そして、服従の鐘が鳴る⑨
◇
「は、ずいぶん派手にやったもんだ」
舞台中央で暴れまわる獅子の姿を見、シャーリ・エストーはひとりごちた。
「なんだ、アレは……。どうなっている!」
「凶暴化、だな」
隣でがなるぺデットにシャーリはそう嘯いた。
「……凶暴化、だと?」
「聞いた話だが、魔物のなかには許容量以上の魔力を吸収して普通の何倍も強くなることができるやつがいるらしい。代わりに理性を失うらしいが……。どうやらほんとうだったようだな」
ぺデットの疑問に、シャーリはそう答えを返した。もちろん、デタラメだ。凶暴化などではなく、暴走――それもラーズが意図的に起こしたものであることを、シャーリは知っていた。
だが、真実など告げる気はない。シャーリの心はすでにぺデットを見限っているのだ。
「理性などっ! 化け物どもにあるものかっ!!」
焦点のズレた言葉で罵るぺデットをシャーリは冷笑した。
―――おいおい、そうじゃねぇだろう。あんた、自分の立場分かってるのかよ。
凶暴化した魔物は一体誰が選んだか。答えは決まっている。ここで魔物を呪うぺデット・ディーンその人だ。
舞台はすでに半壊し、ラベルは混乱の極みにある。この事態を引き起こした因はなにか。魔物だ。ならば、ぺデットがいま思うべきは、自分の身を案じることだ。
だが、ぺデットは気づかない。通常ならば気づいただろうが、すでに暴走した魔物のおかげでぺデットの理性は飛んでいた。ただ家族を殺された恨みだけが溢れ、ぺデットの心を掴んでいる。
「赤獅子ッ!! なにをやっているっ!!! 立てっ!! 立って、その化け物をぶち殺せッ!」
壁に打ち付けられたまま動かぬ赤獅子にぺデットが罵声を送る。その内容は、打算など露ほどもないぺデットの本心だった。
「ほんと、やんなるぜ」
シャーリは思わず呟いた。シャーリ・エストーはぺデット・ディーンを嫌っていない。こうした状況で自身の保身すら忘れる強烈な感情を持つ人間を、シャーリは嫌いじゃない。腹が減ったときに恵んでもらって以来の付き合いだが、ぺデットとの日々は悪くはなかった。
だが、そんなこととは無関係に血が騒ぐ。
―――ほんと、度しがてぇな。オレも……。
ぐらぐらと体中の血が滾る。さきに戦いを終えたばかりだというのに、血が滾ってしょうがない。
信頼という言葉は知っている。恩という言葉も知っている。人情だって分かるつもりだ。だが、それでも、それでも。
「この感情は度しがてぇ……」
見上げるは巨躯だ。黒い体躯を膨張させ、荒れ狂う獣。
―――どれほど強い。
知らず、足が動きだす。
「シャーリ!」
ぺデットの呼び止める声が届く。だが、止まらない。止まれないのだ。
―――オレは強いやつと戦いたい。
それが、ぺデットを見捨てる理由だ。安息などは望んでいない。ただ、自分自身の力を思い切り吐き出したいだけだ。
―――そのためには敵がいる!
自分の力をすべて出し切れるような敵がいる。
舞台では赤い獅子と黒い獅子がいまだ死闘を演じている。だが、その結果はすでに見えていた。赤獅子は負ける。
―――そうなれば、オレの出番だろう!
「シャーリ! 貴様っ、なにをするつもりだっ!!」
さっきつけたばかりの左手を覆う包帯を外し、抜刀する。白い包帯が風になびいて飛んでいった。
ラベルでの戦いの最中にだれかが入ることは禁じられている。ショーをめちゃめちゃにするからだ。
だが、そんなことシャーリの知ったことではなかった。
「もう、我慢できねぇんだよ」
答えるように言って、シャーリは剣を身構えた。張られた結界を突き破る。
そのつもりだった。だが、シャーリはその目的を果たせなかった。
「なっ!」
シャーリが破るよりも早く、誰かが結界を斬り破ったのだ。
「誰だっ!!」
弾かれたようにシャーリは舞台へと乱入する人影を見咎めた。
「ッ! あの女っ!!」
銀に輝く髪を揺らして飛ぶ姿を見届ける。
―――あの髪色! あの後姿は!
「白銀翼ッ!!」
不可視の稲妻シャーリ・エストーは、自分を出し抜き舞台へと乱入した女の名をそう呼んだ。
◇
「――――ッ!!」
獅子が吼える。
ゆっくりと流れる時のなか、ラビシュは黒い光の奔流を見た。
黒獅子の吐き出した魔力、その流れだ。眉間をうがつはずだった剣は砕け、纏っていた魔力が赤い粒子となって霧散していく。
―――死にたくない。
まず脳裏に浮かんだのは、その言葉だった。自分が賭けに負けたことは分かっている。その後にやってくるものが死だということも知っていた。
だが、それでもやはり死にたくない。
―――どう、すればいい?
剣を穿った黒い魔力の波がラビシュを飲み込もうと進んでくる。放っておけば、ラビシュは呑まれて死んでしまうだろう。
―――闘術で全身を強化すればどうだ?
思考してラビシュはすぐさま打ち消した。それはダメだ。死を間近にして感覚が鋭敏にでもなっているのか。すれば確実に自分が死ぬことが理解できた。
―――それに……。
すべてをさきの一撃にのせたのだ。すでに闘う力は残っていない。
―――死ぬのか。
そう思ったときだった。ラビシュの脳裏にひとつの想像が閃いた。どうしていまそんなことを思ったのか。それは分からない。
「はっ」
思わず笑みがこぼれた。
くだらない、ありえない光景だ。
だが、ラビシュはひとつの満足を覚えた。
―――自由になったら……。
以前は浮かばなかった答えを思ったのだ。
それは簡単なものだった。
いつか自由になったなら、クラウとシスに笑っていて欲しい。
―――ああ、それはいいな。
ラビシュは笑みを深くした。クラウとシスと三人で、笑って暮らしてみたい。そこにダングスがいてもいいだろう。ラーズだって、タリクだって、いていいはずだ。
「ほんとう、ありえねぇ……」
否定を口にしながらラビシュは深く微笑んだ。
眼前は黒。絶望を象徴する死の色だ。
死に囲まれたその最中、ラビシュは小さな光を覚え、目を閉じた。