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そして、服従の鐘がなる⑬

 「ヒマだ」

 

 商業区にある長いすに腰掛け、ラビシュはぼやいた。

 黒獅子の暴走から一週間が経った。

 当然の解放宣言のあと、ラビシュは暇をもて余した。端的にすることがないのだ。ラーズに指示された仕事もなければ、ラベルに向けた訓練も今は必要ないのだ。

 いまだシスに会うことはできていなかった。そのことに不安はあったが、会えば悪化すると言われれば我慢せざるを得ない。

 

 「それにしても……」

 

 空にはゆるやかに白雲がたなびき、黄土色の街が日光を反射する。その下を行き交うだれもが、まるで春のなかにいるように陽気だった。

 

 「串揚げ~、串揚げ、いらんかね~。うまいよぉ~」

 「東方からやってきたらぁめん! 輝くスープに、金の麺が絶妙だよっ! 食わなきゃ、損だよ。損っ!」

 

 客を呼び込む声がそこかしこから響く。店が並ぶこの通りにも、ラーズの手伝いでちょくちょく来ていたはずだったが、はじめて聞いたような気がしていた。

 思えば、こうしてなににも捉われずに街にいるのは初めてのことだったのだ。スラムに居たときにはここまで来ることはできなかったし、ラーズのところで働いてからは、そんな余裕などなかった。

 

 「ラビシュくん?」

 「……クラウ」

 

 呼び止められて振り向けば、クラウが不思議そうな顔でラビシュを見ていた。

 

 「どうしたんだ?」

 

 ラビシュを不思議そうに見つめるクラウに向かって、ラビシュは疑問を発した。

 

 「私は、買出しだけど……。ラビシュくんこそ、どうしたの?」

 「どうしたって? べつに、どうもしていないけど」

 

 なにを疑問されているのか分からず、ラビシュは言葉を返した。どこか、おかしなところでもあったのだろうか。

 

 「ラビシュくん、いつも忙しそうだったから……。なんだか、そんな風に所在無さ気? に座っているの、はじめて見たよ」

 

 言いながらクラウがラビシュの隣に腰掛ける。その様を見ながら、ラビシュは頬杖をついた。


 「ああ……。そうかもなぁ」

 「なにか、あったの?」

 

 クラウが問う。その声には心配の色が浮かんでいた。

 

 「いや……。なんて言えばいいのか」

 

 言葉を濁しながら、ラビシュは思考する。いまの自分の状態をぴたりと言い表す言葉が思いつかなかったのだ。

 

 「俺の雇い主は見たことがあるだろう?」

 「うん。ラーズさんだよね?」

 

 クラウが頷き、ラーズの名を口にする。流石に、店屋の娘だけあって商人であるラーズのことも知っているらしい。

 

 「俺、ラーズに借金があって……」

 「借金? いくらくらいなの?」

 「いや、それはもう返したんだ」

 

 早口にラビシュはそう言葉を返した。すでに返した身の上だが、借金があったことが気恥ずかしかったのだ。

 

 「そうなの。それなら、なにが」

 

 ラビシュの感情などよそに、じつに落ち着いたさまでクラウが言った。借金で実父を亡くしたからか、それとも店屋の娘だからか。どちらか判然とはしなかったが、クラウにとって借金はべつに驚愕すべき事柄ではないようだった。

 

 「金を返すためにあいつのところで働いてたんだ。だけど借金は無くなって『もう働かなくていいんだ、君は自由だ』って言われたんだよ」

 

 そのクラウの態度がいっそうラビシュの恥ずかしさを助長させる。ただ早く言い切ってしまいたくて、ラビシュは言葉足らずの早口を口走った。

 

 「うん。それで?」

 「それだけだ。もう俺はラーズの下で働かなくていい。それは、うれしい。だけど……」

 

 小さく、ラビシュは言う。言っていることが矛盾していることは分かっていた。だが、それでもどこか納得のいかないわだかまりがあるのも事実だった。

 

 「ラビシュくん、ラーズさんのこと好きだったの?」

 

 クラウが小首を傾げ、そんなことをのたまった。

 

 「は、そんなわけないだろ」

 

 ラビシュは失笑した。

 ラーズが好きなどありえない。ラーズは、ラビシュを買い、多くの人を殺させた男なのだ。

 

 「そう、なの?」

 

 さらに首をおおきく傾げながら、クラウが言葉を継いだ。疑問を深くしているようだった。

 

