商人ペデット・ディーン
◇
「変わらず稲妻は強いな。圧勝だ。おそらくラルーファでも苦戦することはあるまい」
ゴードの街の中央に位置する闘技場、その一室の主であるゴード娯楽施設総支配人ローン・ジャイコフは書類から眼を離すこともなくそう告げた。
「お、お褒めに預かり光栄です。閣下」
ペデット・ディーンは喜んだ。ゴードの娯楽施設の総支配人はゴードでもっとも力のある人間だ。商人として、その人間に自分の商品―――稲妻が誉められるのは嬉しいものだった。
だが、発言した本人の意図とは違ったようだ。
書類から眼を離したローンの切れ長の眼がペデットを見咎める。濃く形の整った左右の眉がすこしだけその距離を縮めている。あまり感情の表に出ないローンが不快を感じている時の癖だった。
「……誉めたわけではない」
「へ? そ、それはいったいどういうことで?」
困惑したようにペデットは問い返す。てっきりローンは稲妻シャーリ・エストーの先ほどの戦いを誉めてくれたのだと思ったのだが。
―――この人は変わらずよく分からん……。
小首を傾げ、ペデットはローンを見つめた。いままでにも幾度かあったが、こういうローンが訳の分からぬことを言う時には黙って待つべきなのだ。下手になにか言おうものなら、その答えは一生分からぬことになる。
「分からぬか?」
やがて毎度のようにローンが問いただす。
「はぁ。申し訳ありませんが分かりません。どういう意味だったのでしょうか?」
まるでアホウのようにペデットは問い返した。毎度のことだが、この瞬間だけは己がまるで白痴にでもなったような気分だった。
「ふふーふ。もっと持たせられただろうとローン閣下は仰りたいのさ」
「ラーズっ!」
突如として響いた第三者の声にペデットは思わず声を荒立てた。そんなペデットの様子を気にする事もなく、ラーズはペデットの隣に腰掛ける。
「処刑じゃないんだぜ? 一方的な見世物が見たいんじゃないんだよ、客はさ」
いつも通りの薄ら笑いを浮かべてラーズは、そう講釈を垂れた。あからさまに馬鹿にした態度だ。
―――若造が。変わらずなめくさった態度を……。
「ぐ、きさま……。呼ばれてもおらぬくせに失礼だろう」
だが、さすがにローンの手前激昂することはできない。四十になる人生のうち二十年以上を商人として生きてきたのだ。嘲弄に激怒で応える愚かさは知っている。溢れる怒りをかみ殺しながら、ペデットはラビシュをねめつけた。
「ふふーふ。おや、今日はきちんと呼ばれてきたんだよ?」
「……閣下?」
疑問を宿してペデットはローンを見やる。ペデットとラーズの相性の悪さは、ゴードの街でも有名だ。そのふたりをわざわざ同じ場所に呼び出したローンの意図が、ペデットには分からなかった。
「……ラーズの言うとおりだ。豪腕との対戦、あまりに一方的に過ぎる。あれでは客も不満だったやもしれぬ」
ペデットの疑問に答えることなく、ローンは言葉を継いだ。あろうことか、ラーズを肯定するだった。
「閣下!」
ペデットはうろたえた。まさか先の戦いに苦言を呈されるとは思っていなかったのだ。
―――いったい、なにが不満だったというのだ? 圧倒的ではなかったか!
「ふふーふ。言ったとおりだろ?」
薄ら笑いを貼りつけてラーズはペデットを見た。その顔のなんとむかつくことか。ローンの手前でなければ、怒鳴り散らしているところだ。
「では、貴様の方はどうなのだ? 赤獅子と言ったか?」
むりやりに頬をゆがめ、ペデットは問うた。最大限の皮肉を込めたつもりだったが、ラーズはどこ吹く風といった体で薄ら笑いを浮かべただけだ。明らかに馬鹿にされている。怒りでどうにかなりそうだった。
「ふふー、ご心配をありがとう。だが、そちらのじゃじゃ馬と違って、うちのはきちんとしつけが行き届いている。問題はないさ」
慇懃無礼。その言葉を体現する態度でラーズが応える。悠々と足を組みかえるその様すら、ペデットを馬鹿にしているように思えてくる。
「たしかに赤獅子はきちんと盛り上げてから始末している」
「で、ですがっ! 客はシャーリのほうが入っております」
ローンの肯定に慌ててペデットは言葉を継いだ。なんと言われようと自分の商品がラーズのそれに負けているなど認められるわけがない。
「それはそうだ。圧倒的な強さだ。熱狂するのも当然だろう」
「ではっ!」
ローンの同意にペデットは喜色を浮かべ、その身を乗り出した。
―――そうだ。私の商品は圧倒的だ。ラーズのものになど劣るわけがない!
