そして、服従の鐘が鳴る⑦
「―――ッ!!」
地が割れた。
そんな錯覚に落ちるほどの揺れがラビシュを襲う。
会場のそちこちから驚愕が上がる。その中央、元凶である獅子が吼えた。
音が風となって舞台を揺らす。あまりの風圧にたえかねて、ラビシュは思わず腕で顔を覆った。
「ぐうっ!」
瞬間、突風がラビシュを襲う。
風に揺られ、体勢を崩しながら見れば、眼前は真っ黒だった。
粘ついた唾液を中空に放りながら、近づいてくる黒い穴。それが黒獅子の口なのだと気づいたのは、獅子の牙がラビシュの肩口を捉えたときだった。
重い破砕音が響き、牙が肉へと喰い込む感触が脳へと響く。
「ぐ、がっ!!」
考えるより早くラビシュの体が沈み、乱暴に剣を薙いだ。
鮮血が宙をゆく。剣は空を斬り、飛び散ったのはラビシュの血液だった。
―――どう、なってる!!
困惑がラビシュの脳裏を走る。声はない。ただ痛む肩を感じながらラビシュは必死に身構えた。戦闘において困惑にとらわれることは危険だ。困惑は隙を生み、それを敵が見逃すことはない。
だが、そこまで分かっていてもラビシュは疑問せざるを得なかった。
―――なぜ?
圧倒的な優位が一瞬にして崩れたのだ。それに疑問を抱かないはずがない。
「なんなんだ、一体」
なにより眼前の獅子の変貌がラビシュの困惑を強くする。
血に濡れていた先ほどまでの黒獅子の姿はない。全身の毛が逆立ち、体の所々が歪に盛り上がっている。血走り正気をなくした瞳から一筋の赤い涙を流しながら、黒獅子はラビシュを見据えた。魔力が黒い霧となって獅子を覆い異形を飾っていた。開いた口からだらりと垂れる涎すら恐ろしい。明らかに獅子は異常だった。
「ぐふぅ、るるるぅ」
低く呻りを上げて獅子が身じろいだ。
そうラビシュが感じた瞬間、ラビシュは横からの衝撃を知覚した。
―――なっ!
意識よりも早く体が動いた。感じた衝撃は風。その後に続く黒い脚と自身の間に剣が滑りこむ。防御とは口が裂けてもいえない咄嗟の反応。防衛本能のなせる技だった。
だが、そんなもので防げるほどに黒獅子の攻撃は甘くはなかった。
「ッ、ぐうぅっ」
金属の軋む音が鳴り、横腹を衝撃が貫いた。痛みすらなく腕が折れ、せりあがった空気が口から血とともに漏れ出した。
地を二度ほどはね、ラビシュの軽い体躯が壁と激突する。
「ぐるう、るるるるるぁああああああああっ!!」
粘つく液体を撒き散らしながら、獅子が吼える。それはラビシュを仕留めたことを喜ぶ雄たけびではない。自分のなかにあるなにかを吐き出すかのように、痛切な、けれど圧倒的な雄たけびだった。
「ひゃああっ!!」 「な、なああああっ!!」
一瞬の静寂の後、観衆が狂気の声を上げて席を立つ。
「――――――っ!!」
獅子が吼え、蛇が荒れ狂う。
歪に膨らんだ双頭の蛇が絡みつくように空を這う。結界へぶつかり、すさまじい音と衝撃を与えるたびに観衆の声が高く響いた。
すでにラベルは阿鼻叫喚の地獄絵図の様相を呈している。黒獅子の突如の変貌に声をなくす者。絶叫する者。泣き出す者。失神する者。様々な姿があった。彼らすべてが狂騒のなかにあり、等しくラベルからの離脱を望み、そのように動いている。
それほどまでに黒獅子の威圧は圧倒的だった。人の死ぬ様を楽しむ悪趣味な観客たちですら、おびえ逃げ出すほどの恐慌が、いままさにラベルに黒獅子という具現をもって吹き荒れていた。
すでにラベルの観客たちに観客という意識はない。吹き飛ばされたラビシュを見ることもなく、我先にと外へと出ようともがいていた。
「ふふーふ。いや、よく効くものだ。すごいものだな、魔物の暴走というやつは!!」
無邪気にそう声を上げたのは、誰あろうラビシュの飼い主であるラーズだった。
「……圧倒的だな。一体、なにをしたのだ? ラーズ」
「べつに。ちょっと暴走させただけの話さ」
ローンの問いにラーズは変わらない作り笑いで答え、眼下の光景を眺め見た。
「あああっ!! ぼく様の剣がぁあああっ!」
などとほかの観衆とは異なる理由で絶叫しているタリクを除けば、ひどいものだった。ラーズは笑みを深くする。
さきの稲妻のときとは比べ物にならないほどの狂騒がそこにはあった。誰もが助かるために人を押しのける。子どもも老人も大人も関係ない。そこにあるのは等しく自分だけを守ろうとする人の群れだった。
「それで、どうするつもりなのだ」
後ろからローンが問う。
「どうするって、そんなの決まっている。ラビシュが倒すのさ。そのほうが圧倒的に盛り上がる」
「なにを、バカな……」
ローンはそう言って嘲った。肝心のラビシュはさきほど黒獅子に吹き飛ばされたままピクリとも動かない。ローンでなくとも、ラーズの答えに不可能を感じざるを得ない状況だった。
「ふふー、もちろん不可能だとは思っているけどね。でも、暴走した魔物は十分も持たない。時間ぎりぎりまでなら、きっとラビシュは耐えるさ。それくらいはしてもらわないと困る」
「なるほど、時間制限のある戦いか。だが、赤獅子も無事ではすまんだろう」
言いながら、舞台へと視線をやった。吹き飛ばされたラビシュはどう見ても無事ではなさそうだった。
「それがいいんじゃないかっ!」
「……なんだと?」
はしゃぐように声を張り上げたラーズの返答に、思わずローンは疑問した。
「ふふー。時間制限まで持てば、ラビシュはもう用済みさ。死んでくれて構わない。むしろ死んで欲しいところだよ。あとはこっちの仕事、ぼくがうまくやるだけさ」
淡々とローンを見ることもなくラーズは言葉を継いでいく。
「残るのは、暴走した魔物を命をかけて倒した英雄と、救われた主。そして、嫉妬に狂って魔物を暴走させた商売敵ということなる、というわけか……」
「ふふーふ。まあ、そういうことになるのかな」
「だが、果たしてそううまくいくものか?」
「さあ、それは分からない。なるようにしかならないさ。……それに、もしものときの保険は用意してあるからね」
言って、ラーズの視線が動く。そのさきには包帯を巻いた稲妻、シャーリ・エストーの姿があった。隣には知らぬ間に事件の犯人にされたぺデットが並んでいる。ぺデットの顔は魔物に対する嫌悪にゆがみ、自身に身に降りかかる災難など予想だにしていないに違いない。
愚物だな。ローンはため息を吐いた。
「稲妻か……。どこまでも人頼みだな」
「ふふーふ。……たしかに、どこまでも人頼みだ」
そう言ったラーズの視線のさきにあるのは稲妻ではない。ひび割れた剣を杖にして立ち上がろうともがくラビシュだった。