 「そうさ。あいつのことが好きだなんて、そんなことあるもんか」

 

 すこし語尾を激しくしながらラビシュは応じた。なぜかは知らないが、ひどく興奮している自分がいるのがラビシュにも分かった。

 

 「ラビシュくんがラーズさんを嫌いなのはよく分かったよ。でも、ラビシュくんはどうするの?」

 

 抱えた編み籠を傍らに置いて、クラウがラビシュの隣に腰掛けた。ふわりと香る香りは、以前のものとはまた違うものだった。

 

 「……どうするってなにを?」

 

 自然跳ねる心臓の不思議を感じながら、ラビシュはクラウへと問いかけた。

 

 「いや、あの。ラビシュくん仕事なくなったんでしょ? これからどうするのかなって」

 「これから……」

 

 ―――それは……。

 

 瞬間、浮かんだのはシスとクラウ、そして自分の笑う映像だ。黒獅子との最後に幻視した映像だった。そこにはダングスも、タリクも、ラーズも小さくだが、いた。

 

 ―――バカか、俺は……。

 

 頭を一度振ってラビシュは、愚かな映像を頭から掃き出した。言葉はない。ただなんとも言えない感興が、ラビシュを無言にさせた。

 

 「ラビシュくんはこれからも生きていくんでしょう? それなら、どうするかを考えなきゃ」

 

 ラビシュの無言を、考えていなかった結果と見ただろう。クラウがそんなことを言った。

 

 「そうだな」

 

 ―――ラベル以外で生きる道を見つけないと……。

 

 クラウの言葉は最もだ。すでにラビシュはラーズの保護下にあるわけではない。これからは自分自身で、生きる道を探さなければならないはずだ。

 

 でも、と疑問する。

 

 ―――俺に、どんな生き方が出来るというのだ?

 

 ラビシュは再び沈黙した。

 

 貧民街に生まれ生きてきたラビシュには、そこでの生き方しか知らない。盗み、奪い、誰かを害して生きる生き方だ。そうでない生き方などラビシュは知らなかった。この街の人間たちがどのように生を営んでいるのか、それをすらラビシュは知らないのだ。

 

 ―――俺が知っているのは、人の殺し方と魅せ方だけだ……。

 

 それはラーズによって仕込まれた剣奴としての生き方だ。

 それが間違っていることは分かっている。ほかにべつの生き方があることを願っている。だが、果たして自分がそれを実際に歩めるかと疑問したとき―――。

 

 ―――俺に、出来るのか?

 

 浮かぶのはそんな懐疑の言葉だけだった。

 

 「ラ、ラビシュく」

 「てめぇ!!」

 

 重く沈んだラビシュへ声をかけようとクラウが手を伸ばしたときだった。辺りいっぱいに響くかのような怒声が鳴った。

 「なに?」「なんだ?」

 「ぐへぁ!」

 

 ラビシュたちの疑問に重なって、子どもがひとり道へ引き倒された。

 

 「このくそガキがっ! 俺の店からちょろまかそうとはいい度胸だ!」

 「ち、スラムのガキどもか。ここ最近物がなくなると思ってたら、あいつらの仕業か」「薄汚いガキどもが……」

 

 ひとりの大男が少年を組み伏せ罵倒する。ラビシュよりも幼い男の子だった。その横で、往来を行く人や店主たちが、口々に罵りながらその様を眺めていた。

 

 「ラビシュくん。行こう」

 

 言って、クラウがラビシュの手を引いた。引く先は、騒ぎの中央ではもちろんない。ただ立ち去ることを目的とした誘いだった。

 クラウもこの街で面倒ごとに巻き込まれることがどのような結果をもたらすかを知っているのだ。クラウの誘いは、この街では当たり前の反応だった。

 

 ―――俺と同じ。俺と同じだ。


 クラウに手を引かれながら、ラビシュは思い出していた。

 空腹に耐えかねて盗みを働き、捕まった。もう何年も前のように錯覚してしまう。そんなおぼろな過去。だが、決して忘れられない過去だった。


  ―――あのとき、俺は……。

 

 「このくそっ!! くそくそくそっガキがッ!」

 「ぎ、ぎゃっ! ご、ご、ごめっ!」

 

 取り押さえていた男が少年の髪を乱暴に掴んで、道路へと打ちつける。謝罪する声は揺れ、言葉をなさない。見るからにやりすぎで、痛々しい光景だ。だが、このクソッタレな街に『子どもだから』という免罪符は存在しない。悪はどこまでも悪であり、盗みは等しく罰せられる。許されるのは金と力を持つ者だけだ。