「赤獅子は処刑にもよく顔を出す。そこでの盛り上がりは中々だ」
「命じて下されば、シャーリにも処刑をさせましょう! それでもっと盛り上がるはずです。そうです、それがいい。シャーリの圧倒的な強さはきっと処刑を盛り上げることでしょう」
ソファより立ち上がり、ペデットは言葉を口にした。声は興奮で上ずっている。いままで思いつきもしなかったが、シャーリに処刑をさせるのは良い考えだ。年中血に飢えている獣同然のシャーリにせっつかれることもなくなり、金も入る。まったくもって一石二鳥の考えだ。思いつけば、なぜいままで思い至らなかったのか不思議でならなかった。
「ふふーふ」
が、ペデットの興奮は隣から鳴る嘲弄に堰き止められる。見れば、平生よりも深く、誰が見てもそうと分かる嘲笑をたたえラーズがペデットを見上げている。
「なにがおかしい、ラーズ!」
不快そうに見下ろして、ペデットが声を張り上げる。今度ばかりはいくらローンの手前とはいえ、怒りを押さえ込むことは難しかった。
ラーズはなにも答えない。薄笑いを浮かべ、ペデットを見上げるだけだ。
「きさっ!」
さらなる憤激がペデットの口から出ようかとした時だった。
「…………私がそれを考えないとでも思ったか?」
低く、ローンが言葉を継いだ。眉間には深くしわが刻まれ、あからさまに不機嫌だ。
「っ! いえ、まさか、そんなことは。聡明な閣下が、私ごとき思いつくことを考えられないとはとても、とても」
「世辞はいい。処刑を執行させるには稲妻は強すぎる。あれは魅せることを知らん。好き勝手に獲物を食い散らかす獣、それこそ暴虐に降り注ぐ稲妻だ。強者同士の戦いを見せる場ならば、強さは美徳にもなろう。憧れにもなろう。だが、処刑は違う。ラベルとは異なる見世物だ。そこでは台本に従うような器用さが求められる。稲妻には不可能だ。……残念だがな」
ペデットの言葉を遮って、ローンが不快そうに鼻を鳴らした。
『稲妻には不可能』
その言葉はシャーリではなく、雇い主であるペデットに当てられた言葉だ。商品の手綱も握れない無能。そうペデットを罵っているのだ。少なくともペデットにはそう聞えてきた。
―――理不尽だ。それはあまりに理不尽だ。
「そ、そんなことは……」
否定の言葉を口にしながらも、ペデットは内心で自身への不条理を嘆いた。ローンには稲妻がどのような者か分かっていないのだ。あの戦闘狂を扱うことの難しさを理解していないのだ。あれを管理できるものなどあるはずがない。
「では、しつけられるか? 稲妻に首輪をつけられるのか?」
だが、そんなペデットの嘆きなど意にも介さず、ローンは言葉を続けた。
「それは……」
―――無理に決まっているだろう!
