幕間 シス
「……ラーズ」
思わずそんな呟きがもれていた。
走ってきたせいで上がった息を整える間もなく、シスは息を呑む。
視線の先には獅子がいる。ラビシュではない。黒い体躯にあさましい白い翼を生やした存在―――魔物だ。
―――なぜ?
シスは疑問する。だが、答えなどは出てこない。
違う。答えなど明白だ。
ラーズが用意したのだ。
そこまで考えて、シスは焦りとともに視線を縦横無尽に動かした。
「ラビシュ!」
―――居る。
ふたりの子どもをかばうように、ラビシュが黒獅子と対峙している。崩れた舞台の端で、傷つくことなく立っている。どうやら怪我などはしていないようだった。
ほっと、シスは安堵した。
―――生きている……。
ラビシュの姿を確認して、ようやくシスは一息ついた。頭のなかでは、魔物の存在やラーズの思惑がいくつもの疑問となって浮かんでいる。だが、いまはそんなことなどどうでもいい。ラビシュのことだけが気になった。
―――あの目は、なにかを覚悟している……。
「行くぞ!」
観衆の声に埋もれるそんな掛け声とともにラビシュが地を蹴った。
「だめ、ラビシュ」
ラビシュがなにをしようとしているのかを悟って、シスは思わずそう言った。
赤い光が瞬いて、ラビシュの足先を流れて消える。
闘術だ。
硬質な音が鳴る。剣が蛇腹にはじかれる音だ。残響絶えぬ間に、ラビシュの姿が空へと上がる。
赤獅子という名にふさわしい赤い魔力の残光が空へ引かれて消えていく。
狙いは翼。黒い柄のダガーが刺さっている一点。敵の弱ったところを討つという戦いの常道だ。シスの教えたことだった。
「だめ」
―――誘われている!
再度、シスは否定した。
魔物に戦いの常道は通じない。あくまでもシスが教えたのは、対人戦の方法だ。魔物との戦いを教えたわけではない。
黒い魔力が翼を走り、ラビシュの剣を弾き返す。反動でラビシュのバランスが崩れるのをシスは見た。
だが、ラビシュに危うさは見られない。
崩れた姿勢のまま、さきほどまで自分が立っていた場所をちらりと見やる余裕すらある。
瞬間、ラビシュが笑ったようにシスは感じた。
―――なに?
見れば、ラビシュよりも小柄な少年が引きずるようにしてひとりの少女を運んでいる。そこでようやく、ラビシュが闘術を使った理由にシスは思い至った。
圧倒的でなければダメなのだ。黒獅子のすべての関心を、ラビシュへと向けさせるための闘術だ。関心をすべてひきつけ、あの二人へと手出しをさせぬこと。それを可能にするために、ラビシュは闘術を用いたのだ。下手をすれば自分が死ぬかも知れない可能性がありながら、ラビシュはそれをした。
きっとひとりであれば、つかうことはしなかっただろう。
「ラビシュ」
言葉をかたちづくりながら、シスは見た。
着地を見越して放たれた幾十の羽根の刃、それを軽々と捌いて、ラビシュが黒獅子の周りを疾駆する。鍛錬ではぎこちなかった魔力の流れがウソのようだ。一瞬つま先を灯した赤い光が転々と黒獅子の周りに浮かぶ。赤い一点は無数の点となり、やがて黒獅子を囲う檻のように線となる。
―――見事。
ただその一言をもって、シスはラビシュの戦闘を見た。ほんとうに、ラビシュは天才だ。あらためてシスはそう思う。
命を使う闘術は長時間つかうことがもっとも難しい。使えば使うほどに死が近くなる。だが、強化に特化した闘う術は常時発し続けなければならない。
闘術を身につけた者ならば、だれもがそう考える。闘術による圧倒的な恩恵。それを身をもって知っているのだ。ならば、易々とその力を手放すことなどできはしない。
だが、ラビシュはそれをしなかった。
必要なときに、必要なだけ使用する。当たり前のようだが、行なうことは難しい。
死ぬのだ。闘術を使っていない箇所に攻撃が当たれば、死ぬのだ。
それを必要なときだけ、必要な箇所にだけ使うなど、よほどの馬鹿か熟練者でなければ、まず思いつきもしないだろう。
―――特筆すべきは、あの、剣……。
武器の強化―――とくに、剣などは素人は闘術をかけるだけかけて強化する。そのほうが強くなると思うからだ。だが、実際は違う。剣で必要なのは切れ味だ。硬さじゃない。余分な魔力をそぎそとした鋭利な魔力が望ましい。それすらラビシュは気づいている。
才能というのは恐ろしい。そして、ひどく哀しいものだった。
いまだ幼い体に宿った才能が戦いのものだったことが、それを喜ばなければならないような環境にラビシュがいることが、シスにはひどく哀しかった。
繭かける幼虫のように、ラビシュの残す赤く細い光の糸が黒獅子を覆い隠していく。速い。すでに大蛇も獅子もラビシュの姿を捉えるだけで精一杯だ。姿すら捉えられていないのではないかというほどに、見当違いの場所に爪をたてている。
一見すると余裕な展開だ。
だが、シスには分かる。必死だ。
仮面に隠されたさきでラビシュはきっと苦しみとあせりを浮かべている。
本来もっと余裕をもった戦い方ができるはずなのに、それをラビシュはしていない。爪や牙をぎりぎりまでひきつけて、けっして大きく後退しない。半歩身をずらして黒獅子の注意を引き続けている。その間も死の恐怖におびえながら、必要な箇所を見極め、闘術をかけている。
ふと、目の前がおおきく揺らぐのをシスは感じた。
涙だ。
シスは突然の揺らぎをそう受け止めた。ぬぐいはしない。いま、一瞬間でもラビシュから目を離すのはいやだった。
ぎりぎりまでひきつけ、無茶な戦いをラビシュがするのはなんのため?
答えは決まっている。人のためだ。後ろにいる彼らふたりを逃すためだ。
―――自分の命だけでも手一杯なのに……。ラビシュ、あなたは……。
「ねえ、ラーズ……」
思わず、そんな言葉がもれだした。
―――あなたは。あなたにはどう、見えている?
無言のまま、視線を舞台へ釘つけて、どこかで見ているはずのラーズへとシスは問う。
ラーズがラビシュをどう思っているか。
その答えをシスが知るのは、もすこしあとのことだった。