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そして、服従の鐘がなる③

「急がないと……はじまる……」


 視線を上げれば、目の前には壁―――もとい羊皮紙の束がある。

 乱雑に詰まれたその束は、ラーズの置き土産であり、文字通りシスを阻む壁だった。


 シスは文字が読めない。


 シスがおろかというわけではない。この世界、一部を除けば人はみな文盲である。


 世界に文字はいくつもある。シスが読める文字も―――少しだが、ある。日常生活に使われる簡易な語、それくらいは読めるのだ。


 だが、いま必要な文字は違う。商人の使う文字だ。神代の時代に作られたといわれる神聖な文字。シスから言わせれば、しゃちほこばった使い勝手の悪いものだが、「神との契約」によって信用を担保してきた商人にとってこの神代の文字は重要だ。それで書かれない限り、契約は成立しない。だが、そんなものは一部の商人と研究者、権力者そして高名な魔術師しか使わない。神に誓った時代の遺物、それがいまシスの直面している文字だった。


 「……」


 再度、無言でシスは眼前の書類を見据えた。

 目の前には楔が連なったような複雑怪奇な文字の海。シスにとって、泳ぐことはおろか入ることすら困難な荒海だ。

 

 『ふふーふ。では、これを頼むよ』

 

 そう言って、出て行ったラーズを思い出す。

 

 ―――なにか、ある……。

 

 シスがラビシュの試合を見に行こうとしたときだ。いつもは平然と見送るラーズが突如として、シスには絶対に不可能な仕事を言いつける。明らかな時間稼ぎがそこにある。

 

 だが、シスはラーズに逆らえない。そういう契約をはるか昔に交わしている。

 

 ―――きっと、ラビシュにとって悪いこと……。

 

 シスは直感した。シスを妨げる理由など、そこにしかありはしない。

 

 「……ラビシュ」

 

 不安だけがひた走る。重たく鈍器のように分厚い事典を開いたまま、シスの焦慮は限界を超えつつあった。

 

 大丈夫だと信じる気持ちはある。

 

 ラビシュはそれほどに強くなったのだ。おそらく不覚は取らないだろう。だが、それでも不安は消えない。

 

 ―――ラーズのこと、きっとクソッタレなことを考えてる……。

 

 ありえないことだが、魔術師と戦わせるとしたら? 

 

 おそらくラビシュは負ける。

 

 なぜか知らないが、魔術が使えないのだ。そんなラビシュが魔術師に挑めば、どうなるかなどはっきりしている。いい的だ。

 

 「ラビシュ……」

 

 握っていた羊皮紙がくしゃりとゆがむ。

 

 「はあ、読む前にすべて破っちゃいそうね」

 「ダングス」

 

 若干の驚きを宿して、シスは顔を上げた。

 家の中はダングスの体内に等しい。特殊な魔術の張られたラーズの私室以外はすべてダングスの意思によって干渉可能になっている。だが、まさかいま話しかけられるとは思っていなかったのだ。

 

 「とりあえず、あーしの前に持ってきなさいな」

 「……?」

 

 シスは軽く首をひねった。

 魔法生物になる前のダングスのことを思い浮かべたからだ。あのころのダングスは決して自分の利益にならないようなことに手を貸す人間ではなかった。

 

 『それをやって、あーしに一体なんの意味があんのよ?』

 

 可愛らしい容姿だからこそ許されていたが、ダングスは基本的にそういった種類の人間だ。魔法狂いのリリー・ダングス。自身の魔法を高めることにしか興味のない魔女だった。挙句の果てに、自分自身をひとつの魔法に変えてしまった真性の魔法探求者。

 

 そのダングスが、

 「鈍いわね。あーしが読むって言ってんのよ。あーしが読むから、あーたは印を押しなさないな。それで仕事は終了。そうでしょ?」

 

 そんな言葉を発している。

 その奥にあるものが、ラビシュへの心配だと感じてシスは思わず微笑んだ。

 

 「ありがとう」

 

 ―――ラビシュは、すごい。

 

 魔法の解明だけのために、己の命を投げ捨てた魔女すら変える。その力の本質は一体どこにあるのだろう。

 

 「べつに礼を言われることじゃないわ。ただちょっと、久しぶりに神聖文字が読みたくなっただけよ。ほら、さっさとやるわよ。間に合わなくなるわよ」

 

 ―――一体、なにに間に合わないの?

