そして少年は『ありがとう』の痛みを知った
◇
「ふふーふ。はじめての処刑人役はどうだった?」
戻ってくるなり、ラーズはそんなことを聞いてきた。顔はいつもどおり薄ら笑いを浮かべている。
「………」
ラビシュは応えることなく面を取り、染みた血と汗をぬぐった。
「いやなかなか才能がある。お客はみな満足していたようだったよ。こちらの要望にもきちんと応えてくれたしね」
ラビシュの無言など気にすることもなく、ラーズは言葉を継いだ。
「……賭けは勝ったのか?」
「ふふー、もちろん。この通り胴元のひとり勝ちだ」
どっぷりと膨らんだ麻袋を手にしてラーズがにこりと微笑んだ。さすがに二つ残るという考えをする人間はいなかったのだろう。いや、どちらにしろラーズが誰も賭けていないものを選ぶのだから当然の結果だった。
「こういうのはまたあるのか?」
血にぬれたシャツを脱ぎながらラビシュは聞いた。白かったはずのシャツは血でまだらに汚れている。洗濯が大変だなとラビシュは小さくため息をついた。
「ああ、また頼むよ。結構いい仕事をするからな、君は。だが、今度からは鎧はもう少し丁寧に扱ってくれよ。結構高いんだ」
面を真っ二つにしたことに苦言を呈しているのだろう。ラーズは困ったように笑いながらラビシュに言った。鎧はさすがに請求されることはないようだ。
「適当にくっつけて使えばいいだろう? どうせまた壊れるんだから」
「ふふーふ! たしかにその通りだ。ではそうすることにしよう。持って行ってくれないか?」
なにが楽しいのか、ラーズは嬉しそうな声でそう応じた。
「置いておけばいい。どうせタリクに頼むんだろう? そろそろやってくるころだ」
タリクのことだ。また剣のメンテナンスでラビシュのところへやってくるだろう。その時に鎧のことを併せて頼めばよいと思っていたのだが、ラーズの考えはちがうようだった。
「ふふーふ、今日は来ないよ。こちらから行くと約束しておいたからね」
「そうなのか。着替えたら行こう」
いつもとは異なるその対応に若干の違和を抱きながらもラビシュは頷いた。
「ふふーふ、頼むよ。鎧と一緒に渡して欲しいものもあるからね。表に荷車を出しておく。持って行ってくれ」
そう言い残してラーズは部屋を後にする。
―――ねぎらいもなしかよ。
ラビシュは内心そう毒づいた。分かっていたことではあった。ザノバと命をかけた時でさえもラーズはラビシュをいたわったことなどなかったのだ。その変わらぬ対応が教えてくれる。ラーズにとってのラビシュは結局のところそういうものでしかないということを。
―――俺は、なにを期待していたんだ。
三月という期間はラビシュに変化はもたらしたが、ラーズにはなにももたらさなかった。ただそれだけのことだ。そして、ラビシュは理解した。この関係はどこまでいっても決して変わらぬ類のものなのだ。
「ラビシュ」
扉に手をかけた姿勢のまま、ラーズがラビシュを呼んだ。振り返ることはしない。振り返ればラーズに悟られてしまうだろう。いまラビシュがどのような気持ちでいるのかが、ラーズに分かってしまう。それはひどくいやだった。
「なんだよ?」
暗く感情を押し殺してラビシュは聞いた。
「ふふーふ、今日の報酬はタリクから受け取ってくれ」
「……わかった」
最後まで事務的な連絡に終始してラーズは部屋を後にした。
◇
「タリク。いるか?」
タリクの工房兼店舗ヒッグホッグの門口からラビシュはそう呼び立てた。前回辟易とさせられた匂いは今日も健在だ。どうやら常時この悪臭はしているらしい。
―――これじゃあシスが来るのもいやがるはずだ。
前回のシスの態度を思いだしながら、ひとりラビシュは納得した。
「おお? らびっしゅクンじゃないカ? てっきりラーズかシス氏がくるものだと思っていたヨ」
