そして、服従の鐘がなる⑪
◇
「まさか、こういう最後になるとはな。予想していたのか、ラーズ」
ローン・ジャイコフは多少の驚きをこめてラーズに問うた。だが、ラーズは答えない。ただ忙しそうに奴隷たちに指示を送っていた。
見れば、黒獅子を葬るなり倒れこんだ白銀翼を舞台から運び出しているようだった。
―――ほう。やつにもそういう一面があるか……。
白銀翼がラーズのパートナーであったことは知っていた。傍から見る限りにおいて、そこに特別な感情はないように思えたが、どうやら違ったようだ。
ローンはひとりほくそ笑んだ。ラーズのアキレス腱を見つけたような気になったのだ。
───すこし揺さぶってみるか。
「長い付き合いなのだろう。やはり、心配か?」
ラーズがひと段落つけて戻ってくるなり、ローンはそう言葉を継いだ。
「心配? ふふーふ、そうだね。すごく心配だ」
意外にもラーズの反応は素直だった。想像していなかった対応に、ローンはすこし面食らった。
「そうか。貴様にもそういう感情があるのだな」
「ふふーふ。おかしなことを聞く。ボクがお金の心配をするのはいつものことだろう?」
不思議そうにラーズは言い、椅子へ深く腰掛けた。収容したはずの白銀翼に会いに行くつもりなどさらさらさないようだった。
―――弱みを見せないための演技か?
ローンはそう疑ったが、どうもしっくりとはこない。ほんとうに心の底から心配などしていないように見えた。
―――これで演技であれば、たいした役者だ。
「金? それは一体なんのことだ」
「決まっているじゃないか。ラベルがひどい状況だ。ここまでの被害、果たしてぺデットの財産だけで払いきれるのか……。ぼくにまで支払いが回ってくるのかもと、ひどく心配だよ」
回答は金のことだった。たしかに結界まで破られたラベル・ワンの損傷は著しい。補修などより立て替えたほうが速いのではないかと思われるほどの壊れぶりだった。
その補修費の心配とは、如何にも守銭奴のラーズらしい心配ではある。だが、それではあまりにらし過ぎる。ラーズが言いそうであるだけに、本心を隠すためのウソなのか、それとも本心なのか、判断がつきかねた。
「……白銀翼は心配ではないのか?」
そう直接にローンは問うた。ラーズの本心がどこにあるのかが、見えなくなりつつあった。
「……? なぜ、ぼくがシスの心配をする」
問われる意味が分からないとでも言いたげに、ラーズが問い返す。心底不思議そうな顔をしている。
「貴様、なんとも思わなかったのか?」
「ふふーふ。ぼくをなんだと思っているのだ。ぼくだって人だぜ。感謝くらいはするさ」
心外だとでも言うようにラーズは言う。だが、ローンには分からなかった。
―――感謝だと? なぜ、心配ではなく感謝する……。
「感謝?」
「ああ、シスはよくやってくれたからね。これでわざわざラビシュを殺す必要もなくなったし、すばらしい宣伝にもなった。ふふー、実際思っても見なかった結果になったよ。ほんとう、よくよくラビシュはぼくを儲けさせる」
感極まったようにラーズは早口にそう言った。
――― 一体、どういうことだ?