 

 「おい、あんた」

 

 気づけば、ラビシュはクラウの手を離して、そう声をかけていた。

 

 「ああっ! なんだっ!」

 

 打ちつけることを止め、男は荒々しくラビシュに応じた。

 

 「まだ、子どもだ。それくらいで許してやれないのか」

 「はぁあ? おいおい、お前はどこの聖人のガキだ? こいつらは俺の店のものを盗んだんだ。俺がどうしようと俺の勝手だろう?」

 男の言葉は、このクソッタレな街では正論だ。それは、貧民街で育ったラビシュも知っていた。

 「だが、それ以上やれば死んでしまう」

 「は、だからなんだ。死んじまう? いいじゃねぇか。こんなゴミ死んじまえばいい」

 

 男はラビシュの言葉を嘲笑した。男の言葉に合わせて、周囲の取り巻きも失笑した。『どこの世間知らずだ』という嘲りの言葉が、耳をつく。

 反論したい気持ちを抑え、ラビシュは身をかがめ、少年の割れた額から流れる血を拭った。

 

 「……う、うう」

 

 傷ついてはいたが、命の別はなさそうだった。ラビシュは安堵した。

 

 「ら、ラビシュくん。なにやってるの」

 

 後ろから後れてやってきたクラウの疑問が聞こえた。ラビシュは振り返ることもなく立ち上がり、大男を見上げ、言った。

 

 「こいつが盗んだ商品は俺が弁償する。それで許してはくれないか?」

 

 ラビシュはこのクソッタレな街でなにが必要か、すでに理解していた。倫理や道徳ではなく、実際的な利益がこの街ではもっとも重要視される。ラーズの下で学んだことだった。

 

 「は、やだね。そんなもので許せるかよ」

 

 大男は口の端をゆがめたまま、そう応じた。だが、その目はラビシュをつま先からなめまわすように検分している。交渉に応じる商人の目、値を見定める目だった。

 

 「いくらだ。いくら払えばいい」

 「は、おいおい。こいつぁ、とんだクソボーズだな。金でなんでも解決できると思っていやがる。勘違いすんなよ。俺は金が欲しいわけじゃねぇ」

 

 さらに笑みを深め、男はラビシュの申し出を拒絶した。大仰に手を振って、聴衆へと呼びかけるその様を見る限り、ラビシュに金などないと思っているのだろう。

 ラビシュの格好はお世辞にも金持ちには見えはしない。貧しくはないが、裕福でもない。その上、子どもだ。おそらく男はラビシュが金を持っていないと判断したのだろう。

 

 「いいか? 俺は、腹の底から、貧民街の子ども(こいつら)が嫌いなんだ。お前が金を払えば、こいつは感謝するだろう。いまは。いま、だけはな! 明日にはのほほんとこいつはまた盗みをやらかしやがる。だから、体に教え込んでやるのさ。盗みを働いた奴がどうなるか、それを教え込んでやらなきゃ、こいつらは改心しねぇ。どうだ、正しいのは、俺かお前か。どっちだ」

 

 大男は目を剥いてラビシュに脅しかける。男の方針は、盗みを働いた少年を自分の判断に処すことに決したようだ。ラビシュに売るよりも、自分で裁いた方が益になると判断したのだろう。

 

 「もう、絶対に盗みをさせはしない。それなら文句はないだろう?」

 

 だが、ラビシュは踏みとどまった。すでに少年を見捨てるという選択肢は頭になかった。

 

 「は? お前、頭おかしいのか? それをどうやって証明する? 仮にこいつらが盗みをしたら、お前どうするよ?」

 「どうもしない。もう盗みはさせない」

 

 嘲弄する男を見据えながら、ラビシュはただそれだけ口にした。方法は分からないが、どうにかしてそうするつもりだった。

 

 「はぁ? バカだ。こいつ、バカだわ。どけよ。さもなきゃ、お前も同じ目にあわせるぜ」

 

 失笑を漏らす聴衆をさも困り果てたように見ながら、大男はひとつため息をつき言った。すでに問答などする気などなくなったのだろう。ラビシュの首根っこを掴み、威嚇する。

 

 「ラビシュくんっ!!」

 

 「ったく。なんだよ。この面倒な状況は……」

 

 男がラビシュを害しようと拳を上げたときだった。赤い髪をなびかせ、ひとりの女が聴衆をかき分けてやってきた。

 