ひょっこりと奥から顔を覗かせてタリクが意外そうに言う。その様が異常に幼く見えてラビシュは一瞬言葉を飲み込んだ。
「……ラーズに頼まれたんだ。鎧の修理をしてほしいって」
「きし、しし。らびっしゅクンもだいぶ信用を勝ち取ってきたらしいネ。まあ無理もないカ。今日の処刑っぷりはとってもよかったからネ」
「信用? 冗談だろう」
嫌そうな顔をしてラビシュは言葉を返した。
前であれば喜んだかもしれない言葉だったが、いまは違う。ラーズがラビシュをどう思っているのかはさっき思い知らされてきたところだった。
「きしし。信じられない、って顔をしてるネ」
「……」
薄ら笑いを浮かべながら、タリクがラビシュの横を通り過ぎる。外に止めてある荷車を見に行くのだろう。その様を無言で見送り、ラビシュも後へと続いた。
「きしし、やっぱり君の剣術はなかなかだネ。こんなにきれいに寸断されていると接着も楽だヨ」
真っ二つになった兜の切断面を見ながらタリクがため息混じりに言葉を口にする。
「次も使うから完璧な出来じゃなくていい」
「ふへ。さすが守銭奴。……一気にやる気なくなったヨ」
壊れるものは造りたくないと云うだけのことはある。ラビシュがそう言った途端、タリクは面白いほどにやる気を失っているようだった。
「それとこれも渡すように言われたけど、これはなんだ?」
ラビシュは荷車に積まれたいくつかの壺を指差した。鎧よりも重く、運ぶのは骨が折れそうだった。
「死体だヨ?」
なんでもないように壺の中身を確認し、タリクが言う。
「死体?」
「そうだヨ。キミが殺した……ランドルって人だネ」
言いながらタリクは壺の中を指差した。ラビシュは一歩近づいた。先ほどまでタリクの店の悪臭にまぎれて嗅ぎ取れなかった独特の鉄くささが鼻をつき、目には赤と黒にまみれた肌色が映っている。それはたしかにばらばらにされた人間の亡骸だった。
「なっ!」
持っていた鎧の腕が落ちて甲高い音を響かせる。さすがのラビシュもこんな形の死体と出会うのははじめての経験だった。
「きしし。毎度のことながらエッグイ光景だヨ。とりあえずコレを運び込んでくれるかな、らびっしゅクン。話はそれからサ」
にんまりと微笑んでタリクは言い、そのまま店舗の中へと入っていった。
「……運ぶのかよ、これを」
辟易とした思いを呟いてラビシュは二つの壺を見つめた。さきほどまでなんの変哲もなかった壺は、いまでは触るのもいやなほどおぞましいものに変わっていた。
「アレは武器屋には必須のものなのだヨ」
ラビシュがすべてを運び終えて椅子に腰掛けるなり、タリクはそう言葉を発した。場所は店舗部分ではない。その奥にあるタリクの工房内だ。槌に炉、鉱物に冷却水、磨粉などがきれいに収まった工房の片隅にさきほどラビシュが運んできた壺がふたつ仲良く並んでいる。それを見つめながらラビシュはタリクの言葉に耳を傾けた。目を離せばなにか恐ろしいことが起こるのではないか、そんな恐れがあったからだ。
「試し切りとか色々と使い道はあるんだけどネ。……前に人用、魔物用の武器の話をしたことがあったネ。魔物の血に宿る毒、正確には魔素を弾くコーティング剤は人の血液と一番相性がいいんだヨ。だから、多量の血液が必要でネ。ラーズにはその辺色々融通してもらってるってわけサ」
「そう、なのか」
武器のことなど分からないラビシュは、タリクの言葉にあいまいに頷いた。専門の人間に必要なのだと言われれば頷くしかないが、心情では否定的だった。死体を使って武器を造るなどおぞましくて仕方ない。
「ここの匂いは強烈だろウ? 血に色々と混ぜるからネ、その匂いなんだヨ。だからシス氏なんかはここが大嫌いなんだろうサ」
シスが嫌がるのももっともだ。ただでさえ鼻が曲がるほどの悪臭なのに、それが死臭だと分かればなおさらイヤにもなる。
「俺も嫌いだよ」