言葉を継ごうとして、ペデットは口を閉じた。閉じることしか出来なかった。
稲妻、シャーリ・エストー。洗練された動作と美しい姿からは想像もつかない獣だ。食べたい時に食べ、暴れたい時に暴れ、寝たい時に寝る。圧倒的な強さを持つが故に許される傲慢さ。まさにあの女は、その最たる例だった。獅子など生ぬるい。あれはまさに稲妻。自分勝手に降り注ぐ自然の猛威だ。それを人間であるペデットがどうにかできるわけがない。
「責めているわけでは決してない。あの強さは異常だ。制限がなければ、いますぐエル・ラルーファで活躍できる逸材だ。だが、強いだけでは駄目なのだ。……その点、赤獅子は期待できるものがある」
「閣下!」
「ふふーふ、それはどうも」
「……勘違いはするな。現時点では明らかに稲妻の方が重要だ。だが、魅せ方も覚えていかねばならない。稲妻の、ひいてはお前の王都での未来を思うならばな」
たしなめるようにローンが口を開く。エル・ラルーファ。辺境に位置するゴードから遠く離れた王都にある夢の決闘場。剣奴を養う者ならば必ず夢見るその場所の名はペデットに冷静さを取り戻させるのに十分な言葉だった。
「それは、そうですが……」
ローンの言うことももっともなのだ。エル・ラルーファ。そこでは強さではなく、王族の誰かに気に入られることがもっとも重要なこととなる。そのためには多少の首輪をシャーリにかけられねばならないのは、まごうことなき事実だった。
「そこで、だ。……ラーズ」
ペデットが落ち着くさまを見届けたローンが、ラーズを方を向く。
「ふふーふ。だめですよ、閣下。そんなこと認められる訳がない」
ローンがすべてを告げる前に、ラーズが否定の言葉を口にした。主語を省いたその会話の意味するところがペデットには分からない。
「ダメか?」
「ダメです。死んでしまう」
「……それは困る」
言ってローンは深く椅子へともたれかかった。先の会話がなにを意味するのか。それが分からず、ペデットはおずおずと言葉を口にした。
「あの、閣下、いったいなにを……」
「すまぬがそういうことだ。赤獅子と戦わせて稲妻に魅せることを、すこしは理解してもらおうと思ったのだが、断られてしまった」
ペデットの顔を見ることもなく、ローンはそう言って謝罪する。
―――赤獅子と闘う……。
「それはっ! ……貴様、どうして」
ローンの言葉を理解したペデットがラーズに食ってかかる。売り出し中の赤獅子と稲妻の戦いだ。おそらく客足はすばらしいものになるだろう。雇い主に入ってくる金も多い。それゆえに守銭奴のラーズが、そんな対戦を断るなどペデットには信じられなかった。
「さっきも言ったろう? 死んでしまうからさ。赤獅子は大事なウチの商品だ。そう簡単に壊されては困る」
あっさりとラーズは口にする。顔はいつもどおり薄ら笑いを浮かべているが、その眼には拒絶の色がありありと見て取れる。商談でよく眼にする商談不可、まさにその顔だった。
「……望む声も多い。できれば実現したい」
ラベルの総支配人としては、よほど実現させたいのだろう。ローンが名残惜しそうにそう呟いた。
「ふふーふ、ダメですよ。閣下自身がおっしゃったでしょう? 首輪のついていない獣とのショーなど危険極まりない」
壊されると分かっていてむざむざ出品する馬鹿はいない。当然、ラーズの答えはノーだった。
その断りの最中、ラーズの視線をペデットが感じたのは勘違いではないだろう。
『あなたが、首輪をつけていれば実現できた』
そう言っているのだ。瞬間、怒りとは異なる感情で体が熱くなるのをペデットは感じた。ここまで露骨に馬鹿にされていながら、なにも言い返せないのが口惜しく恥ずかしかった。
―――閣下はどう思われているのだろうか。
体に染み付いた権力者への気遣いから、ペデットはすぐさまローンの評価を気にした。羞恥からくる後ろめたさから直視することは叶わない。顔を伏せたまま、ペデットはローンの顔をちろりと盗み見る。
「然り。ならば稲妻には適当な相手を二、三見繕っておこう。それでいいな? ペデット」
感情の灯らない権力者特有の顔そのままで、ローンがペデットの名を呼んだ。
「え、ええ……。ありがとうございます」
ローンがどのように考えているのか。一向判別のつかぬままペデットはただ首肯する。内心には訊ねたいこと、言いたいことが渦巻いている。だが、ここで迂闊に口を開けばどうなるか。それが分からない。
「それでは―――。なんだ、そのなにか言いたげな顔は?」
用件は済んだのだろう。ローンが解散の言葉を口にしようとして、止めた。すこし不快そうに曲げられた眉根のさきにはラーズの姿がある。
「ふふーふ。赤獅子の次の相手は魔物にしていただけませんか?」
「……魔物?」
ラーズの言葉をローンがいぶかしそうに反駁する。それも当然だ。魔物と闘うことなど前代未聞だ。ラベルはあくまでも人と人との戦いの場であって、魔物などという不浄なものを戦わせる場ではない。
―――この男は常識も知らないのか?