 「シャーリ、エストー」

 「不可視の稲妻(ライトニング)だ……」

 

 シャーリを見た聴衆たちから驚きとともに、声が上がる。

 

 「まったく……。どうなってんだよ。おい、おっさん。ラビシュから手を離せ」

 

 シャーリはそんな注目などどこ吹く風で、そう言った。視線のさきにはもちろん、大男とラビシュの姿がある。

 

 「ラビシュ?」

 

 大男が疑問する。流石にシャーリのことを知っているのだろう。動揺しているのが見て取れた。

 

 「そいつだ、そいつ。あんたが掴んでるそのガキだよ。オレはそいつに用があるんだ」

 「不可視の稲妻(シャーリ・エストー)が、このガキに用?」

 

 自身の掴むラビシュと指差すシャーリを交互に見ながら、男は疑問する。

 『なぜ、シャーリがこんなガキのことを?』という疑問が見て取れる顔をしていた。

 

 「そうだ。そいつラーズの部下だぞ」

 「ラーズさんの……。まじかよ」

 

 シャーリが続けて放った言葉に大男が唖然とした表情を浮かべ、ラビシュを見た。すでに掴んでいた手は離れていた。

 

 「あ、確かにどっかで見たことあると思ったんだよな」「あー、道理で」

 

 シャーリの言葉に影響され、周囲の人人がひとりごつ。ラーズの下働きとして、一年以上動き回っていたのだ。名前はべつとして、ラビシュの顔はそれなりには知られているようだった。

 

 「行くぞ。ラビシュ」

 「待て。まだ話は終ってない」

 

 シャーリの呼びかけにラビシュはそう言って応じた。

 まだ少年のことはなにも解決していなかった。

 

 「ああ? もう終ってるよ。なあ、おっさん。こいつはオレらが連れて行く。それでいいよな?」

 「え、ええ。もう、結構でございます」 


  少年を小脇に抱えたシャーリの言葉に、大男はそういって応じた。

 

 「は、ありがとうよ。ラーズにはよく伝えといてやるよ」

 「あ、ありがとうございます」

 

 ―――これじゃあ、ラーズに救われたみたいじゃないか……。

 

 シャーリにそう礼を言う大男を尻目に、そんなことを思いながら、ラビシュはその場を後にした。


 「ったく。面倒なことに首を突っ込んでんじゃねぇよ」


  通りを離れ、わき道に入ったところでそうシャーリが文句を言った。

 

 「……すまない。助かった」

 「あ、べつにいいよ。あんなのは別にな。オレが面倒だって言ってんのは、これからのことだよ」

 

 赤髪を気だるそうにかき上げながら、シャーリが言葉を継ぐ。その意味が分かりかねて、ラビシュは疑問した。これから、ということが何を意味するのか分からなかったのだ。

 

 「これから?」

 「なんだ、なにも考えてなかったのか?」

 

 意外そうにシャーリが言い、下ろした少年の頭へと手を置いた。少年はおそらく事態が飲み込めていないのだろう。ただ呆然とシャーリを見上げているだけだ。

 それもそうだろう。このクソッタレな街で、誰かに救われることなどほとんどないのだ。呆然とくらいはする。

 

 「どういうことだ?」

 「この子をどうするか。そういうことを聞いてるんだと思うよ」

 

 疑問するラビシュに答えたのはクラウだった。初対面のシャーリが居るからだろう。控えめな声だった。

 

 「どうするか……」

 「あー、その顔じゃまったく考えていなかったみたいだな。考えなしすぎるぜ」

 

 シャーリは呆れているようだった。

 ラビシュは言葉を失った。たしかに、少年を救ったあとのことはなにも考えていなかった。

 いや、そうではない。

 

 ―――あの場を助けさえすればいいと俺は思ってたんだ。

 

 「でも、ラビシュくんは」 

 「メスガキは黙ってろ。オレはいまラビシュと話してんだ」

 

 ラビシュを擁護しようとしたクラウへシャーリが痛烈な言葉を吐いた。クラウの方すら見ていない。最初から頭数にすら入れていないような態度だった。

 

 「メ、ッ! 失礼な、私はメスガキなんかじゃっ」

 「は、なに言ってやがる。そんな匂いさせやがって。……ひでぇ匂いだぜ?」

 

 シャーリに反論したクラウへ顔を近づけ、シャーリがひくりと鼻を動かし、言った。その顔は酷薄な笑みに歪んでいた。

 

 「っ!」

 