「そうかイ。好き嫌いはどうしようもないネ。マア、武器に一度血を飲ませておくと宿主の血を欲しがらないっていう俗信もあってネ。その辺でも人の血液ってのは結構業界じゃ当たり前のように流通しているものなのだヨ」
拍子抜けしたような顔をしてタリクは応じた。ラビシュが嫌いだろうと好きだろうとどうでもいいという態度だった。事実、タリクにとってはどうでもよいことなのだろう。
「血を欲しがらない?」
「もちろん比喩だヨ。ぼく様たちの業界で真新しい武器を持った人間が死ぬと剣が血を欲しがったからだ、なんて言うんだヨ。まあ、魔剣と関係があるんだけど、詳しくは知らないネ」
魔剣。興味を惹く言葉だったが、ラビシュは無言でその言葉を受け流した。そんなものよりも確認したいことがあったからだ。
「……ラーズはこんな商売をずっとやってるのか?」
重い口調でラビシュは問うた。期間が問題というわけではなかったが、できれば最近はじめたことであって欲しかった。
「きしし、ラーズとは三年ほどの付き合いだネ。いままでで一番いいモノを卸してくれているヨ。血液ってのは新鮮でなければ凝固してしまうからネ。そうなると上手く溶け合わないのサ。その点ラーズは殺した先から持ってきてくれるから、助かっているヨ」
タリクいわく、血液が一度凝固してしまうとコーティング剤との融和が上手くいかず、血液溶解剤を投入しなければならないのだそうだ。そうなると質が随分と落ちるらしい。
「タリクは、なんとも思わないのか?」
「ふへ? なにをサ?」
ラビシュがなにを聞いているのか分からないのか。不思議そうにタリクが首をかしげた。
「死体を使うことにだよ! 申し訳ないとか、そういうこと思わないのか?」
「なんでそんなことぼく様が思わなきゃいけないのサ?」
「だって、お前!」
机を叩き、ラビシュは大声をあげた。
こんなことを聞かねばならない状況がラビシュには信じられなかった。
「きしし、おかしなことで怒るんだネ。死体はどこまでいっても死体だヨ、らびっしゅクン。死ねばそれで終わりサ。それを有効活用していったいなにが悪いのかナ?」
ころころと笑いながらタリクが言葉を告いだ。死体はものだ。ゆえにそれを使うことになにか悪いことがあるのか。タリクはそう言っているのだ。それはラビシュにけっして理解できない、いや理解したくない考え方だった。
「さっきまで生きていた人間をそんな風によく言えるな」
「キミはシス氏と同じようなことを言うんだネ」
面白くなさそうにタリクがラビシュを見た。
「シスと?」
心臓が一度つよく脈打つのをラビシュは感じた。シスがこのことをどんな風に考えているのか。それを聞くのがすこしだけ怖かった。
「はじめに出会ったとき、シス氏もそんなことを言っていたヨ。人の死をなんだと思っている、とかなんとか……。ぼく様には理解できないヨ。死体はどこまでいっても死体であって、生きているわけじゃないのにネ……」
期待通りのシスの言葉を受けて、ラビシュは内心喜んだ。タリクやラーズのことは分からないが、シスだけは自分と同じ感覚を共有しているのだ。
「死体を弔う人たちだって、家族だっているだろう! その人たちの気持ちを考えたら分かるだろう?」
シスの話に勇気づけられラビシュはタリクに言葉を返した。自分の感覚が間違っているとは思えなかった。やはり死体を弄ぶような行為は許されるべきではない。
だが、その後に継がれたタリクの言葉は、ひどくラビシュを狼狽させた。
「きしし! その点は問題ないサ。家族の許可はもらっているヨ。ぼく様がラーズを重宝するのは正にその点だからネ」
「な……」
―――いまなんて……。
ラビシュは呆然としたまま、タリクを眺め見た。知らず、体は震えている。そのラビシュの様を愉快そうに眺めながら、ラビシュは言葉を続けていく。
