そして、服従の鐘がなる⑫
「……ここは」
白い。ラビシュがひさしぶりに見た空は白い天井だった。
体を起こす。痛む箇所はどこにもない。折れたはずの腕は包帯が巻かれているが、それだけだ。副木もなく、動かせる。
「きし、起きたかイ? ずいぶん、長いお昼寝だったネ。らびっしゅクン」
読んでいた本を横へと置いてタリクが聞いた。
「……タリク?」
「マ、とりあえず飲みたまエ。二日も寝ていたのだからネ。ずいぶん喉が渇いているはずサ」
言って、タリクはコップを差し出した。受け取って口に含む。舌を転がる甘さが喉を通って全身へと沁みていく。
―――ああ、これは……。
クラウの父を処刑してから飲むことを禁じていたジュースだった。久方ぶりのジュースの甘さは以前と変わらない。極上だ。
「一応聞くけれど、痛みは残っていないだろウ? ボク様が治療したのだから、問題はないと思うけれど、こういうのは聞いてみなければ分からないことも多いからネ」
空になったコップへ今度は水を注ぎながら、タリクが聞いた。注がれたコップを脇へと置いて、ラビシュは全身を確かめた。
「いや、痛いところはないな」
「マ、そうだろうネ。ボク様は天才治癒師でもあるからネ」
「タリクが治してくれたのか」
半ば信じられない気持ちでラビシュは聞いた。先ほどからのやりとりで、タリクが治療してくれたのは明らかだったが、どうも信憑性が薄かった。いつものタリクの姿が、治癒師というイメージとかけ離れているからだろう。
「きし、そうなるネ。これでらびっしゅクンとぼく様はもう一歩関係をすすめてしまったわけサ。うれしいかイ?」
「いや、べつに。もともと大した関係じゃないだろう」
「チェ、らびっしゅクンはいけずだネ。まったくぼく様が怒りを抑えて、治療してあげたというのに、そういうことを言うのだから、まったく困ったものだヨ」
―――怒り? 俺、なにかタリクを怒らせるようなことをしたか……。
「あ」
―――剣……。
「シスッ!」
そこまで思いついてラビシュは跳ね起きた。
なぜ自分がここにいるのか。ラベルでなにがあったのかを思い出したからだ。
「うわっと! いきなりなんだイ? 驚いてしまうじゃないカ」
「シスは、シスは無事か? 黒獅子は! 俺は、なんでここに。どうなった!」
抗議するタリクの肩を掴んでラビシュは問うた。なぜそのことに思い至らなかったのか。ラビシュは最後に見たシスの姿を思い出す。
血に汚れ、片腕を失ったシスの姿だ。
「オヤオヤ。ようやく思い出したのかイ。とりあえず落ち着きたまえヨ。いったい何を聞きたいのか、分からないヨ」
「シスは!」
「シス氏はいま別の部屋で寝ているヨ。いまはまだ会えないけど生きているから、安心していいヨ」
「そう、か……」
―――生きてる……。
全身から力が抜けるのをラビシュは感じた。
―――でも、腕は……。
安心はしたが、それだけだ。ラビシュの記憶のなかのシスはすでに片腕を失っていた。ラビシュが失わせたのだ。その後がどうなったかは知らないが、それだけはたしかなことだった。
「タリク。シスは」
ラビシュがシスの詳しい容態を確認しようとしたときだった。
「お、なんだ。目覚めたのか、赤獅子」
扉を開けて、ひとりの女が入ってくる。
「不可視の稲妻……」
言いながら、ラビシュは困惑した。自分のもとにシャーリがやってくる理由が思い当たらなかったからだ。だが、そんなラビシュの困惑など気にもせず、シャーリは背後にいる人物へと声をかけた。
「おい、ラーズ。赤獅子のやつ、目覚めてやがるぞ」
「お、本当だ。ふふーふ。おはよう、ラビシュ。いい夢は見れたかい?」
シャーリに続いてラーズが部屋へと入ってきた。なんの感情も感じさせない相変わらずの薄笑いだ。
―――シスが、怪我をしてもそうなんだな……。
