そして少年は『 』の痛みを知る
◇
「いやな空だ」
紫に染まる空をラビシュは仰ぎ見た。夕闇に染まりゆく紫の空は、ラビシュの抱く侘しさを一層強く駆り立てる。
ラベル・ワン。今日もすでに一度立った場だ。だが、そこに到る思いはまったくの別物だった。生き残ることへの焦燥も渇望も感じない。当然だ。これからラビシュの向う場所に命の危機など露ほどもない。あるのはただの見世物だ。
わずか三月前には立場を異にして自分がいた場所。言ってしまえば、いまのラビシュの原点ともいえる。そこへふたたびラビシュは戻ってきたのだ。
───嬉しくもなんともないけどな。
花道へと到る桟道でラビシュは大きく息を吐いた。
ザノバを殺した時とは違う。前回は生贄の羊だったが、今回はラビシュがザノバの役を背負うのだ。残虐に悪逆に、見世物を見に来る性悪な客たちに魅せつける処刑人。それが今回のラビシュの役回りだった。
「チッ」
ラビシュは大きく舌打ちし、自身の首へと手をかける。すでにザノバの時に巻かれていた首輪はなく、シスにもらった金貨の首輪があるだけだ。けれど、ラビシュはあの頃よりもさらに不自由になった。目に見えない鎖が全身を縛りつける。解く方法など思いつかぬ重く息苦しい鎖だ。
「行くか……」
どこまでも息苦しい鎖を感じながら、ラビシュは黒い獅子面を手に取った。大口を開け、ラビシュを睨むその両眼を見据え、ラビシュはふっと破顔する。
―――いまだけはこれに感謝するよ。
その揺れる心を覆い隠すように、ラビシュは獅子面を身につけた。
◇
日が沈みかけた薄暮にも関わらず、ラベルは人で溢れていた。仕事終わりの人間もいるからだろう。通常のラベルよりももっと多くの人間が詰めかけている。手には屋台で買った肉や飲み物を持ち、それぞれが楽しそうに歓談している。
「おおおっ! 出てきた出てきたぁ! ラベルを騒がすうわさの新人!! 今日は処刑人としての登場だ!!」
アフロ頭が特徴的なジゼットのアナウンスに続いて、待ちわびた観客たちが花道を行くラビシュを出迎える。
「はっはぁ! 赤獅子ィ! 期待してるぞ!!」
「派手なショーを見せてくれ!」
投げかけられる言葉をことごとく無視してラビシュは舞台の中央へと進み出る。相手となるランドルはまだ現れない。ラビシュは剣を地へと突き刺して、じっとその現れるのを待った。
途中、望遠レンズで舞台を覗くタリクの姿が目についた。五人分のスペースはあるやぐらをひとりで貸しきって、棒に刺さった肉を食みながら、楽しそうにラビシュを見ている。
「ようやっとの今日の生贄の登場だ!! 赤い獅子を呼び起こすことなく、生贄は無事生還できるのかっ!!」
ジゼットの言葉を受けて、ラビシュは下げていた顔を上げやってくるランドルを見据えた。
いったいどこで手に入れたのか。ラベルでもめったにお目にかからない立派な鎧を身に着けてがしゃがしゃと不器用にやってくる。手にはラビシュの剣の三倍のリーチはあろうかという長さの槍を持っている。
「ラーズか」
ラビシュは小さく呟いた。ランドルに用意できるわけはないのだ。ラーズが舞台をより盛り上がらせるために用意したものだろう。
「は、ははっ! 本当にラーズの言った通りだ。随分小さいな!」
舞台の中央までやってきたランドルが嬉しそうな叫びを上げた。
―――それでお前の勝率が上るわけじゃないけどな。
喜ぶランドルを横目にラビシュは小さくため息をついた。おそらくラーズに色々と吹き込まれたのだろう。嘲りに震える声がいまのランドルの考えていることを容易に教えてくれる。
「……もういいのか?」
にへらとだらしない笑い声を上げるランドルに向ってラビシュは静かに訊ねた。試合とは違う。本来は処刑人であるラビシュのほうから動くものだったが、あえてランドルに訊ねた。訊ねなければ動けないほどに、ラビシュの覚悟は定まっていなかった。