「ラーズはきちんと家族に了承をとってからぼく様に卸しているヨ。前のやつらの時には多少強引に死体を造ったりしていろいろ面倒ごとに巻き込まれたこともあったからネ。ラーズのようなきちんと手続きをしてくれる商人はぼく様にとっては得がたいやつなのサ。……少々割高だがなのが玉に瑕だがネ」
「……家族が死体を売ってるとでも言うのか」
湧き出る嫌悪感を押さえながら、ラビシュはようやっとそれだけを口にした。
「そうだヨ。本来死体の所有権は家族にあるからネ。あとは家族のない人間をラーズが買い取って合法的に殺すこともあるネ。まさにキミがそうだロ? らびっしゅクン」
「はっ、はは。まじかよ……」
渇いた笑いがついて出る。あまりのことにラビシュには笑うことしか出来なかった。家族が家族の死体を売るなどあんまりだ。あんまりにもひどすぎる。
「それほど驚くことでもないと思うけどネ。動物だって腹が減れば死体も食うシ、共食いだってするヨ。それと同じサ。みんな生きるためになにかを犠牲にして生きている。それを示すヒトツの例、たったそれだけの話サ」
「……俺は……」
「少なくともキミに文句を言う権利はないと思うけどネ。ザノバもグルックも、そしてそこにいるランドルもキミが殺して、ここにやってきたんだヨ」
「それは……そうだ」
奥歯をかみ締めながらラビシュは応じた。タリクの言う通り、ラビシュに文句を言う権利などなかった。いまランドルがふたつの壺に収まっているのは、ラビシュが殺したからなのだ。それを忘れて、死体を云々など言い出す権利などもとよりラビシュは持っていなかった。
「そうダロウ? キミは理解が早くて助かるヨ。ラーズが手元に残しているのもすこし分かるネ。……これが報酬だヨ。そしてこっちが遺族への支払イ。キミから渡しておいてくれヨ」
タリクが硬貨で膨らんだ巾着をふたつテーブルへと置いた。いったいいくらの金が入っているのかは分からなかったが、手のひらに収まる程度の袋に、ランドルのすべてが入っているのだと思うとなんともいえない気持ちになった。
「俺が渡すのか……」
力なくテーブルに出された巾着を見つめ、ラビシュが呟いた。遺族となどどのような顔をして会えばいいのか。会いたくもなければ、家族の死体を売るようなやからの顔も見たくはなかった。
「それも仕事のうちサ。えーと、たしかラベルの近くの宿屋兼食堂を営んでいる店で、ケラという名の女店主だネ」
「ラベルの近くの……。それってまさか……」
―――クラウの店……。
昼間に会った少女を幻視する。ラベル近くの宿屋兼食堂で女店主といえば、クラウの母親の営む店しか心当たりはなかった。
「きっ! し、ししし。知り合いかナ。なるほどラーズがどうして今日キミに頼んだか、ぼく様もよく理解できたヨ。変わらずいい趣味をしているネ」
「……ラーズッ!」
鋭くラビシュは言葉を吐いた。続く感情も言葉もあったが、あまりの激情にうまく言葉として現れない。ただラビシュがどう思っているか。それだけは誰が見てもわかるほどにラビシュの顔はゆがんでいた。
「きしし、いい顔だネ。次のラベル楽しみにしているヨ」
楽しそうにタリクは微笑んだ。幼さなど感じさせない艶やかな笑みだった。
「あんたもラーズもクソッタレだ」
吐き捨てるようにそう言って、ラビシュはいきおいよく席を立った。手には巾着が握られている。
―――いっそぶち投げてやろうか。
そんな考えが一瞬脳裏をよぎったが、止めておいた。投げるにしても、それはタリクが相手ではないだろう。もっと投げるにふさわしいやつがいる。
「きしし、誉め言葉をありがとう。らびっしゅクン」
タリクは満面の笑みを浮かべ、そう礼を述べる。
「はっ」
そのさまがあまりに不愉快でラビシュは思わず失笑した。かつて言われた『アリガトウ』とは違う。その日の礼はいつまでも不快に耳に残る『ありがとう』だった。
◇
「……誰だい?」