 瞬間、クラウが弾かれたようにシャーリから距離を取った。驚きと焦り、そして溢れる嫌悪がその顔には浮かんでいる。そんなクラウの顔を見たのは、初めてだった。

 

 「クラウ?」

 「私は、私だって、好きで……」

 

 ラビシュの呼びかけに応えることもなく、クラウは上衣の裾を握ってそう小さく言葉を継いだ。顔色は悪く、すこし震えているようにも見えた。

 

 「ラビシュ。聞かせろよ? アンタ、こいつをどうするつもりだった?」

 

 クラウの様子など気に留めることもなく、シャーリは疑問する。

 問いはラビシュへ向けてのものだった。

 

 「どうするって……。それは」

 「あのおっさんが言ったことは真実だ。どうせあの場を助けても、こいつはまた盗みをやるぜ。いや、次は誰かを殺すかもしれねぇ。生きるためにはそうするしかねぇからな」

 

 言いよどむラビシュを放って、シャーリは言葉を重ねた。

 そんなことはラビシュにも分かっていることだった。ラビシュも貧民街(スラム)で育ったのだ。誠実に生きたくとも、環境がそれを許さない。そんなことは分かりきっていることだった。

 

 ―――だが、俺は本当に分かっていたのか?

 

 目の前の少年を助けるということで生まれる責任というものを、本当に分かっていたのか。ラビシュは自問する。

 いまのラビシュでは、本当の意味でこの少年を救うことはできないだろう。少年を養う力も、導く力もいまのラビシュにはないのだ。それでは本当の意味で人は救えない。

 あの大男から救ったところで、ラビシュは少年を貧しさから救えるわけではないからだ。

 

 ―――だが、それでも。


 「でも、俺は目の前で傷つく誰かを放っておけない」


 ―――救えないからと言って、見過ごしていいものでもないだろう。


 「それがうす汚ねぇ自己満足でもか?」


 シャーリの言うように、眼前の少年を救おうとしたのはラビシュの自己満足だ。ラビシュもそれを知っている。

 だが、ラビシュはラーズに救われたのだ。

 ラーズはラビシュを救うつもりなどなかっただろう。事実、拾われてからの一年はクソッタレなことばかりだった。救われたなど、お世辞にも口にはしたくない。だが、それだけでなかったのも事実だ。

 なにより生きている。いま、ラビシュは生きているのだ。

 救うとか、自己満足だとか、利益だとか、そういうことよりも、生きているという事実がラビシュにとっては重要だった。


 「俺はラーズに救われた。ラーズはクソッタレだ。だが、俺はそのお陰で、いまも生きてここにいる」

 「ラーズは、べつに救うつもりはなかったと思うぜ」

 「そんなことは分かってる。でも、救われたのは事実だ」

 「だから、見過ごせねぇ、か? 呆れたお人よしだな。なるほど、ラーズが重宝するわけだ。騙しやすくて仕方がねぇ」


 いまだラビシュの顔を凝視したまま、シャーリが笑った。嘲りではない、べつのなにかを含んだ笑みだった。

 

 「護れる誰かを護れるなら、騙されるくらいなんでもない。俺は、そのために強くなったんだ」

 

 逸らすことなくシャーリを見据え、ラビシュは言った。

 そう思えるのも、あの時ラーズに拾われたからだ。いまなお、生き続けている故だった。生とは変転だ。時々刻々と変わり続ける。苦しくとも明日がそうとは限らない。生きていれば、なにかが変わるときもある。少なくとも、苦しみのなかで死ぬよりは数倍マシなはずなのだ。

 だからこそ、ラビシュは思う。

 救えるならば、救うべきなのだ、と。

 

 「……気にいらねぇ」

 

 短く、シャーリが言った。

 その目は言葉とは裏腹に、喜色に歪んでいるように見えた。一体なにがうれしいのか。それはラビシュには分からない。だが、シャーリのその表情が、ラビシュの甘い理想の拒絶ではないことだけは確かだった。

 

 「べつにアンタに気に入られようとは思ってない」

 「かわいくねぇなぁ」

 

 今度ははっきりとソレと分かる笑みを浮かべ、シャーリはラビシュの言葉を受け流した。

 

 「おい、チビ助。オレがいいところに連れて行ってやる。着いて来い」

 

 言って、シャーリが少年の手をとって歩き出した。

 

 「おい! どこに行くつもりだ」

 「あ? いいから、黙って着いて来い。着けば分かる」

 

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