「なにを馬鹿なことを」
思わず、あざけりの言葉がペデットの口をついて出る。
「いえ、赤獅子ももうラベルでは敵なしでしょう? それでは観客たちも楽しめない。ここらでひとつ変わった見世物はどうかと思いまして……。それに魔物ならキミのところも使えるだろう? ペデット。衆人の畏怖する魔物をたやすく屠る。盛り上げが下手でも関係ない。倒すだけで盛り上がる楽な商売だ」
―――盛り上がるだと? そういうことではないだろう!
「魔物などっ」
ペデットは嘲った。ラベルに関わらずゴードの娯楽施設は国の管理下にあるものだ。魔物などという忌むべき存在をそのような場に登場させることなど、許されるものではない。一歩間違えば王への侮辱と取られてもおかしくはないのだ。利益に眼が眩んでおかしくなったか。ペデットは大いに蔑んだ。
「…………面白い」
ローンの答えはペデットの考えとは裏腹なものだった。じっくり黙っていたかと思うと、低くローンはラーズの案に頷いた。
「……閣下?」
一瞬、ローンがなにを言っているか分からず、聞き返す。聞き間違いでなければ、ローンは賛意を示していなかったか? 魔物をラベルに出すなどという愚かな案に『面白い』、と。
―――まさかそんなことは……。
「ラルーファであれば問題にもなろう。だがラベルならば問題はないか……」
ペデットの考えなど気にもせず、思案するようにローンがひとりごつ。
―――なにが問題ないのだ!
あまりのことに声を失くしてペデットは立ちつくす。このふたりがなにを話しているのか、それすら分からなくなるほどの衝撃だった。
「でしょう? 問題は魔物との戦いをどのように説明するかですが」
「それは問題ない。棄権させればよい。それでは収まりがつかぬゆえ……ということで納得もしよう」
「するかな?」
「させればよいのだ。金さえ積めばなんとでもなる」
「ふふーふ、ならば商談といきましょう。いくらで買いますか?」
「それはどちらだ?」
ペデットが呆然としている間にも話は進んでいく。もはや魔物をラベルに出すことは決定事項になっているようだった。
「むろん両方を! ……と言いたいところですが、ボクには残念ながら外への繋がりがない。魔物の手配はペデットさんにお任せしますよ。ペデットさん、魔物の手配の権利、当然買いますよね?」
「あ……。ぐ、う……」
突然話を振られ、ペデットはうろたえた。魔物の手配云々以前に、まだペデットは魔物をラベルに出すことを了承したつもりはないのだ。
―――どうする? これは大きなビジネスだ。だが下手すれば王国に居られなくなる可能性もある。
利益と保身の天秤が脳裏で揺れる。商人としては絶好の機会だ。これで魔物興行が一般化しようものなら、外との交流を許されているペデットには莫大な利益を生み出す機会となる。だが、それで王に眼をつけられれば困ったことになる。商人免許は剥奪。王都に住むという夢も失われ、最悪の場合は命すら危うくなる可能性もあるのだ。そう簡単に肯うわけにはいかない。
なにより魔物という存在がペデットは嫌いだった。あの下卑た姿もそうだが、死者が転身しているという事実がなによりもペデットに嫌悪を催させる。死者への冒涜。それはこの世の中で、ペデットがもっとも嫌うもののひとつだ。
「ペデット」
低くローンが声を発する。猛禽を思わせる獰猛な瞳がペデットを見咎める。それだけでペデットは理解した。ここで誘いを断れば、王都へ手が届く前に、このゴードでペデットの夢は朽ちてしまう。ここゴードでローン・ジャイコフの誘いを断ることは、世界を拒絶することに等しい。
「……く、いくらだ?」
ローンの威圧に負け、ペデットは値を問うた。
「金一千五百」
一瞬の間もおかず、ラーズが答える。
―――は、若造が。調子にのるなよ。
「暴利だ」
短く拒絶する。買うと決めれば仕方ない。自分の信条など投げ捨てて利益だけを追求する。どれほど脅されていようとも、利に合わない買い物をさせられるわけにはいかなかった。その点でペデットは間違いなく商人だった。
「閣下、いくらで買いますか?」
ラーズがローンに話を振る。魔物の卸値を聞き出して譲歩を引きずり出そうというのだろう。