ローンは黙り、思考する。ふと、外がやけに騒がしいことに気がついた。
聞けば、観衆たちの熱狂の声だった。口々に赤獅子のことを褒め称えているようだった。
―――なぜ、赤獅子を賞賛する? 倒したのは、白銀翼ではないか。
「まさか……」
ローンは言葉を呑んで、ラーズを見た。
「ふふーふ」
変わらずウソくさい笑みだ。だが、その顔を見てローンはすべてを理解した。
―――たしかにそれならば、ラーズは白銀翼に感謝するだろう。
だが、とローンは考える。それは通常の人間の精神では有り得ない。分かっているつもりではあった。自分が重宝するこの商人が、一般人と異なる感覚を持つことは理解していたつもりだった。だが、ここに至って、その理解が浅かったことをローンは認めざるを得なかった。
「……分かっていたのか? こうなることを」
「ふふー、可能性は高いと思っていた。それに失敗してもべつに構わなかったからね。そのときは将来の災いとなるラビシュが死ぬだけだ。それはそれでいい」
―――ウソだな。
確信していたのだ。間違いなく、ラーズは確信していたに違いない。赤獅子が命の危機となれば、白銀翼が自身を省みることなく救いに出ることを知っていたはずだ。
これで赤獅子はラーズに逆らえない。赤獅子はラーズではないのだ。自分のために傷ついた白銀翼を見捨てて自由になることなどできはしまい。
見事、外れかかった首輪を再度獅子へとかけたのだ。
この戦いを経て、赤獅子の人気は不動のものとなるだろう。暴走した魔物を倒したのは赤獅子だと人々は理解する。
―――だからこその迅速な行動か。
白銀翼が黒獅子を倒すなり、ラーズは奴隷を用いて白銀翼を運び出させた。恐慌に落ちた観衆の多くは、白銀翼が倒したことを見ていないだろう。ラビシュが倒れたことも見ていない。
混乱より戻り、舞台を見れば命尽きた黒獅子と倒れている赤獅子がいる。答えは火を見るよりも明らかだ。黒獅子を倒したのは、赤獅子ということになる。
―――あの、速度。確実にラーズは前もってこの展開を読んでいた。関わった奴隷は、いまごろみな死んでいるだろう。
事実は、すべて闇のなかというわけだ。
「その様子ならば、あとのこともすべて用意は出来ているのだろう」
ここまで見越して用意していたのだ。そのラーズが、魔物暴走の首謀者であるぺデットを逃がすはずがない。ぺデットの財産目録から、商店の引継ぎ、罪状、処刑法まですべて用意できているに違いなかった。
「ふふーふ。命じてもらえれば、すぐにでも」
「そうか。すべて任せる」
笑うラーズに、ローンは無表情で言葉を返した。
―――やはり、こいつは危険だ。
すでに頭のなかにぺデットのことなどない。この狂った商人を今後どのように御していくか。それだけがあった。
「ふふーふ、承知した。ところで、なにか伝えることはあるかい?」
「あるわけなかろう。私は無能が嫌いだ」
「ふふーふ。わかった。そう伝えよう。それでは行くよ。あんまり待たせるのも悪いからね」
言って、ラーズが席を立つ。向うのはぺデットのところだろう。どうなっているかは分からないが、ラーズのことだ。すでにぺデットは警邏にでも拘束されているころだろう。
「……ラーズ。私は、無能が嫌いだが、同じく分をわきまえぬ者も好まんぞ」
通り過ぎていくラーズへ向けて、ローンはそう釘を指した。いまは、それが精一杯のけん制だった。
「ふふーふ。承知した。せいぜい気をつけるとしよう」
いつも通り、薄ら笑いを浮かべてラーズが応じる。
圧倒的に不快な顔だった。
◇
「チッ。変わらずすげぇ臭いだな、ここは」
鼻をつく悪臭に思わずシャーリは顔をしかめた。場所は、地下広場へと至る下水だ。街の各所から集められた排水の川は、さすがのシャーリにとっても不快だった。
「ふふー。なんだか、ご機嫌ななめだね」
変わらず作り笑いを浮かべてラーズが問う。
「アンタのせいだろうが。切り落とすぞ」
物騒な言葉が口をつく。シャーリはいま気が立っていた。理由など簡単だ。黒獅子と闘う機会を奪われたのだ。ほかならないラーズの部下、白銀翼の手によってだ。しかも、それがすべてラーズの計画によるのだから、いらいらするのも仕方ない。見事、シャーリはラーズの手のひらで踊らされたというわけだ。
「ダ、ダンナぁ」
地下広場へと降りてくるラーズの姿を認めるなり、トルク・ホーガンが駆け寄ってきた。いつのかのようにフードは被っていなかった。青黒い肌の醜貌がさらされ、シャーリはそれをまじまじと見返した。べつに特別な感情があったわけではない。ただ、ここまではっきりと見ることがはじめてで、つまりはもの珍しかったのだ。
「やあ、トルク。色々とご苦労だったね。お陰ですべてうまくいきそうだ。とても助かったよ」
応じるラーズに不快そうなそぶりはない。旧友に接するように、トルクへの感謝を口にした。
「そ、そんな……。もったいないお言葉でぇ」
