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作為と錯誤の海に、少年はその身を浸す ① ――約束――

 

 目を覚ますと、独特の臭気漂う小部屋に寝かされていた。

 鼻をつく独特の臭いには覚えがある。ポーションなどの薬品の臭いだった。

 

 「やあ、体の調子はどうだい?」

 

 男―――ラーズというらしい―――が軽やかな調子で声をかけてきた。その後ろには今日も無表情なシスがいる。

 ラビシュは応えず、ただ黙ってラーズを見上げた。すでに興奮はなく、ただまとわりつく倦怠がある。

 

 「ふふーふ。あまりよくはないみたいだね。まあ、でも聞いてくれ。君のこれからの話をしよう」

 

 変わらず気味の悪い薄ら笑いを浮かべ、ラーズは椅子に腰掛けた。その様を見て、ラビシュはひとつのことを思い出す。

 

 「そうだ、約束!」

 

 ベッドから身を乗り出して、ラビシュは叫んだ。

 

 ◇

 

 事は幾分前にさかのぼる。

 空腹から食べ物を盗んだラビシュは、店主に捕まり私刑(リンチ)にあっていた。

 

 「その子、ぼくに売ってくれないかな?」

 

 そこにいまと同じ薄ら笑いを浮かべたラーズが現れたのだ。

 この街では盗みは重罪だ。なにを盗もうが関係ない。その罰則は等しく無期限の強制労働―――つまりは死、だ。

 捕まった時点でラビシュに権利はない。犯罪人であるラビシュを生かすも殺すも、被害者である店主の心次第なのだ。

 たとえ、折檻が行き過ぎて死んでしまったとしても「ああ、すいません。やり過ぎました」の一言で済まされる。弱者などいくら死のうと構わない。ここはそんな街だった。

 

 「いくらだ?」

 いやらしい笑みを浮かべて、店主は聞いた。

 

 警邏(けいら)に突き出したところで金はもらえないのだ。売れるものなら売ったほうが数段いい。店主がそう考えたのは、貧民街に住むものとして当然だった。

 

 「これくらいでどうだい?」

 ラーズは指を二本ほど伸ばしてそう言った。

 

 「ほう、そんなに出すのか。いいぜ、売ろう」

 

 そんなふたりの短いやりとりを、ラビシュはただ黙って眺めていた。逃げることはできない。店主の太った足が、いまもラビシュの背に乗っているのだ。

 

 「ふふー、商談成立だ」

 

 ラーズはそう言って、二枚の銀貨を商人に向けて差し出した。銀貨一枚でパン二十。小麦の塊四十個がラビシュの値段と言うわけだ。

 ラーズは屈んで、ラビシュに問うた。

 

 「ふふ、君の名前はなんという?」

 

 ラビシュはただ困惑して、ラーズの顔を眺め見た。

 正直なところ、状況がよく分かっていなかった。まさか自分のために金を出す人間があろうとは思っていなかったのだ。

 

 「旦那が聞いてるだろう! 名前くらい言いやがれ!」

 「ふ、ぐっ!」

 

 店主がラビシュの背を強く踏みしめる。痛烈な衝撃がラビシュの体を走り抜け、肺から空気が出ていった。

 

 「……困るな。それは困る」

 

 ラーズがそう言った瞬間だった。

 

 「あぎゃああああっ!」

 一筋の甲高い悲鳴が響く。ラビシュの体に、ボトボトと生暖かいなにかが落ちてきた。

 

 「シス。それくらいで十分だ。殺す必要はない」

 「はい」

 

 ラビシュは赤いなにかで濁った顔を上げた。その先には細く長い太刀を拭うシスの姿がある。

 

 「あひゃぁあ。お、俺の手が、俺の、の」

 

 そんな無様な叫びとともに、ラビシュの上から店主の足がなくなった。ラビシュは体を起こし、そしてはじめてなにがどうなったのかを把握した。

 シスが店主の右手をざっくりと切り落としたのだ。

 

 ―――うわ。ってことは、これ血かっ!

 

 慌ててラビシュは自身の体を眺め見た。背は見えなかったが、じっとりとぬれているのが分かる。髪も顔も所々がぬれている。血液特有の鉄くささが不快だった。

 

 「困るんだよ。その子はもうぼくのものなんだ。君も商人の端くれとして知っているだろう? 売り物を傷つけることは許されない」

 

 未だ薄ら笑いを浮かべたまま、ラーズは嘯いた。

 商品に傷をつけたから、その分の対価を体で払ってもらった。簡単に言えば、そういうことだ。

 

 「う、ぁああ、ああっ!」

 

 店主は先の無くなった腕の切り口を必死に押さえたまま走り出した。早く治療しなければ、命が危ないと慌てたからだろう。

 店主のいなくなった途端、それまで遠巻きにうかがっていた連中が、店主の店に殺到した。店主のいないうちに、すべて跡形もなく盗まれてしまうだろう。ほんとうにクソッタレな街だ。

 

 「ふふーふ。子どもひとりに随分高くついた。商人失格だ」

 

 なんでもないように、ラーズは男を見送った。

 

 ―――俺は、助けられたのか?