ラビシュは落胆した。自分よりはるかに長い付き合いのシスであれば、もっと特別な感情があるはずだと信じていたのだ。
「ラーズ」
「面倒をかけたね、ペイズリー。あらためて礼を言うよ」
ラーズはラビシュの言葉を無視して、タリクへと声をかけた。それは、面倒をかけたら礼を言うという当たり前のこういではあったが、ラビシュには自分よりもタリクの方が優先させているように感じられて、すこし不快だった。
「きしし、ぼく様とキミの仲だ。礼など不要サ。それよりも……」
「ふふー、分かっているさ。ラベルの特別席を用意しよう」
「きしし、それならばよいのサ。それでは、らびっしゅクンお大事にするのだヨ。ぼく様印の剣をダメにしたお説教はまた今度にシヨウ」
ラーズの返礼に満足そうにうなづいて、タリクが椅子から跳ね降りた。腰に分厚い本を抱え、出口へ向って歩いていく。治療というよりも、ラーズたちの代りにラビシュを見ていただけらしい。用が終れば去っていく。じつにタリクらしい行為だった。
「ラーズ。オレはチビを送って行く。その後は自由でいいだろう?」
シャーリが親しげにラーズに言って、タリクのあとを追っていく。それがあまりに自然で、ラビシュは不思議を覚えた。まるで、シャーリがラーズの部下になったように思えたのだ。
「ああ、構わないよ。そうしてくれ」
答えるラーズの返しも実に自然だ。少なくとも、ぺデットと云う飼い主のいるシャーリに対する対応にはとても思えなかった。以前は、もう少し他人行儀だったはずだ。
「じゃあな、赤獅子。これからよろしく頼む」
出掛けに振り返って、シャーリが言った。
「……これから、よろしく頼む?」
颯爽と去っていくシャーリを見ながら、ラビシュは疑問を口にした。
―――どういうことだ? あれじゃあ、まるで……。
「ラビシュ。そのこととも関係があるけれど、ぼくはキミにひとつ謝罪をしなければいけない」
疑問するラビシュを余所にラーズがそんなことをのたまった。
「謝罪? あんたがか?」
呆れたような半眼で、ラビシュはラーズを見上げた。ラーズが謝罪など、あまりに馬鹿馬鹿しすぎて冗談にもなりはしない。
「おいおい、そんな疑わしそうな目で見てくれるな。ぼくだって、自分に落ち度があれば謝るくらいのことはできる」
「そうかよ。それは初耳だ」
ラビシュはまともに取り合わない。今までが今までだ。信じるにはあまりに信頼が足りな過ぎた。
「それはそうだろう。言う機会などなかったからね」
笑いながら、ラーズは椅子へと腰掛ける。足を組んだその様は、とてもこれから謝罪しようという人間の態度には見えなかった。
「ま、冗談はいいとして、黒獅子のことだ。あいつが突然暴走したのは、全面的にぼくが悪い。それでキミを危険にさらしてしまった。申し訳なく思っている」
変わらず疑わしい目で見るラビシュを放って、ラーズは謝罪の言葉を口にした。以前、足は組んだままだ。
だが、そんなことよりも聞き捨てならないことがあった。
「……あんたが悪いって、どういうことだ?」
自然、声に険がのる。
ラーズが視線を外し、俯くようにして話し出す。もう、足は組まれてはいなかった。
「黒獅子を選んだのはシャーリの元飼い主だったぺデット・ディーンという男だ。キミも見たことがあるから分かるかもしれないが、ぺデットとぼくはすこぶる仲が悪くてね。黒獅子が暴走するように、細工をしていた可能性が高い。事実、彼が墓場草の蜜を購入していることが判明した。あ、墓場草というのはだね、魔物を凶暴化させる効用があるのだよ」
「それで?」
「それで、とはどういうことだい?」
顔を上げて、ラーズが問う。その顔は笑っていなかった。
「あんたの言葉を信じれば、黒獅子が暴走したのはあのぺデットっていうおっさんのせいなんだろう? なのに、どうしてあんたが謝る」