「え? そうだな……。すこし待ってくれ、よ!」
言ってランドルが勢いよく地面を蹴り上げた。
「おおっ!!」
思いがけないランドルからの奇襲に観客がいっせいにどよめきをあげる。
「死ねっ!!」
巻き上がった砂にまぎれランドルが槍を力いっぱい振りまわす。だが、ラビシュには届かない。冷静に穂先を見極め、届かぬぎりぎりの距離へと後退する。
「ぐっ! ちょこまかと」
ラビシュの方へ向けてランドルが闇雲に槍を振る。それをあえてぎりぎりの距離で避けながら、ラビシュはため息を吐いた。
―――この程度じゃ当たることはないな。
すでにラビシュはラベルで五回の戦いをこなしている。ザノバと闘った時ならいざ知らず、いまはもう素人の適当に振る槍になど当たるはずがない。交わして剣を振れば、それだけでこのくだらない見世物は終わるだろう。
「く、くそっ」
だが、それでは拙い。あんまりあっさりと終わってしまっては観客たちが納得しない。
「なにやってんだ! 赤獅子!! 俺たちゃ、お前の処刑を見に来たんだ!」
ラビシュの予想通り方々から野次が飛ぶ。いくらラビシュがぎりぎりで槍を交わし、熱戦と錯覚させようとしても観客には分かるのだ。それほどの圧倒的な差がラビシュとランドルの間には存在する。
『分かっているね? ラビシュ』
―――やはりやるしかないのか……。
脳裏に浮かぶは事前にラーズより告げられた言葉だ。ラーズとしてはランドルの生死など問題ではない。ただランドルを使ったショーを盛り上げることだけが問題だ。
「……分かってるよ」
短く叫び、振られた槍を交わしてランドルの懐へと勢いよく踏み込んだ。
「うわっ!!」
急に目の前に現れたラビシュに驚き、ランドルが情けない声を上げる。それを聞き届けながら、ラビシュはランドルの着ている鎧の胴へ剣を走らせた。
「なっ!」
どすっという音を立ててランドルの銅を覆っていた鎧が落ちる。
「まずひとつ……」
「んんっ、きたぁああ!! 稲妻のような一撃っ! これぞ赤獅子の剣! 目にも止まらぬ電光石火でランドルの鎧を剥ぎ取ったぁあ!!」
待ちかねたように実況が声を張り上げる。それに併せて観客の声がラベルを揺らした。
「カウントダウンだっ!」
ラベル中に響くようにラビシュは声を張り上げ叫ぶ。
「か、カウントダウン……」
呆然とランドルはラビシュの言葉を繰り返す。そのランドルにラビシュは剣を突きつけ、再度ラベルに響く大声を張り上げた。
「お前の鎧をすべて剥ぎ落す! その身を守る鎧がひとつ残らず落ちた時、それがお前の最後の時だっ!!」
―――クソッタレが。
内心毒づきながらラビシュはそう大声で宣言した。
一撃で殺してしまうほどの力の差があり、相手の攻撃を受けるだけでもだめならば―――『じりじりと追い詰めて殺せばいい』
脳裏に浮かぶは、やはりラーズの言葉だ。ほんとうに人の命を見世物の出し物程度にしか思っていない言葉。ランドルに厳重に鎧をつけさせたのもこのためだけに違いない。
「ふ、ふざけんなっ!!」
「オオオオオオオオオオオッ!!」
文句を言うランドルの声を観客の歓声がかき消した。
「まさかの赤獅子からの宣言が飛び出したっ!! これで俄然面白くなってくるっ! はっはぁ! みんな一気にゴキゲンだ。あーっと、あっちでは最後に残る鎧の部位で賭けが始まってるようだぜ!」
エキサイトした実況の声に導かれ、ラベルを見渡すとやはりいた。ラーズが薄ら笑いを浮かべたまま、嬉々として賭けの銅元をやっている。
「ほんとうクソッタレだ」
溜まった感情を吐き出すように短く口にするとラビシュは思い切り走り出した。ラーズに言われたことはすべてした。あとはただ終わらせるだけだ。できるなら、はやく済ませてしまいたかった。
「は、く、くるなぁ!」
半狂乱になったランドルが槍を振り回す。
―――これはどうすればいんだろうな?