「仕入れ値の倍出そう」
「それは!」
思わずペデットは声を荒げる。仕入れの値の倍など、まったく馬鹿げている。交渉、仕入れ、運搬などを入れて考えれば最低でも三倍は出してもらわねば割りに合わない。
「興行次第では今後ラベルでの闘い方も変わるだろう。その時にはラベルではなく、商人同士で売買してもらうつもりだが……」
渋るペデットの前にローンが飴を放る。ラベルで魔物の使用が盛んになれば、そのすべてをペデットに任せるというのだ。そうなれば、得られる利益は莫大だ。今回の赤字などすぐさま消し飛ぶほどのうまみがある。
「……金八百だ」
だが、ペデットとて商人だ。ぶら下げられた人参に眼を奪われて、眼前の商談がおろそかになることなどはない。
「ふふーふ。もう一声」
「一千」
「売った!」
ラーズの威勢のよい声が響く。ローンが書き記した契約書を受け取り、ペデットはほくそ笑む。これでラベルに魔物を卸す権利はすべてペデットのものだ。ここまでくれば王など関係ない。ただ次の興行を盛り上げ、自身の権益を広げるだけだ。
「……では、あとは権利の売買か。ペデットは下がっていい」
「……わかりました。それでは失礼を」
会釈をひとつしてペデットは部屋を後にする。ラーズの権利がどれほどで売れるのかが気にはなったが、それだけだ。長居するほどの理由はない。
「期待しているぞ、ペデット」
「ふふーふ。盛り上がるように大きくて派手なのを頼みますよ」
閉まる扉の向こう、呼びかけられる声を聞き届け、ペデットはその場を後にした。
◇
「お、ハゲ。ローンのおっさん、なんだって?」
ラベルから出て来たペデットに、最初に投げかけられた言葉はそんな暴言だった。
―――こいつは……。
「シャーリ。ローンのおっさんではない。閣下だ。失礼のないように呼べ。それと私はハゲではない。何度言えば分かるのだ」
言いながらペデットは広くなった額をなでた。たしかに若いころよりも幾分広くなったような気はするが、まだ禿げていると言われるほどではない。そのはずだ。たとえ額と頭頂の境目が分からなくなっていようと、自分は禿げているわけではない。力強くペデットは自身を励ました。
「うるっさいなぁ。ハゲはハゲだろ。いちいち小さいことを気にすんなよな。そんなんだからハゲんだよ」
変わらず汚い口調でペデットを罵りながら、手に持った串肉をむしゃりとこそぎ取る。ほんとうに容姿とは正反対なほどに下品な女だった。
「う、うるさいっ! 貴様がそんなだから閣下に小言など言われるのだ!」
「……小言? へぇ、ローンのおっさんがオレに小言かよ」
途端猛獣のようにシャーリが笑う。ローンだろうと誰だろうと関係ない。シャーリにとって自身を貶めるものはすべからく敵なのだ。
「貴様のそういうところだ。もう少し魅せ方を覚えろ、そう言っておられた」
「なんだ。それじゃあ、オレのせいじゃないな。魅せるもなにも相手が弱すぎるんだ。ほら、よく言うだろう? 一流同士でなければ舞台は成り立たないとかなんとか……。まったくなにが豪腕だっつーの。ただのザコじゃねぇか」
「おい、死者を貶めるようなことはよせ」
商人である反面、ペデットは敬虔な信徒でもあった。死者を冒涜することなど許されることではない。というのが数少ない彼の信条だ。
「はっ! いいだろ、べつに。事実だろ」
「シャーリ!」
声を張り上げペデットが怒鳴る。突如響いた怒声に引かれて、通りを幾人かが振り向いた。だが、そんなこといまペデットには気にならなかった。
「二度は言わん。死者を愚弄することは許さんぞ」
怒気で顔を真っ赤に染め、ペデットは言葉を吐いた。
「はあ、分かったよ。それでオレの次の相手は決まったのか」
やれやれとため息をつき、シャーリが頭を振った。シャーリとペデットもなんだかんだで長い付き合いだ。ペデットがこういう話題では決して譲らないことを分かっているのだろう。
―――ため息をつきたいのはこちらの方だ
そんなことを思いながら、ペデットは言葉を継いだ。
「……魔物だ」
「は? なんだって」
「魔物だ」
