少年は生を求め、死ぬことを拒絶する
ラビシュは空を見上げた。
首を上げる動作にあわせてシャラリと鎖が揺れる。空はどんよりと曇っている。明日は晴れるだろうか。そんな益体もないことを思った。
「死ねぇ!」
そんな叫びが剣とともに落ちてくる。
発したのはラビシュと同じく無骨な首輪を嵌められた大男だ。ザノバという名前らしい。
ザノバの振り下ろした剣の切っ先をほとんどぎりぎりで避け、ラビシュは大きく後退した。
「ちっ! 避けたか。運のいい奴だ」
ザノバは地を打った剣を構えなおしながら、ラビシュを見た。その緩慢な動作には明らかな余裕が感じられる。
それも当然だ。
ザノバは左胸当てに小手とすねあて、そして鋼鉄製の長剣を持っているのに対して、ラビシュはぼろの服をまとった以外はなにもない。
その上、今年で十になるラビシュに対して、ザノバはすでに三十を越えた壮年の大男だ。その戦力差はありあまってつりが出る。
「殺せ! 殺せっ!」
そんな汚い野次がそこかしこから投げかけられる。
飛ばしているのは観客たちだ。血に飢えた、人の死ぬ瞬間を見たい人間たちの群れだった。間違いなく期待されているのは、ザノバではなくラビシュのそれだ。観客の猛る獣性を抑える贄。それがラビシュに与えられたたったひとつの役割だった。
闘技場を囲むように乱立する粗野なやぐらに陣取って、観客たちはその中央で相対するふたり―――ラビシュとザノバを見ている。
「お客さんもこう言ってるからよ。悪いなボウズ。さっさと死んでくれ」
ザノバがゆるりと語りかける。この見世物に出される前に聞いた話では、ザノバはすでに十月もここで生き抜いているということだった。
さすがに慣れている。ラビシュははじめてまじめにザノバの顔を見た。
人を殺すことにためらないなどない男の顔がそこにはある。もう何人殺してきたのだろう。
「ほらよっ!」
気合一閃、ザノバが剣を振るう。身をかがめてかわしながら、ラビシュは小さく舌打ちした。
―――こいつ、楽しんでやがる!
闘技場ではよくあることだ。生き残るうちにタガが外れ、相手を傷つけることを楽しみだす輩。間違いなくザノバはその類の男だった。
「は。はっはぁ! いい動きだ、ボウズ! よけろ、よけろっ、よけ続けてみろ!」
息つく暇もなくザノバが剣を乱暴に振り回す。剣術もへったくれもない。ひどく乱暴な動きだ。だが、防具も武器もなにも持たず、体格ではるかに劣るラビシュにはよけ続けるしかことしかできなかった。
「いいぞいいぞ! ザノバ! 今日も派手に処刑しろっ!」
「そんなガキ、早く殺っちまえ!」
観客たちはさらに興奮の度合いを高め、そんな言葉を口にする。もっと下種な言葉もあったが、避けることに必死なラビシュの耳には入らなかった。
「はっはぁ! ほんとうに活きがいいな、今日のガキは! こりゃあポニー以上かもなっ!!」
言いながらザノバはさらに剣を振り下ろす。勢いよく落ちた剣が地面を打って、砂ぼこりがわきたった。
「……ポニー?」
「はぁん? 気になるか? こいつだよ!」
言って、ザノバは剣の柄にかかっていた小さく丸いなにかを見せた。
―――なんだ、アレ?
白く、小さななにかだ。ラビシュにはそれが分からなかった。当惑するようなラビシュの顔を見て、にんまりとザノバが笑う。
「こりゃあ、二月ほど前に俺が殺したポニーって女の目だよ。きれいだろう? 俺のかけがえのないトロフィーだ」
誇示するようにザノバは口にする。その様をラビシュはただ見ているだけだ。
「ポニーには一番手こずったからな。まあ、それも今日までの話みてぇだが」
ザノバはそう吐き捨てるように言って、柄から垂れ下がる目を投げ捨て踏み潰す。グジュという小さな音を立てたソレを眺め見ながら、ラビシュは歯噛みした。
次にそこに結わえられるのは、ラビシュの目、ということだろう。
―――来る。
内心の憤りをおくびにも出さず、冷静にラビシュはそう判断を下した。もう遊びなどない。必殺の決意を持ってザノバはラビシュを殺しに来る。痛いほどに突き刺さるザノバの粗暴な殺意がそう語っている。
「いけぇえ! ザノバ、血を見せろっ!」
「任せろぃ!」
観客の声に応じるように言って、ザノバの足が地を強く蹴り上げる。
―――早い。
先ほどまでと比べものにならないほどに早い踏み込みと一撃だった。乱雑な音をたてて近寄る一撃は、これまでのように無傷でかわすことは不可能に思えた。
狙いは足だ。
いやらしい処を狙ってくる。傷つけられれば最後、もう逃げ回ることもできやしない。ただ嬲り殺されるだけの運命があるだけだ。
「くぅっ!」
なんとかギリギリのタイミングで、ラビシュはザノバの斬撃を飛び越える。
その瞬間、
「そーれを待っていたんだっ!」
軽やかに嘲るようなザノバの言葉が響く。
「しまっ!!」
ラビシュが悔恨の声を上げるよりも早く、ザノバの足がラビシュの足を蹴り払う。ボグッといやな音が鳴り、空中でバランスを崩したラビシュはそのまま倒れて腰をしこたま打ちつけた。
「お、おおおおおおおおおおおおおっ!」
瞬間、地を震わさんばかりに観客たちの興奮した声が上がる。最後の時がすぐにやってくることを知っているのだ。
血に飢えた獣のように、獰猛な叫びが闘技場全体を大きく揺らした。
足の痛みを感じながら、ラビシュは顔を上げた。痛みにゆがんだ視線の先には、にこりと笑うザノバの巨躯がある。
「はっはぁ。ま、頑張ったな。名前聞いといてやるよ。お前が今日から新しいポニーだ」
ラビシュの黒い瞳を品定めでもするかのように眺めながら、ザノバは言った。
―――生きたい。
痛みに耐えながら、ラビシュはひとり考えた。
―――どうすれば生き残れる?