恥じるようにトルクは応じた。
―――へぇ、完全に心許してやがる。一体、どんな魔法を使いやがったんだ。
感嘆をもってシャーリはそのやりとりを眺めていた。トルクのような人間が、だれかを信じるなどにわかに信じられなかった。だが、見る限りトルクはラーズを信じきっているようだった。
「それで、どこにいるのかな?」
「へぇ……。言われたように檻に入れときやしたが、よかったんで?」
案内をしながらトルクは心配そうにそう聞いた。トルクが心配するのも無理はないだろう。ここを訪れるなかではもっとも偉い部類に入っていた男だったのだ。
「いいさ。構わない。このぼくが保証する。彼はもう以前の彼ではないのだよ。なあ、シャーリ?」
「ん? なに言ってんだ。ハゲはどこまでいってもハゲだろ」
「ふふーふ。違いない」
「……?」
二人のかみ合わないやりとりをトルクは不安そうに聞いていた。だが、ふたたび問うことはしなかった。シャーリにはよく分からないが、トルクなりに空気を読んだのだろう。
「こ、ここでさぁ」
ひとつの箱檻の前でトルクは言った。
「これかよ。まるで家畜だな」
思わずシャーリはそう言った。目の前の檻は備えつけられた魔物用のものではない。獣を取るときに使われる中型の箱罠のそれだった。そのなかに、太った男がだらしなく倒れ伏している。かつての主、ぺデット・ディーン、その人だった。
「ふふーふ。なんだか、サーカスの見世物小屋みたいだね」
「ハゲが見世物になるかよ。いいとこ、奴隷商のぼろ檻ってところだろう」
「だ、ダンナぁ。空きがなくて、その……」
非難されていると取ったのか、トルクが言い訳らしき言葉を言葉を継いだ。
「ああ、べつに文句を言っているわけじゃない。奴隷よりもはるかに立派なハウスだよ、ここは。ぺデットもきっと喜ぶんじゃないのかなぁ」
ラーズがそんなことを言っていたときだった。檻のなかのぺデットが身じろいだ。覚醒したのだ。
◇
「う、……ここは」
―――どこだ。ここは。
眼を覚ますなり、ぺデットは疑問した。さきにいたラベルではない。薄暗く、不快なにおいの充満する場所だった。
「ふふーふ。やあ、よい夢は見れたかい? ぺデット」
「……ラーズ」
薄暗い空間に三つの橙の灯りがあった。そのひとつに不快な顔を見つけてぺデットは嘆息した。
「いったい、なんの冗談だ。ここはどこだ。どうなっている」
続けざまにぺデットは問うた。このような状況で騒がないのは、ぺデットの肝が据わっているのではない。分かっていないのだ。ぺデットにはいまの自分の状況が、わかっていなかった。
「おいおい、そんなに質問されては困ってしまうよ」
言いながら笑うラーズに不快を覚えて、思わず伸ばした手がなにかにぶつかった。見れば、目の前には幾本もの鉄の棒が並んでいた。
―――これは……。
「……檻? 檻ではないか。おい、ラーズッ! これは一体どういうことだっ!!」
自分の入っているものの正体にようやく気がつき、ぺデットは罵った。
「うるさいぞ、ハゲ。まったく最後くらい静かにできないのかよ」
「お、おおっ! シャーリッ。なにをやっている。私をここから出せ」
聞きなれた声を聞き、ぺデットは喜んだ。なにがどうなっているのか分からないが、シャーリがいれば問題ない。そう思えたのだ。
「それは……」
シャーリが意味深に言葉を切って、ラーズを見た。
「ダメだぜ。キミはそこで死ぬんだ」
「だそうだ。残念だったな。ここでお別れってことだ」
視線をぺデットへと戻し、シャーリが言った。いつもと変わらないシャーリの声だが、なにを言っているのかがぺデットには理解できなかった。
「な、なにを……。なにを言っとるんだ。シャーリ」
「アンタとはここでお別れってことだ。ぺデット。恵んでもらったメシ代くらいは返しただろう?」
冷然とこちらを見下ろすシャーリを見て、ぺデットは見限られたことを理解した。だが、その事実は理解できても心情として理解できるものではなかった。
「な、なぜだ……。シャーリ。なぜ、私を裏切る」
「つまんねぇからだよ。ラーズのほうがオレを満足させてくれる。そう思った」
「つまらない……。そんな理由で、裏切るのか」
放心したようにぺデットは言葉を継いだ。まさか、つまらないという理由で捨てられるとは思っていなかったのだろう。
「アンタにはそんな理由でも、オレにとっては重要だ。オレは楽しみたいんだよ」
「な、ならば、楽しませるよう努力しよう。た、たしかに厳しく接しすぎていたかもしれん。これからは改め、できるだけシャーリの意向を優先しよう」
「それは無理だと思うよ。もうキミはすべてを失ったのだから」
シャーリへとすがりつくぺデットをよそにラーズは淡々とそう告げた。
「冗談も大概にしろ、ラーズッ!!」
もうなにがなんだか分からず、ぺデットは声を荒げた。
―――どういうことだ。どういうことだ?