思いながらもラビシュの剣はすでにランドルの槍を三本に切り分ける。そのままの勢いで槍を掴んでいたランドルの右手甲を剥ぎ落とした。
「これでふたつ」
「ひいぃっ」
短く叫びをあげながら、ランドルがラビシュから逃れるように反対方向へと走る。それを後ろから追撃して、逃げるためにあげられた右足からきれいに鎧を剥ぎ取った。切られた衝撃でバランスを崩したランドルが腹から地へと倒れこむ。その様を見つめながら、ラビシュは無感情に呟いた。
「……みっつ」
「はあ、あああ。ラーズのやろうっ! は、話が……話がちがうじゃねぇか……。ラーズのクソッタレがっ!!」
腹這いの姿勢のまま、恨みがましくランドルがラーズを罵った。その言葉に腹中で同意しながらラビシュはランドルの腹を蹴り上げる。
「ぐぶぅふっ!!」
胃の中のものを多量に吐き出しながら、ランドルの体がくの字に曲がる。鎧を剥ぐだけではだめなのだ。たとえ不本意であろうとも痛めつけなければ観客は喜ばない。
「おおおおおっ!! いいぞ! 赤獅子!! 殺しちまえっ!!」
事実、さらに熱を帯びた観客たちの声がラベル・ワンいっぱいに鳴り響いた。
「かはっ、が、は、はあぁ……」
ぜいはぁと辛そうに息を吐きながら、ランドルはなんとか体を起こした。兜に覆われているその下がいまどんな顔をしているか。ラビシュには分からない。けれど容易に想像はついた。きっと怯えと恐怖、そして絶望に染まっているのだろう。
「使えよ」
三つ切りにした槍のひとつを手にとってラビシュはランドルへと放り投げた。決してランドルのためではない。せめて武器くらい持っていてもらわねば、辛いのはラビシュのほうだった。
「い、いやだ……。いやだっ! 死ぬのはいやだ」
放り投げられた槍の突端を手に持って、叫びながらランドルがラビシュへと突進する。そうすることしかランドルには出来ないのだ。突き出される槍はラビシュの体に触れることもなく空を切る。自身の真横を通り過ぎていく槍を横目で眺め、ラビシュは残っていた左足の鎧を切り落とした。残っているのは腰と左手の小手、そして面だけだ。
「これでよっつだ」
「あ、ああ……」
腰が抜けたようにランドルが座り込む。その様を見届けながら、その奥にいる客席のラーズの様子を窺った。
すでに賭けの大勢はきまったようだ。薄ら笑いを浮かべたラーズの右手が頭、左手と順に触れた。
―――最後はふたつってことか……。
ラビシュはラーズの意味するところを理解した。それがもっとも賭けの少なかったものなのだろう。どんな時でも利益を優先するラーズのあり方には辟易とさせられる。
「チッ」
舌打ちをしてランドルの腰鎧を斬りおとす。ランドルが座っている姿勢のため、客たちは腰鎧がすでに斬れ落ちていることには気づかない。あとは最後の仕上げをするだけだ。
「一度だけ機会をやる。……使え」
どすっと音をたててラビシュは剣を地へとさす。
「あ?」
事情が飲み込めず引きつった声をランドルが上げ、客席からも野次が飛ぶ。タリクだろう。『ぼく様の剣で殺せっ!』なんていう野次がひどく耳についた。
「一度だけの機会だ。俺の剣を使えよ? 俺はいま武器を持ってない。チャンスだぜ?」
挑発するようにラビシュは両手を掲げ、ランドルを誘い込む。
「……。はっ! は、はははっ」
ようやく状況が飲み込めたのだろう。ランドルが狂ったような声を上げ、刺さった剣の柄を思いっきり握りしめた。剣へ縋りつくような格好のまま、ラビシュを笑う。
「は、舐めやがって!! 武器がなければお前なんぞっ!!」
勢いよくランドルが立ち上がり、剣を抜き走り出す。その最中、先ほどラビシュが斬った腰鎧が圧迫から解放されてずり落ちた。
「は?」
まさか斬られていたとは思わなかったランドルが間抜けな声を上げ、一瞬その身を硬くした。