 

 そんな意地悪な言葉を思い浮かべながら、シスは再度礼を口にした。

 焦りはある。けれど、すでに暗い予感は消えていた。


 ◇

 

 時は、少し前にさかのぼる。

 

 「すばらしい盛り上がりだな」

 「ふふーふ。でしょう?」

 

 ローンの言葉にラーズは軽く相槌を打った。

 ふたりの眼下では、いままで見たことがない熱狂が渦巻いている。

 

 ―――ひどいものだ。

 

 下は異様な光景だった。先ほどの戦いの熱に当てられたのか、そこかしこでいさかいが起こっている。なかには興奮したのか裸になっている男女もそこかしこに見受けられる。誰一人として興奮していないものはない。あきらかに異常な世界がそこにはあった。

 

 ―――まるで異教の祭のようだな。

 

 過去に一度だけ見たことがある乱痴気騒ぎを思い起こしながら、ローンは言葉を継いだ。

 

 「だが、損傷が著しい。あの修理費はいったい誰が出すのであろうな?」

 「ふふーふ。……かわいそうになぁ、ぺデット」

 

 ―――ふん、元より払う気はないか……。

 

 ローンの咎めにも振り向くこともなく、ラーズは眼下の狂乱を眺め見ている。その薄ら笑いがいつもより深いのは気のせいではないだろう。

 

 ―――危険だな。

 

 冷然とその後ろ姿を見つめながら、ローンは思考を走らせる。

 危険ではある。だが、排斥するには惜しい。このラーズという男は、自分の価値も自分の力量も知っている。そして、その力量が他の商人と比べて図抜けている。商人として得がたい人間であることは確実だった。

 

 「それで、どうなのだ?」

 「ふふーふ。問題ないさ。きっとラビシュは勝つよ」

 

 ―――これだから、困るのだ。

 

 ローン・ジャイコフは有能だ。

 

 幼いころより人に劣ったことがない。いまも王都の出世コースをひた走り、三十にも満たぬ年齢で王都の重要施設の長に任じられている。五年の出向期間を終えれば、王宮での確実な地位が保証されているエリートだった。

 

 ゆえに、ひどく無能を嫌う。無能であることは別によい。無能にも使い道があることを知っているからだ。だが、無能は足を引っ張る。決まって邪魔になるのだ。ゆえにローンは自身の周りに無能が連なることを嫌っている。優秀な自分にはそれ以上に優れたものが周りにいるべきだ。

 

 言葉がなくとも、自分の立場を知り行動し発言するものを好む。

 その点において、ラーズは非常によい。

 ひどく察しがよいのだ。

 

 「……そうか。しかし、それほどに信じていても、今日が最後なのだな。同情などはないのか?」

 

 「ふふーふ。面白いことを言う。あなたこそ、同情などはしないのかい?」

 

 ラーズが振り向き、問う。主語はもちろん、ぺデットのことだ。この興行を最後に、ローンはぺデットからラーズへと乗り換えるつもりだった。もちろん、そのことをラーズに漏らしたことはない。

 

 ―――探らねばならんな。

 

 ラーズの情報源がどこにあるか。把握していなければ、もしもということがある。ローンはそうした情報戦を制していまの地位にいるのだ。出世争いを演じたエリートとは異なる商人が相手でも、それは変わることがない。

 

 「……私が? 何故、私が同情などしなければならない。無能であるのは、本人の責だろう?」

 

 「ふっ、ふふーふ。実にあなたらしい答えだ。でも、よく分かる。つまりは、こういうことでしょう?」

 

 「なんだ?」

 

 「道具は使い勝手のよいものに限る」

 

 薄ら笑いを浮かべたまま、ラーズは言った。

 

 「ふ、お前が使い勝手がよいかどうかは分からんがな」

 

 ローンが答えるのはそれだけだ。それだけで、ラーズには分かるだろう。

 道具の分を超えたとき、ローンがラーズをどうするか。それをラーズは理解しただろう。

 

 「ふふーふ。いや、楽しくなりそうだ」

 そんな答えにもならぬ言葉を口にして、ラーズが前へ出る。先はラベル・ワンを俯瞰するラウンジになっている。

 

 「さて、それじゃあ、道具は道具らしく仕事をするとしようかな」

 

 そんな言葉を吐いて、ラーズが拡声器を手に取った。舞台が整ったのだ。赤獅子が出て、本日の第二段階がはじまる。

 

 ―――せいぜい役立て。ラーズ。磨耗するまでは使ってやろう。

 

 ゆくりと椅子に腰掛け、ローン・ジャイコフは嘲った。


 

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