたようにラーズが息を吐く。言っていることが決して本心ではないことは、そのいつも通りの薄ら笑いからも明らかだった。
「だまれよ、ラーズ。自由になったからこそ、俺はシスに会わなきゃいけないんだ」
「そうかい。じゃあ、行くといい。あの先にシスはいるよ。その後で、あらためて話をしよう」
「勘違いすんなよ、ラーズ。俺にあんたと話すことなんかもう何もない。なにもないんだ」
「ふふーふ」
部屋の扉を開けるラビシュの後ろ、愉快そうにラーズは笑った。
◇
そこは異様な部屋だった。
白い壁が光を乱反射する部屋の中央にベッドがひとつポツンと置かれ、そこから幾本もの管が壁へと伸びている。そこにシスがいるのだ。ラビシュは直感した。
「……シス?」
恐れるように、ラビシュはシスの名を呼んだ。
だが、返事はない。
なにかの駆動音と水滴の垂れる音が鳴るだけだ。それだけが、連続していなっている。
「シス……。俺だ、ラビシュだ」
言いながら、ラビシュは一歩を踏み出した。
さらさらと風がカーテンを揺らし、ちらちらと陽光が部屋をまだらに照らす。
「―――ッ」
シスの銀髪がようやく見えるまでに近づいたとき、ラビシュは思わず息を呑んだ。
「だから、言ったろう? ほんとうに見るつもりかと」
「……ラァ、ズ」
視線をシスに釘つけたまま、ラビシュはそれだけ口にした。
「そんな顔で見るなよ、ラビシュ。君が自分で選んだことだぜ」
「ラーズ。これは、シスは」
―――生きているのか?
かろうじてラビシュは言葉を飲み込んだ。
ぐにゃりと視界が揺らぐ。焦点が定まらない。
「生きているよ。シスは生きている」
ラビシュの疑問に答えるように、ラーズは言葉を継いだ。
―――生きている。
ラビシュはそれを聞きながら、シスの姿を見返した。
手がない。足がない。いや、これはそういう問題ではない。
薄いのだ。まるでそこだけ世界が違うように、シスの体はうすく透き通っていた。
死にかけているのだ。ラビシュは直感した。
「魔力を極限まで振り絞ったからね。コレで供給し続けることを止めれば、彼女は消えるよ」
「どういうことだ」
「ふふーふ、一度限界まで失われた魔力は戻らない。だけど、常に新しい魔力を注ぎ続ければ、少なくとも消えることは防げるんだ」
シスの体を覆う管のひとつをつまみ、ラーズは言う。
注ぎ続ければ、消えることはない。ということは、注がないとどういうことになるのか。それは明らかだ。
「ラーズ。あんた、シスを。どうする……つもりだ」
「ふふーふ。決まっているだろう。ぼくは商人だぜ?」
いつも通りの笑みを浮かべて、ラーズは告げる。その言葉の意味することはひとつだけだ。
「……そういうことかよ。だからあの時、俺の契約を破棄したんだな」
「ま、ぼくは商人だからね。むざむざ金の卵を野に放つことなどしないさ。それで、どうする? もう聞かなくてもわかっているんだろう」
ラーズへと向けていた視線をきって、ラビシュはシスを見た。
―――俺のせいだ。俺が弱かったから、シスは。
ラビシュは思う。もっと自分が強ければ、シスはこのような状況にはならなかった。
ラビシュが自由を選べば、その瞬間シスへの魔力供給は止まる。つまり、シスはそこで死ぬことになるだろう。
だが、ラーズとの再契約を選べば、またあの剣奴の日々に逆戻りだ。それは、ラビシュも、そしてシスも望んだものではない。
「どうするんだい。君はもう自由だ。シスとも関係はないんだぜ。ここで見捨てていいじゃないか。多分シスも君がそうすることを願っているぜ」
ラーズの愉快なそうな声に重なって、どこかで鐘が鳴った。ラビシュの嫌いな薄汚れた教会の鐘の音だ。低く空を濁らせるかのような低音が、ぼーんぼーんと連続する。
―――俺は、誰かに守られるために強くなったわけじゃない。
ラーズの言葉は決定的だった。
シスがラビシュのことを思っていたのだとしても。
―――俺は、シスも守りたかったんだ。
「俺は弱かった……」
小さくラビシュは呟いた。
ささやかな声とは違う。重い後悔がのった音だった。
同調するかのように、遠くで再び低く鐘がなる。
「鐘が鳴っているね。なかなかいい響きだ」
「クソッタレめ」
小さくラビシュは毒づいて、ラーズを見た。
―――俺はもっと強くなる。
「ふふーふ」
声を出して笑むラーズを挑むように見ながら、ラビシュは言った。
「ラーズ。商談をはじめよう」
過去とは違う。決してラーズに強要されたのではない。己の意思で、ラビシュは決断した。
ラーズの思惑など関係ない。ただ護ると決めたものを護れなかったがゆえに。そして、これから護り続けるためだけに、ラビシュは決断した。
「ふ、ふふーふ」
低く、鐘がなる。薄汚れた教会がクソッタレなこの街全体を包むその乾いた音。それは、まるでラビシュの新しい服従の未来を示すかのように、どんより濁った音だった。