幕間 ラーズ・カース
轟々と水の流れる音を聞けば、自然と過去を思い出す。
撮影された映像のように、はっきりと思い出すことのできる過去。だが、そのときに抱いた感情はもう露ほども思い出せはしない。
すでに磨耗しきったのだ。
鮮やかな過去の映像と色あせた感情。それが、ラーズにとっての過去だった。
いまは黄金に囲まれた虚しい夢だけがある。
それにしたって、なぜ望んだのかすら覚えていない。ただ情熱を失った虚ろとしての夢があるだけだ。
ふと視線を上げれば、眼前には滝がある。
といっても美しいものではない。おびただしい人間に汚された水が地下広場へと落ち込んでいる。それだけの風景だ。
―――汚水の滝。
ラーズは失笑した。
まさにこの都市にふさわしい見事な滝だ。
「……そんなこともあったね」
またひとつ脳から過去が飛び出した。それははじめてラーズがゴードにやってきたときの記憶だ。
そのときの感情は覚えていない。だが、分かることもある。
おそらく、複雑な感情を抱えていたのだろう。記憶の中の自分は傷つき、どうしようもない哀しみと怒りをもっていたはずだ。頭の中を反復する記憶によるとそういうことになる。
だが、いまはそんな思いなど露ほどもない。感情など生きていく上で意味のないことだ。それはラーズがゴードで学んだ大切なことだった。
―――はて、いつ学んだものだったか。
記憶を探るも、思い当たる節はない。いや、正確には心当たりがありすぎるのだ。アレもコレも、おそらくゴードにきて体験したすべてがラーズをそう仕向けたに違いない。
―――だからといって、特別な感情など湧いてこないけどね。
流刑都市ゴード。
成立ははるかな昔だ。いまでは話にも上らない。
当初こそ流刑地―――つまりは犯罪者の牢獄として機能した街はいまではその記憶をとっぷりと失っている。
人が魔族に敗北したからだ。
ラーズが生まれる何百年も前に人は魔族に敗北した。かつては大陸に及ばぬところのなかった人は、いまではいくつかの国を中心にせせこましく生きている。
それが人の現状だ。
流刑地であったゴードは、そのまま外と繋がることもできぬまま幾世代かを経た。その間にかつての流刑地という意識は抜け落ち、人の勢力が少し盛り返すとともに都市として中央と繋がる機会を得た。
つまり、いまのゴードはただの辺境都市のひとつだという認識の上にたっている。そんな都市でただひとり事実を知るもの、それがラーズだ。
いや、正確に言えば、ただひとりラーズのみがかつてと同じく流刑者として流されてきた者だった。
だからこそ、憎んだのだ。
―――そう、ぼくは確かに憎んでいた。そのはずだ。
鮮明な記憶が再生される。この汚濁の滝から吐き出されゴードへやってきた。
理由はかんたん、負けたのだ。金というものに負け、ラーズは放逐された。
そして、金を求めた。
それはよく覚えている。だが、自分はなんのために金を求めたのだろう。それがもはやラーズには分からない。
―――生きていくため? いつか中央に戻るため? もう二度と同じ目に会わぬため?
どれもが等しく正解のように思えてくる。金に負けた人間が抱く理由として、どれも至当だろう。だが、しっくりとはしなかった。もはや目的は分からない。けれど、かつてはあったはずなのだ。
―――それがなにかぼくは知りたい。
すでに答えは反転している。金のさきにあるものではない。その原初を求めたいがゆえに、目的は完遂されねばならない。金を集め、高みへと上り続けることだけがかつての感情を教えてくれる。
―――頂点に立てば分かるだろう。
金を集め、到達することのできる高みへ行けば、かつての自分の願いをかなえれば、それはきっと分かるはずだ。ラーズは思考する。
―――そのためならどんな手でも使おう。
「ふふーふ」
いつも通りの作った声を吐き出して、ラーズはその身を翻す。
先にはラベルがある。
「さて、行こうか」
そうひとり呟いて、ラーズは一歩を踏み出した。
その顔はもちろん、いつも通り薄ら笑いを浮かべている。