「それはもちろん、ぼくが悪いからさ。第一に、たしかに暴走させたのはぺデットだが、ぺデットがそうするくらいの恨みを買ったのは、このぼくだ。ぺデットに動機を与えてしまった。第二に、ぼくはぺデットを信じてしまった。ぺデットが選ぶことを知っていたのに、ぼくはぺデットならば信頼できると信じてしまったのだ。本来なら、ぼくは確認しなければいけなかった。それなのに、それをしなかったのは明らかにぼくの落ち度だ。だから……」
「あんたが悪いってことか?」
ラーズの言葉を遮り、ラビシュは聞いた。その声音にはまだ幾分の険を残していた。
「ふふー、その通りだ。ぺデットは関係ない。今度のことはぼくがしっかりしていれば、防げたことだった。だから、ぼくはキミに謝るべきなのだよ」
力なくラーズが笑う。いつもは鼻につく独特の笑い声も、どこか元気がない。
反省している、ということなのだろうか。
「そうか。……あんたでも失敗することがあるんだな」
納得はしていない。だが、謝罪する人間に向かってきつく当たれる人間ではラビシュはなかった。
「ぼくだって人間だ。失敗くらい山ほどするさ」
「……」
困ったように言うラーズを見ながら、ラビシュは複雑だった。ラーズと失敗という言葉は大きくかけ離れていたように思えたからだ。
「それでだね、ラビシュ」
「なんだ?」
「罪滅ぼしというわけではないが、壊れてしまったキミの武具はすべてぼくが弁償しよう」
「………あんた、ほんとうにラーズか?」
胡乱げな目でラビシュはラーズを見た。守銭奴のラーズが、たとえ自分に責があると思っても、金を払うとはとても思えなかったのだ。
「……これは手厳しい。それくらいぼくも今回のことでは責任を感じているということさ。それと、これもお詫びと思ってもらって構わないのだが、いままで結んでいた契約を破棄しようと思うのだが、どうだろう?」
「はぁ?」
あまりのことにたまりかねて、ラビシュは間抜けた声を出した。
「……ちょっと、待て。それは」
「つまり、キミとぼくとの賃借関係は終了。キミは晴れて自由の身というわけだ」
上ずるラビシュの問いかけに軽く頷いてラーズが肯定した。
―――自由の身? 俺が? ウソだろう?
「ど、どういうことだ?」
「簡単に言えば、ここまで払ってもらった金貨三六七枚で手を打とうというのさ」
動揺するラビシュにも構わず、ラーズは言葉を続けた。
「ウソだろう? なにをたくらんでる」
呆然とラビシュはそう言った。夢だと言われても、信じられなかった。
だが、ラーズは本気のようだ。大きく嘆息して、言葉を継いだ。
「流石のぼくだって、そろそろ傷つきそうだよ、ラビシュ。ぼくはほんとうにキミを解放しようというのだ。元よりあと二回でキミは自由の身だ。それがすこし早くなるだけだ。うれしくはないのかい?」
「いや、それは、もちろんうれしいけど……」
「まあ、キミが信じきれないのも無理はない。だから、これを持ってきた」
ラーズが懐から丸めた一枚の紙を取り出した。丸められたそれにラビシュは見覚えがあった。
「……それは」
楔の連なる神聖文字が並ぶ紙の下には、たしかにラーズの名とラビシュの血判がある。ラーズと契約したときに書いた契約書に間違いなかった。
「そうだ。キミとぼくで結んだ契約書だ」
言って、ラーズが契約書をふたつに裂いた。裂けた契約書は無効となる。つまり、ほんとうにラーズはラビシュとの契約を破棄したのだ。
「これで信じてもらえるかい?」
破った契約書をラビシュへ手渡しながら、ラーズが問う。
「……これで、俺は自由なのか」
受け取った契約書を握りながら、ぽつりとラビシュは呟いた。
「ああ、そうなる。なんだか、うれしくなさそうだね」
「いや、あまりのことに、なんか実感がないんだ……」
いまだ破れた紙を見つめたまま、ラビシュは言った。偽ることのない本心だった。