扉を開けて出てきたのは三十になろうかというくらいの女性だった。少し釣り目がちな目がきつい印象を残す以外は整った容姿をしている。
「あんたは……。ここ最近クラウと話している」
女は不思議そうに首をかしげ、ラビシュを見下ろした。その顔には意外と不審が浮かんでいる。
―――ああ、ほんとうだったのか。
クラウの名が出た瞬間に崩れそうな脱力がラビシュを襲う。ランドルがクラウの関係者ではないのではないかという願いははかなく散った。やはりこのクラウの母がランドルの妻で間違いないようだった。
―――こんな人が自分の夫を売ったのか……。
まじまじとラビシュはケラの顔を眺め見た。ラーズのような薄気味悪さもタリクのような不気味さもない。どこまでも普通の人だ。店で見ていたときもどちらかといえば快活に笑うほがらかな人だった。
「なんだい? そんなにジロジロ見て……。それになんで裏から」
怪しむようにケラが言葉をつむぐ。それも当然だ。いつも表からやってくる客のひとりが裏手からやってきたのだ。不審に思わぬほうが変だろう。
「……ランドル」
すべてを伝えたかったがなぜか声は出なかった。喉を絞るようにして震える声でラビシュはそれだけ告げた。
「っ!! ……あんた、あいつのなんだい」
ランドルの名前が出た瞬間、ケラの雰囲気が一変した。不審は猜疑へと変わり、態度は硬質でけっして弱みを見せぬという覚悟がありありと見て取れた。ひどく警戒しているようだった。
名前が出るだけで急変するほどに、ケラにとってはランドルのことは鬼門なのだろう。いったいどのようなことがあったのか。聞きたい衝動を必死に押し隠して、ラビシュは言葉を返した。
「ラーズから金を預かってきた。……ランドルの」
「死んだのかいっ!」
ラビシュの言葉を聞くなり、そう大声でケラが確認した。店の中にも聞えたのだろう。店内がすこしざめつくのが聞えてきた。
「……っと、まずいね。それで死んだのかい? あいつは」
一度店内のほうへと視線をやり、ひっそりとした声でケラが確認した。
なにかを期待するような声と目をしている。その眼にはうっすらと涙のようなものが浮かんでいたようにも見える。ラビシュには少なくともそう思えた。
―――あ、まさか……。
一瞬、どきりと心臓が脈打った。それは期待と恐怖という相反する感情だ。タリクやラーズの話が嘘で、ほんとうはケラはランドルの死を悲しむのではないかという期待と、そしてそうであるならば自分はケラに恨まれるのだろうという恐怖だった。だが、ラーズたちの言葉が否定されるならば、自分はいくらでも罵倒されてもかまわない。ラビシュは思った。
「そうだ。死んだ。それで死体をタリクの店に卸したから、その分の代金を持ってきたんだ」
今度は言葉に詰まることはなかった。ケラがどう思っているのかが知りたくて、早口でまくしたてる。
「そうかい、死んだのかい」
悲喜のはっきりしないあいまいな言葉を吐いてケラがラビシュの方へと手を出した。
「え?」
それがなにを意味するのか分からず、ラビシュは呆然とそう返した。
「金だよ。持ってきてるんだろう?」
「あ、ああ……」
ポケットから巾着を取り出して、差し出されたケラの手へと載せる。
「は! こりゃ結構いい値で売れたね」
じゃらじゃらと巾着の中の金貨をいじりながら、ケラが笑顔でそう言った。ラビシュはその様を呆然と見ているだけだ。
―――信じられなかった。いや、信じたくはなかった。
「うん、なんだい? まだなんか用でもあんのかい?」
応えることもなく呆然とラビシュがケラを見上げていたからだろう。面倒そうな顔をしながらケラが問う。
「……かなしくは、ないのか? ランドルはあんたの旦那―――家族だったんだろう」
「悲しいなんて、はっ! そんなことあるわけないじゃないか。あんな借金こさえるようなクズ! 死んでくれて最高さ」