状況把握が追いつかない。だが、じくじくと悪い予感がぺデットを侵食しつつあった。
「ふふーふ。べつに冗談ではないのだぜ、ぺデットくん。キミはあろうことか、ぼくの赤獅子と闘う魔物に細工をした。分からないと思ったのかも知れないが、もうネタは上がっている」
揚々とラーズが言葉をつむぐ。その顔はいつも通りの作った笑いだ。
「は? ……まて。ちょっとまて。一体貴様なにを言っているのだ?」
ぺデットは困惑した。
―――赤獅子と闘う魔物に細工……。
脳裏には暴走、黒獅子、魔物、赤獅子という文字がそれぞれ浮かぶ。だが、それらが結びつくことはない。正直、なにを言われているのかまったく分からなかった。
「ふふー。ああ、すまない。分かりづらかったか。つまり、キミはもう終わり、ということだ」
瞬間、すべてのことがひとつにつながった。いま、自分が檻に入れられている理由。シャーリが裏切る理由……。そして、さきのラーズの言葉だ。魔物に細工をした。つまり、ぺデットがラーズを貶めようとして、赤獅子の戦う魔物を暴走させたということだ。与えられた情報と自分の現状を思えば答えはひとつしかない。
―――嵌められたのだ。
「……ラァアアズゥウ」
自分からこんな声がでるのか思うほどに憎しみに溢れた声が喉をつく。
「ふふーふ。そんなにぼくを恨むなよ。ローン閣下も言ってたぜ。無能なことが悪いんだ。憎むなら、自分の無能を憎みなよ」
「ラァアアズウッ!! ラーズッ、ラーズッ!! ラーーズゥ!!!」
怒りに任せてぺデットは喚いた。
―――殺してやるっ!! 殺してやる!!
頭は怒りに染め抜かれ、倫理などひとつもない。自身のそこからせり上がる憎悪そのままにぺデットはラーズを呪う言葉を吐き続けた。
「黙れってんだっ!! この犯罪者がっ!」
「ぐぅっ!」
横合いから棒でみぞおちを突かれ、ぺデットは呻きをあげた。
「ダンナに文句を言うなんて、なんてなめぇきなやつだッ! 立場っつうもんをわきまえろぃ!!」
「ぐっ。き、きさまっ」
痛さに呻きながらも、ぺデットは自身を打ったトルクをねめつけた。
―――この、穢れた種族がっ!!
「なんでぃ! その眼は」
叫び、トルクがぺデットを打つ。
屈辱だった。奴隷と同じような檻に入れられ、こうして蔑んだ者に打たれるのだ。屈辱以外のなにものでもなかった。
「こ、殺せ……」
ぺデットはそう言ってラーズを睨んだ。ぺデットがここにいるということは、すでにローンにも見限られたのだ。助かる見込みなどすでにない。財産もなく、シャーリにも裏切られた。商会も、商人免許もすでにぺデットのものではなくなっているのだろう。文字通り、すべてを失った。
この上辱められながら生きるくらいならば、死んだ方がマシだった。
「へぇ……。キミはそういう選択をするのか」
心底面白そうにラーズは笑った。
敵として長い間ラーズを見てきたが、その顔ははじめて見る類のものだった。
「でも、お断りだ」
「なぜだ。もう私は意味がない。そうだろう」
「ぼくはね、ぺデット。結構キミのことが好きだったのだぜ。商売敵ではあったが、その実認めてはいたのだ。そのキミを殺すことなんて、ぼくにはとてもではないができない。だから、ぼくは考えた。キミを生かす方法をね」
飄々とそんなことを言ってのける。こんな男だからこそ、ぺデットはラーズが心底嫌いだった。
「なにを言っている! 貴様が、そんな殊勝な人間かっ!! 殺せ、ラーズ! 私はテレサのもとへと行くのだ」
「テレサ?」
「魔物に殺された、ハゲの妻の名前だ」
ラーズの疑問にシャーリが答える。そのやりとりを聞きながら、ぺデットが大声で哄笑した。
「は、あっははははは。阿呆がっ! 死は私にとって救いのひとつだ。妻を殺され、両親を殺された! その私が、死ぬことを恐れるなどとほんとうに思っていたのか! 望み続けていたのだ。私は死にたくてたまらなかった!! ざまぁみろ! ラーズ。私は決して貴様の思い通りには死なんぞ! 私は笑って死んでやる」
言ったことのすべてが本心ではない。だが、妻たちを失ってから心につねに空虚を感じていたこともまた事実だった。
「ふふーふ……」
「はっ! どうだ、悔しいかラーズ! 私は貴様に殺されるのではなく、自分の意思で死ぬのだ!!」
最後の意地を見せ、ぺデットはラーズを嘲った。趣味の悪いラーズのことだ。ぺデットが泣いて命乞いでもすると思っていたのだろう。
舌を大きく出し、歯に力を入れる。
―――ラーズの手にかかってなど死ぬものか。自死だけがぺデットに残されたたったひとつの反抗のすべだった。は、ざまあみろ! 私は貴様の思い通りになどならん!