「そうか。終わりというのは、まあ、そんなものなのかも知れないな。ぼくが言うのはおかしいが、元気にやってくれ。短い間だったが、なかなか面白かったよ」
すでにラーズのなかではラビシュと別れることは決定事項のようだった。哀しいわけではもちろんなかった。だが、解放されるのだという安堵とともにどこかに虚しさがあった。
「ラーズはこれからどうするんだ?」
考える間もなく、そんな言葉が口をついていた。
「どうするって?」
ラーズが意外そうな顔で問い返した。それもそうだろう。ラーズとすれば、ラビシュが解放されることを躊躇うなど不思議で仕方ないはずだ。
意外に思ったのはラビシュもだ。望み続けた解放の瞬間だったはずだ。これでクソッタレなすべてから解放され、ラビシュは自由を手に入れるのだ。
「いや、ラベルは……」
―――なのに、なぜ、俺はこんなことを気にかける。
「ああ。それは問題ない。飼い主のいなくなった稲妻を拾ったからね。キミとは違って、彼女は闘うことが好きなようだから問題ないよ。正直、闘いを嫌い、年端もいかないキミを使うことはすこし抵抗があったんだ。キミもずいぶん金は稼いだろう? 黒獅子とのファイトマネーは結構色をつけたとも言っていたしね。治癒師への代金も今回はぼく持ちだ。この家も、一月くらいは自由に使って構わない。もちろん、キミさえよければぼくのところで働いてくれても構わない。歓迎しよう」
ラーズが言い、席を立つ。
シャーリがさきほどラビシュに『よろしく』と言ったのは、そういうことだろう。ぺデットがつかまったのだ。シャーリは新たな主としてラーズを選んだのだ。
―――それで、俺はもういらないってことか。
もちろん、それだけではないのだろう。だが、代わりを手に入れたこととラーズがラビシュを手放すことが無関係だとは思えなかった。
「……とりあえず、いまはなんだかよく分からない。もうすこし落ち着いてから考えるよ」
喜ぶべきなのだろう。これでもうラビシュは誰も殺さなくてすむのだ。金もある。少なくとも今すぐ放逐されたとしても、かつてのスラム暮らしに戻るような心配はあまりなかった。
―――なのに、俺は……。
突然のことで理解できていないだけのことだ。ラビシュはとりあず、そう考えた。
「ふふーふ。それがいい。あんまり焦るとどこかの悪徳商人に騙されることがあるからね」
冗談めかしてラーズが笑った。いままでの作った笑いとはすこし違って見えた。
「張本人が何言ってんだか」
つられてラビシュも笑う。
「ふふーふ。ぼくは金に対しては誠実な男だ。それだけは信用してくれて構わない」
「言ってろ」
渇いた笑いで、ラビシュは応じた。
「ふふー、それではまた、近いうちにくるよ。弁償など払わねばならないからね。まあ、それまでは休んでおいてくれ給え」
「ああ、そうするよ」
ぷらぷらと適当に手を振って、ラビシュは出て行くラーズを見送った。
ラーズの姿が開いた扉の奥へ消えようとするとき、思わずラビシュはラーズを呼び止めた。
「ラーズ」
「ん? なんだい、ラビシュ。言い忘れたことでもあるのかい?」
呼び止められ、ラーズが顔だけ扉から覗かせた。すでに顔はいつも通りの薄ら笑いになっている。
―――俺は、もう要らないのか。
喉まで出かかった馬鹿な質問を、ラビシュはすんでのところで飲み込んだ。聞くまでもない。ラーズの答えなど決まっている。そのはずだ。
「―――いや、やっぱりなんでもない」
「そうかい? それでは元気で。また会おう」
言って、ラビシュを見ることもなく告げて、ラーズは扉を閉めた。
「ああ、またな……。ラーズ」
白い部屋に、ラビシュの呟きがかすかに鳴った。
それは解放の喜びとはほど遠いものだった。
評価なんて気にしないって言いたいけど、減ると哀しい。人間だもの。
やっぱり、あの回は不快だったのかなぁと思ったり……。
でも、まあ……、うん。がんばる。