「そう、なのか……」
空ろな態度でそう相槌を打ち、ラビシュは歩き出す。行くあてなどなにもなかったが、もうこれ以上ケラと話しているのは耐えられなかった。
「ああ、そうだ。ボーヤありがとうね。ラーズに『どうぞまたよろしく』って伝えといてくれよ! 頼んだからね」
去っていくラビシュの背に、ケラがそう言葉をかけた。振り向くこともなく、ただ右手を力なくあげてラビシュはその言葉に応じた。
―――『ありがとう』、だって、よ。俺が殺したのにな。
「ハ、ハハ……」
知らず口からは力のない笑い声が漏れ出した。それはいったいなにに対する笑いだったのか。それすら分かりはしなかったが、いまはその笑い声にすら縋りたい気持ちだった。
◇
「スラムか……」
あてどもなく歩き続けたラビシュは、知らず東の居住区の果て近くまでやっていきていた。スラムと通りひとつで接する場所だ。舗装もされてない道路から沸き立つ砂煙でしろく濁った中に灯の光がぼんやりと浮かんでいる。
ひどく懐かしい光景だった。住んでいる時にはイヤで仕方なかったざわめきが、いまはすこしうらやましい。
空はすでに暗く、街はか細い明かりで照らされている。本来なら夕食の支度でもしている時間だったが、いまはラーズたちのところへとは戻りたくはなかった。
「あれ、もしかしてラビシュくん?」
「……クラウか」
―――まさかいまここで会うなんてな。
ラーズたち以上に会いたくない少女といまここで会うことになるなんて、どこまでもクソッタレだな。ラビシュは思った。
「どうしたの? こんな時間にこんな処にいるなんて」
「……べつに。仕事の帰り。クラウは?」
そっけなくラビシュは言葉を返す。さきほどのこともあって、知らず言葉は重くなる。
「……私もお仕事。この辺の配達もやってるんだ」
言葉を濁してクラウは答えた。その態度がすこし気になったが、なにも聞かなかった。いまはとても会話をするような気分ではなかったのだ。
「帰らないの?」
言葉を発したきり動こうとしないラビシュを覗き込みクラウが問うた。
「いや、帰るよ」
帰りたくはなかったが、いつまでも帰らぬわけにもいかなかった。どんなにいやがろうとラビシュにとっての居場所は、いまはあそこに以外にありえない。
歩き出したラビシュのあとをクラウがとてとてとついてくる。夜は多くの店がしまるため、人通りはまばらだ。時々酔人がふらふらと通り過ぎていくほかはなにもない。
時折クラウがなにか言おうと口を開いたが、そのたびにラビシュは歩く速度をあげて言葉を発させなかった。ひどく卑怯だと思ったが、どうしても会話をする気にはなれなかった。
「じゃあ、またな」
結局ラビシュが再度言葉を発したのは、クラウの店の近くまできたときだった。
「…………うん」
そう小さく頷いが、そのままクラウは動こうとはしなかった。ただ泣きそうな顔で明かりのともったクラウの家を眺め見ているだけだ。店の一階はすでに明かりが落ち、二階の一室だけが明るかった。今日は宿泊客もないのだろう。
「なんかあるのか?」
「……ラビシュくんは、この街が好き?」
いまだ店を見上げたまま、唐突にクラウがそう切り出した。
「大嫌いだ」
ためらうことなくラビシュは答えを返した。ほんとうに心の底からこの街がきらいだった。
「私も嫌い」
振り返り、まるでなにか秘め事を告げるかのようにクラウが微笑んだ。いつもの明るい笑顔とは程遠い冷めたような顔だった。それがあまりに以外でラビシュは言葉を失った。
「お母さん、好きな人がいるの。だから、もうお父さんはいらないんだって」
小さく、けれどはっきりとクラウはそんな言葉を口にした。
「新しいお父さんなんて連れてきて、仲良くしなさいって言うんだけど、無理だよね。私のお父さんはひとりだけだもん」
力なく言って、クラウは微笑んだ。