再度吐き捨てるようにペデットは口にした。事実を思うたびに嫌悪が胸のうちから湧いてくる。閉まっておきたかった過去の記憶とともに、魔物への嫌悪があふれ出す。依頼人がローンでなければ、どれほど利益があろうと絶対請けなかっただろう。
―――ラーズめ……。
知らず怒りの矛先は、この話を持ってきた男へと向けられる。ラーズが魔物の話などを切り出さねば、このようなことにはならなかったのだ。思えばいつもラーズはそうだ。ペデットの嫌がること、嫌うことばかりをやってくる。
―――ほんとうにむかつく男だ。
「やるじゃないか!」
落ちていくペデットの思考とは真反対の朗らかな声をシャーリが上げる。そのさまを不快そうに見咎める。
―――なにを喜んでいるのだ。こいつは……。
「やったな! これであんたの家族の仇が討てるな」
喜色満面、朗らかに笑ってシャーリが告げる。
「……は?」
―――仇だと? なにを言っているのだ。
予想外の言葉に、ペデットは言葉を呑んだ。
「なんだよ。前に言ってただろ? 魔物は仇みたいなもんだってさ」
―――仇。たしかに魔物は仇のようなものだ。
ペデットの妻と両親は魔物に殺された。それだけならばよくある話だ。悲しくもあり、恨みにも思っている。だが、この魔が圧倒的に強い世界では仕方のないことでもある。はっきり言って、この世界で魔物に殺されるのは天災に殺されることに等しい。雷に打たれたからといって、誰が雷を恨むだろうか。多くは亡くなった人間の身に起こった不幸を嘆くだけ。よくて世界を罵るのくらいのものだろう。
だから、ペデットは家族を殺されたことで魔物を恨んでいるわけではない。だが、魔物という存在を恨んでいることは事実だった。
魔物とは死者の成れの果てだ。犬でも人でも区別なく、死ねば魔物に変じる。それがペデットには許せなかった。魔物に殺された妻や親が、自分ひとり生き残った運命を呪うペデットの隣で魔物へと変わっていく様をまざまざと見せつけられた。
愛したものが醜く変わっていく瞬間を許容できるものなどいない。その上、ペデットは殺したのだ。魔物へと変じていく刹那、人の意思を持った妻たちに導かれ、彼らをその手にかけたのだ。
ペデットは死者を愚弄するものを許さない。それは死んでいった妻たちを貶めることになるからだ。そして、それ故に死んだものを弄ぶ魔物という存在を許せない。
―――だが、それが今回でどうなるというのだ。
「なんだよ、嬉しくないのか?」
意外そうな顔でシャーリが聞いてくる。嬉しいなどと思えるシャーリの方が、ペデットにとっては意外だった。
「なにを喜べというんだ」
妻たちを殺した訳でもない魔物を見世物にして殺してどうなるというのだ。それはペデットの望むものではない。ただペデットは死後、魔物となる死者をひとりでも少なくしたいだけなのだ。
「なにって、魔物は死者なんだろう? ならさ、魔物を殺してやるってことは救いだってことだろう? それは仇をとるってことじゃないのか」
―――それは……。
言われ、ペデットは眼を見開いた。
考えたこともないことだった。そうだ。魔物とは死者なのだ。弄ばれた結果として魔物がいるならば、魔物となっている死者はいまだ弄ばれているのだ。それは許されることではない。
そう思えば、たしかに魔物を殺すことは弄ばれている死者への救済だ。そしてその魔物たちをひとつずつ減らしていくことは、妻たちの仇討ちともなる。
「は、はははっ」
溢れる激情を抑えきれず、ペデットは哄笑した。
「うわっ。いきなり笑い出すなよ、気持ち悪りぃ」
変わらずシャーリが暴言を吐くが、気にならない。苛立ちなど露ほどもなく、まるで長年の悩みに解を得られたように爽快だ。
―――妻たちの仇もとれて、金も入る。一石二鳥だ。なんという、なんという幸運だ。
すでにラーズへの怒りも、王国への恐怖もない。あるのはただ喜びだけだ。
―――不本意だが、感謝してやるぞ、ラーズ。貴様の赤獅子にふさわしい魔物を選んでやろう。
「神よ。いまほど私は商人であったことを感謝したことはありません」
恍惚とした表情を浮かべ、商人ペデット・ディーンははじめてラーズに感謝した。