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それはヨロコビという名の錯誤


「おおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 ―――生き残った。


 腰が抜けたように座りこんだラビシュに歓声が鳴り響く。

 だが、そんなものラビシュの意識には届かない。

 頭のなかは安堵で放心虚脱状態だ。遅れてやってきた激痛と激しい動悸だけが、いまのラビシュにとっての現実だった。


 「いてぇ」


 小さく呻いてラビシュは自分の足を見た。ザノバに蹴られた時か、突き刺すために立ち上がった時か。右足は大きく腫れている。


 ―――折れたかも、と思ったけど。


 実際は捻挫かもしくは打撲だろう。どちらにしても痛いことには変わりない。


 「首もある」


 そのまま手は首輪へと伸ばされる。深くえぐられた鋼鉄の輪。そこに刻まれた溝を指でなぞっていく。あと少しでもザノバの一撃が重かったなら、きっといまラビシュの首はつながっていない。

 指先にどっぷりついたラビシュのだかザノバのだか分からぬ血液が、赤い線を生々しく鋼鉄の首輪に残して落ちる。


 ―――はは、ぎりぎりだったな……。


 溝をなぞりながら、ラビシュは息を吐いた。本当に出たとこ勝負だった。なにかひとつでも違っていれば、いまごろラビシュは死んでいる。

 剣先を握り締めた手はボロボロだった。痛みよりも熱さがラビシュの幼ない掌を駆け巡る。

 痛くて、熱くてたまらない。足も手も首も、体中が悲鳴をあげて軋んでいる。

 

 だが、

 「生きている」

    いまはその痛みすらどうでもいい。


 「俺は、生きている」


 ラビシュは勝ち取ったのだ。万に一つもない状況のなかで俺の生を。生き続ける権利をつかみ取ったのだ。

 眼前には首のもげたザノバの死体が転がっている。汚くおぞましい肉がさらされたその死体もいまはなにももたらさない。ただ、生き残ったという事実があるだけだ。

 言い表せぬ感興がわいてくる。

 はじめて人を殺めたというのに、そのことに対する負い目はまるでない。ただ、生き残れたことへの安堵があるだけだ。


 ―――安堵、なのか?


 ラビシュは困惑を覚えた。

 胸にわくこの感情をなんと名づければよいのか、ラビシュには分からない。ただ安堵という言葉が知っているなかでもっともふさわしいように思えただけの話だ。


 ―――だが、この感情にはもっとふさわしい言葉があるはずだ。


 思っても答えはでない。

 考えることが、いまはひどく億劫だ。いまはただ休みたい。すでに痛みも火照りも感じない。むしろ体は冷え切っているようだ。異様に寒く、泥のようにからだが―――しこうがおもい。


 「いやはや、驚いた」


 意識の底へ沈みかけたラビシュの脳裏に声が響く。最低な、二度と聞きたくない奴の声だった。


 「あんた……」


 つぶやくラビシュの視線の先にはひとりの男と女が立っている。男は薄ら笑いを浮かべ、女はただ無表情でラビシュを見ていた。


 「ふふーふ、生き残るとは思わなかった。思わなかったよ、ラビシュ」


 歌うように男が笑う。驚きなど露ほども感じさせない飄々とした態度だった。

 押し寄せる倦怠を隠しながら、ラビシュは男を睨んだ。無論、虚勢に過ぎない。だが、この男にだけは弱みを見せたくはなかった。


 「そんなに睨むなよ。せっかく――――したんだ」


 男の声は響く歓声に紛れて消える。男もそれに気がついたのだろう。迷惑そうな顔をして、肩をすくめた。


 「困ったな。すごい歓声だ。場所を変えるとしよう。君もぼくに言いたいことがあるだろう?」


 男が言葉を続けるが、ラビシュの耳には切れ切れにしか届かない。興奮から覚めつつある耳は怒号のような歓声で満たされている。


 「なんで、こんなにうるさい」


 思わずラビシュはつぶやいた。


 「なんで? ふふーふ、面白いことを聞く」


 意外そうに言って、男が座り込んでいるラビシュの方へ近づいた。


 「みんな、君を祝福しているんだ。ラビシュ、生存おめでとう、とね」


 まるで秘密を告げるように、小さくラビシュに耳打ちする。さきほどまでと変わらずうるさいなか、その言葉だけははっきり聞きとれた。


 「よぅく聞いておくといい。ラビシュ。これが勝者が得られる賞賛だ」


 ―――しょ、賞賛?