―――ああ、そういうことかよ。
おぼろげではあったが、クラウの母がランドルを売った理由がわかってきた。新しい男と結ばれるために、邪魔だったランドルを合法的に処理したのだ。もしかしたら、借金云々の話すら計画されたものであったのかもしれない。
「クソッタレだな」
今日見たクラウの母親を思い出しながら、ラビシュは思わず毒づいた。
「……くそったれ?」
言葉の意味が分からなかったのだろう。クラウが小首をかしげてラビシュに聞いた。
「最低、最悪ってことだ」
「くそったれ……。くそったれ」
まるで自分の感情を確かめるように、クラウが反芻する。その様を見ながら、ラビシュは内心で自分自身を毒づいた。
『私のお父さんはひとりだけだもん』
そのひとりだけの父親―――ランドルを殺したのはラビシュ自身なのだ。クラウをクソッタレな状況に追いやった一因はラビシュにある。だれかの命を奪うことが、その関係するだれかの悲しみに繋がることは知っていた。だが、実際に見るのと見ないのとでは話が違う。
「……これ、やるよ」
ラビシュは首から金貨の首輪を外してクラウへ差し出した。
「これ、なに?」
差し出された首輪を受け取りながら、クラウが訊ねる。
「幸運の金貨なんだって、これを持ってるといいことがあるらしい」
正確にはラベルで勝ち残れるというものだったが、ラビシュはその辺をごまかした。ラベルで勝つということは運も影響するのだ。畢竟間違ったことは言っていないだろう。
「いいの?」
「問題ない。俺には必要ないからな」
クラウになにかしてあげたかった。それが罪滅ぼしであることをラビシュは頭の片隅で理解していたが、いまはできるだけ意識しないようにしていた。
「でも……やっぱりもらえないよ」
ためらいがちにクラウはラビシュの手へとそれを返した。
「なんで? 俺はぜんぜんかまわないんだぜ」
ラビシュは返された金貨を受け取ることなく、そう言い返した。遠慮などではなく、本心からクラウに何でもよいから受け取って欲しかった。
「……だって、金貨なんて持ってたら取られちゃう」
小さく消え入りそうな声で言われ、愕然としながらラビシュは金貨を受け取った。客として行っていた時にはまるで気がつかなかったが、クラウの扱いは相当ひどいものらしかった。
「ほかには? ほかにもなにかあるだろう? 俺に出来ること、どんなことでもいいんだ」
クラウの手をとってラビシュはそう早口にまくし立てた。
「ふっ、ふふ。……ラビシュくんは優しいね」
ラビシュのあまりの必死さにおかしくなったのか、クラウが声をあげて笑った。
―――俺は優しくなんて……。
「じゃあ、時々こうして夜お話聞いてくれる?」
いたずらっぽく言って、クラウがはにかんだ。その顔はいつも店で見るクラウの笑顔そのものだった。
「ああ、そんなんでいいなら、毎日でも聞くよ」
「毎日は困るよ。でも、ありがとう、ラビシュくん」
にこりと微笑んでクラウが言う。
その笑顔が、その言葉が、『ありがとう』がひどく胸に突き刺さる。あまりの痛さにラビシュは思わず顔をそらした。
クラウの父親を殺したのは自分であり、これはただの罪滅ぼしなのだ。感謝されることなどない、ただの罪悪感からくる贖罪だ。自分勝手で押しつけがましいクソッタレな感情であり、行為だ。
―――すごい醜い感情だ。クソッタレなのは俺だ。
だが、言うことは許されない。クラウの父を殺したことなど言えるはずがなかった。クラウに泣かれるのも、罵倒されるのも、嫌われるのもいやだった。だから言えないし、言わない。
怪我をしているわけでもないのに胸の辺りがシクシクと痛んだ。クラウが笑うたびに、胸がきゅうきゅうと締めつけられる。
―――ああ、これが痛いってことなんだ。
満天の星輝く空の下、ラビシュははじめて『ありがとう』の痛みを知った。