ショーのためとはいえ、ラーズに命令されているからと云って、無闇に自分の命を危険にさらすようなことはしない。確実な安全があるからこそ応じているのだ。ラーズもそれを知っている。
動きを止めたランドルとは対照的にラビシュは一歩進み出る。
「あ……」
ラビシュの動きにランドルが気づいた時にはもう遅い。ラビシュはそのままランドルのみぞおちを蹴り上げ、瞬間握りの甘くなった柄を下から左手で突き上げる。ランドルの手から離れた剣がくるりと半回転し、そのまま柄を突き上げたラビシュの左手へすっぽり収まった。
「これで最後だ」
そう台詞を続け、ラビシュがランドルの左手甲と兜を斬りおとす。ぱっくりと左右に割れた兜からランドルの顔が現れる。汗と鼻水、そして涙にまみれきった汚い顔だ。その眼がただ驚きを宿してラビシュを見据え、絶望で黒く濁り落ちていく。
ずざっという音をたてランドルが膝をつく。
瞬間、ラベル・ワンが歓声で燃え上る。賭けの勝敗など誰も口にしない。ただ『殺せ』という無情のコールとともに、観客の奏でる単調な足踏み音が鳴り響く。
まるで跪拝するかのような姿勢のまま、ランドルはズッカズッカとはやし立てる音を聞くだけだ。ラベルのあまりの燃え上がりに茫然としているようだった。
「……」
無言でラビシュはランドルの前へ立つ。
逃げられない運命に屈したランドルの目に生気はない。ただ怯えと恐怖、そして絶望に白く濁った瞳があるだけだ。
奥歯を強くかみ締める。楽しさなどかけらもない。かつて自分を殺そうとしたザノバはいったいなにが楽しかったというのだろう。こんな胸くその悪いことのいったいなにが?
辟易とした思いを抱えたまま、ラビシュは剣を高く掲げた。せめて一撃であっさりと命を奪ってやりたい。ラビシュがそう思った時だった。
「し、死にたくねぇ……。死にたくねぇよ……」
弱弱しく、けれどはっきりとランドルの口から溢れたその言葉をラビシュは聞いた。
―――俺は!
「くっ」
ラビシュは溢れ出そうになる言葉を必死に飲み込んだ。
わかっているつもりだった。ラビシュが生きるということは畢竟そういうことなのだと分かっていたつもりだった。
ラビシュと殺し合いを演じる人間も、生きたいと願っている一個の人間なのだ。ラビシュはその事実から必死に目を背け続けた。ザノバもグルックもきっと生きたかったに違いない。きっとそう願っていたに違いないのだ。
―――俺はそれを見て見ぬふりをした。
相手がラビシュを殺す相手であるから仕方ないと、生きたいという自身の願いを盾にラビシュはその事実から目を背け続けてきた。
───なにがヨロコビだ。
それは罪悪感を消すためのひとつの方便だ。生き残った自分を正当化するための欺瞞に過ぎない。だが、それでもラビシュは生きたかった。生きたいから、死にたくないから殺すのだ。
問題はそれを自身で許容するかどうかだ。
死ななければならない人間など果たしているのか?
分かりきっていることだ。そんなものいやしない。どんな悪党も、どんな善人も等しく生の大事を謳うなら殺すことはできないのだ。だがラビシュはすでに殺した。殺してしまった。そしてこれからも生きるためという大義名分を掲げて殺し続けることになるだろう。
―――ならば、残されてる道はひとつだけだ。
ラビシュの剣が横なぎにランドルの首を攫う。やわらかな肉へ刃が通っていく感触が柄を通してラビシュの全身を駆け巡る。命を奪うのだという感覚を教えてくれる。ひどく不愉快でわめき散らしたいほどの不快さだ。
噴水のようにランドルの首から血が噴出し、ラビシュの仮面を赤く染め上げる。その最中赤く濡れ落ちていく視界の中で、ランドルの首がくるくると宙を廻って鈍い音を立てて地へ落ちた。
生き残ったヨロコビも観客たちへ認められたというヨロコビもすでにない。あるのはただ生きることへの強い渇望と、その覚悟だけだ。
―――たとえその道が汚れきった血の道であったとしても。
「俺は生き続ける」
誰にあてるでもなく、ラビシュは強く呟いた。