ぺデットは勝ち誇った。死の間際といえ、ラーズの思い通りにならぬことがたまらなく愉快だった。
だが、その愉快も続かない。応えたラーズの言葉に、ぺデットは戦慄させられた。
「ふふー。ああ、死んでくれたまえよ。死んで、キミが世界で一番嫌う魔物になるといい」
「……な、なにを……」
心臓が早鐘を打つ音が体から響く。吐き気を催すほどの悪寒が腹の底からじくじくとせり上がってくるのをぺデットは感じていた。
―――魔物に、なる? この私がか……。聞き違いだろう。いや、聞き違いであってくれ。
だが、ぺデットの願いとは逆にラーズは、現実を突きつける。ぺデットにとって死ぬよりも、ラーズに肯うよりも吐き気を催す最悪の事態だ。
「知らないわけではないだろう? この世界、正しく埋葬されぬものは魔物となる。ぼくがなんの価値もない人間のために葬式などすると思うか?」
「ま、まて……。ラーズ」
震える声でぺデットは言葉を継いだ。ウソだと言って欲しかった。
「死んだキミはやがて魔物となる。構わないさ。むしろ、大歓迎だ。魔物になったキミをぼくは売ろう。魔物になったキミはラベルで誰かに殺されるのだ。観衆の呪いの言葉を一身に受けて、キミは死ぬ。それでよければ、自由に死んでくれて構わない。せめてもの弔いだ。キミが死んだら、ぼくは言おうじゃないか。『悔しい。ぼくの負けだ。ぺデット』と」
―――悪魔だ。
ぺデットは言葉を呑んで、ラーズを見上げた。いまだけはラーズに対する憎しみも怒りもない。ただ自分とはあまりに異なる生物への戦慄があるだけだ。
自分と同じ人の形をしたナニカが、たまらなく恐ろしかった。
「ふふーふ。それで満足なのだろう。ぺデット?」
念を押すように、ラーズが問う。その顔はすでに勝ち誇っている。
「あ、ああ……。この、悪魔め。わたしは、わたしは……。死んでも救われないというのか」
力なくぺデットは言った。もう、反抗する気も、罵る気もできなかった。
「ふふーふ。やだな。ぼくは無駄を嫌う典型的な商人なだけだぜ。売れるものは魂すらも売りさばく。それが、ぼくら商人というものだろう」
―――それは、商人という名の別のナニカだ。すくなくとも人ではない。
「……」
「ふふーふ。さて、商談をはじめよう。ぼくはキミに救われる死を売ろう。キミは対価になにを出す?」
「……決まっている。私の差し出せるものは、この死にいく体だけだ」
「ふふーふ。よし、商談は成立だ。ぼくはキミを買い、しかるべき時にキミに死という救いを上げようじゃないか。それまでキミはここでぼくのために働いてくれまえ」
―――ああ、私は悪魔と契約してしまった。
ぺデットに残された道は己が不幸を嘆くことだけだった。
おそらく磨耗しきるまでこの薄汚い地下道に幽閉され、ラーズの手足となるのだ。毎日、毎日死を夢見ながら、けれど、死んだあとのことに怯え生き続けることになるのだ。それはなんという拷問だろう。
―――ああ、ほんとうに私は、悪魔と契約してしまった。
「……」
どうにでもない諦観を抱えたまま、ぺデットは頷いた。もはや、頷くことしかできなかった。