 耳慣れぬ言葉を聞き、ラビシュは瞬いた。なにを言われているのか、分からなかった。


 「ぅおわっ!」


 瞬間、ラビシュの体が宙に浮く。

 さきほどまで立っているだけだった女が、ラビシュのわきの下に手を入れて抱えあげたのだ。


 「……なに?」


 女が無表情で聞いた。琥珀色の光のない瞳が静かにラビシュを見つめている。


 「離せ! 離せよ!」


 女に抱え上げられた姿勢のまま、ラビシュはそう言って身をよじった。だが、女の腕はぴくりとも動かない。


 「だめ。勝者は歓声に応える義務がある」

 「ギムってなんだっ!! いいから離せ!」


 体が痛むことも忘れてラビシュは暴れた。女に抱えられている状況は耐え難いほどに恥ずかしかった。

 

 「ふふーふ、ラビシュ。シスの言うとおりだ。いまは答えてやるべき時だよ」

 「なにを、言って! ……なんだ、これ」


 ラビシュは息を呑んだ。

 幾つものやぐらがある。その上から幾百の人々が身を乗り出し叫び囃したてている。異常な熱気に吞み込まれそうだった。

 音が重なって、なにを言っているのか分からない。だが、そのすべての感情が闘技場の真ん中にいる自分へ向けたものだということだけは確かだった。


 「……なんだこれ? なんなんだよ、これ」


 理解することなどできず、ラビシュはただ困惑を口にした。

 知らず体は震えている。


 「ふふーふ、さっきも言ったろう? すべて君への祝福さ。耳を澄ますんだ、ラビシュ。聞こえてくるだろう? みんな、君が生き残ったことを喜んでいる。君は誉められ、称えられているんだ」


 ―――ほんとうに? 誉められているのか、俺が?


 「あ、ああ」


 言葉にもならぬ呻きが、ラビシュの口から漏れる。

 十年という短い生ではあったが、誉められたことなど皆無だ。そんなものはどこかべつのだれかの話で、ラビシュ自身には一生関係のない話だと思っていた。

 それが、いま目の前にある。

 己の生は罵られるためにある。それが貧困街で育ったラビシュの知っている世の中だ。必死に自分たちが生き抜くためにしてきた行為でも、罵倒され、蔑まれるのが常だった。

 

 ―――俺が生きるとはそういうことなのだ。

 

 だが、そんな忌み嫌われるはずの自分が、いま賞賛を浴びている。


 ―――そんなことが、あるのか? 


 ラビシュは困惑した。

 自身のなかから何かが次々と湧き出しては止まらない。ともすれば叫びだしそうな何かが、胸の奥にある。

 初めての体験だった。なにがどうなっているのか分からない。

 

 「なんなんだ、なんなんだよ」

 

 ラビシュはふたたび混乱を口にした。

 その様をシスは感情を宿すこともなく、男はにんまりと見届けた。

 

 「ふふーふ。それが喜びというものさ」

 「……喜び?」

 

 分からぬまま、ラビシュはつぶやいた。

 なぜか、その言葉はいまのラビシュの抱く思いにしっくりとはまった気がした。

 

 「喜び。喜び、喜び……」

 

 狂ったように繰り返す。すでに痛みも眠気もない。

 

 「おおおおおおおおおお!」


 観衆の入り混じった怒号が響く。まるで獣のように荒々しい叫びだった。

 これは自分を祝福しているのだ。そう思うほどに、なんとも言えない感情がラビシュの体を突き抜ける。

 

 ―――もっと、だ。もっと、もっと感じたい。

 

 「このヨロコビを、感じたい」

 

 シスに抱えられたまま、ラビシュは言った。

 その隣、男は深く微笑んだ。

 

 


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