 

 困惑したまま、ラビシュはそんなことを考えた。

 

 「うぅん? そんな顔でぼくを見てくれるな。ぼくは商人だぜ。無償で人を助けるなんて愚かなことはしないよ。

 ……だが、そうだな。そういうのも面白い」

 

 あごに手をあててラーズが黙る。その顔に薄ら笑いは浮かんでいなかった。

 

 「ひとつ、条件をあげよう」

 

 ふたたび薄ら笑いをはりつけてラーズは言った。なにを思っているのか、ラビシュにはその時分からなかった。だが、なにか悪い予感がぞくりと背筋を這いずった。

 

 そして、悪夢の幕が開く。

 

 「とりあえず生き残れ。話はそれからだ」

 

 ラーズがそう言ったのは街外れにある闘技場に着いたときだった。

 ゴード中央にある石造りの闘技場とは違う。幾十ものやぐらと高い柵で囲まれた簡便な闘技場だった。

 そこに連れて来られるやいなや、ラビシュの首に極圧の首が巻かれた。奴隷の証だ。

 

 「どういう……」

 

 ラビシュは思わず言葉を呑み込んだ。

 目の前にいるラーズの雰囲気が、先ほどまでと打って変わっていたからだ。冷ややかななんの感慨も抱かない真顔のラーズがそこにいた。

 

 「ザノバという男がいる。ここで十月も生きている剣奴だ。おそらく、あと二月もすれば闘技場で剣闘士になっているだろう」

 

 剣奴から剣闘士へ。それは男奴隷の夢見る、ほとんど唯一の転進の機会だ。そして、それを掴むことができるのは、ほんとうにひと握りだけだった。

 

 「ザノバと戦い生き残れ。そしたら君を無償で解放してあげよう」

 「待て、待ってくれ。それは」

 

 ――――死ねってことじゃないか?

 

 最後までラビシュは言葉を口にすることはできなかった。黙したままラビシュを見るラーズの視線のせいではない。

 自身の口から『死』という言葉が出ることは、なにかを確定させてしまう気がして、言いよどんだのだ。

 

 「ふふー、死ぬだろうね。まず間違いなく殺される」

 

 そんなラビシュの気持ちなど知らず、ラーズは楽しそうに嘯いた。

 

 「助かることは奇跡的だ。だが、ラビシュ。それは君がぼくから解放されるのと同じくらいないことなんだぜ? 長く続く苦しみと短い苦しみ。ぼくは考えた。君を真に救うものはいったいどちらだ?」

 

 ラーズの言っていることはラビシュもよく知っていた。苦しみながら生き抜く奴隷を、恍惚としながら死ぬ奴隷を、貧困街では幾度もいくども目にしていた。

 たしかに苦しむことしかできない奴隷より、死ぬほうがマシかもしれない。

 

 だが―――

 「生き残る機会をあげよう。なに、失敗しても死ぬだけさ。苦しまずに死ぬだけいくぶん幸福かもしれない。ぼくのことは心配いらない。君を出すだけで金貨が手に入る。ぼくにはそれで十分だ」

   ―――それでも、死ぬのはいやだった。

 

 「……約束だ」

 「うん、なんだい?」

 「約束だっ! 生き残れば俺を自由にする。ラーズ、約束だ!!」

 

 ラビシュが叫ぶ。自身にまるで暗示をかけるように、力いっぱいラビシュは叫んだ。

 

 「ふ、ふふーふふ。……いいだろう。約束しよう。生き残れば、ラビシュ、君は自由だ」

 

 愉快そうにラーズは笑った。思えば、それがはじめて見たラーズの笑顔だったかもしれない。

 

 「行く! 絶対、生き残ってやる!」

 

 勢いのままにラビシュは舞台へ向けて歩き出す。ほとんどやけっぱちだ。けれど、いまこのまま行かなければ、もう自分の意思で行くことはできないだろう。そう思えた。

 

 「ふふーふ。待ちたまえ、ラビシュ。

……シス。ラビシュを拭いてやれ」

 

 ラーズの言葉を受けて、それまで無表情で見ているだけだったシスが動き出す。どこから出したのか、手にはぬれた布とラビシュのより少し上等な上衣があった。

 

 「人生の大一番だ。汚れたままでは無粋だろう」

 

 ぴちゃりというぬれた音が、ラビシュの頬をやさしく撫でる。冷たさが興奮していた肌に心地よい。同時になんとも言えないあまい香りをラビシュは感じた。

 

 「つよく」

 「え?」

 

 小さく呟かれた言葉を聞いて、ラビシュははじめて自分の顔を拭ってくれるシスを見た。変わらず無機的なその琥珀の瞳を見ながら、ラビシュは先ほどから香っているあまい香りが、シスのそれなのだと気がついた。

 

 「つよく願う。生き残りたいと、つよく」

 

 ラビシュの髪にこびりついた血を丁寧に拭いながら、再度シスは言葉を繰り返した。シスが動くたび、淡い銀の髪が緩やかに揺れ動く。

 

 「大丈夫。きっと、あなたは生き残る」

 

 言って、シスはラビシュから離れていく。

 見ると、いつの間に着せられたのか、シスの持っていた上着を着ている自分がいた。

 

 ―――絶対、生き残ってやる。

 

 強く誓ってラビシュは一歩を踏み出した。

 さきほどまでのやけっぱちの思いではない。心の底から生き残ることだけを夢見て、ラビシュは一歩踏み出した。



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