酷薄な笑みを浮かべるザノバも、「殺せ!」と騒ぐ聴衆も関係ない。ただそのことだけがラビシュの小さな脳をぐるんぐるんと回転する。
卒然、ひとつの可能性にたどりつく。可能性なんて言葉もおこがましい。ただの賭けだ。それもほとんど奇跡に近い。
けれど、ラビシュは躊躇わない。
一縷でも、そこに生き残る可能性があるならば、それをやるべきだ。
―――黙って殺されてなどやるものか!
「お前なんかに教えるか」
強い意志を込めてラビシュはザノバを見上げた。
「は、そうかい。まあいいさ。ポニーはどこまでいってもポニーだからな!」
横なぎにザノバが剣を振るう。その剣の軌道を冷然と見据えながら、ラビシュは自身の首をその軌道上へと突き出した。
「なっ!」
ラビシュの持っているもので唯一ザノバと同等なのは、その小さな首にかかった首輪だけだ。奴隷が逃げられぬように巻かれた極厚の鋼鉄の輪。
剣をそれで受けたのだ。
振るわれた長剣は極厚の鋼鉄を深くえぐったが、そこまでだ。ザノバの振るった剣がバキリという無残な音をたて折れ跳んだ。
小気味よい音をたて、地へと折れた剣先が突き刺さる。
それをさっくと掴み取ったラビシュが勢いよく飛び上がり、ザノバの胸元へと突き刺した。
瞬間、多量のせい血がザノバの胸から溢れて落ちた。飛び散った血しぶきがラビシュにかかる。生臭くて、生あたたかくて不愉快だ。
だが、そんなこと気にしている場合じゃない。
ぐぐっとラビシュはさらに深く押し込もうとして、力を込めた。瞬間、指先に深く剣先の入り込む感覚があり、鋭い痛みがラビシュの体を駆け抜けた。
「ぐうっ! ぅう」
あまりの痛さにラビシュが呻く。だが、ここで力を緩めるわけにはいかないのだ。
これで殺さねば殺される。
――――死ぬくらいなら、指の一本や二本くれてやる!
「あ、ぁあああっ!」
吐き出した裂ぱくの気合そのままに、力任せにザノバの胸へえぐりこむ。
「ぐ、ぼっ!」
ザノバが勢いよく血を吐いた。びちゃりと吐き出した血が頭にかかる。滴る血が目に入って視界を赤く染めたが、いまは拭う手間すら惜しかった。
ザノバはまだ死んでいない。
ただなにが起きたのか分からず、未だ自失しているだけだ。不覚から戻れば、一気に形勢は逆転する。そして、そのまま殺される。
ザノバを見ることもなく、ラビシュは剣先より手を離し、その身をかがめた。迅さこそがいまもっとも求められていることだった。
「なっ! この、ガキッ!」
溢れる血を飛ばしながら、ザノバが呻いた。だが、その足元に沈んだラビシュの姿は捉えていない。ただ自身の胸が刺されたことと、それをラビシュにされたことに気づいただけだ。
「ころぉお! おっ!」
殺す。
怒りに任せてザノバが叫ぼうとしたときだった。卒然、ザノバの体が前のめりに傾いた。
―――なんだ?
「おお、おおおっ!」
傾く体を感じながら、ザノバはそれを見咎めた。
後方に伸びた己の右足に力いっぱいしがみつくラビシュの小躯。ラビシュがザノバをこかそうとしているのだ。いや、すでにザノバは体は傾き、大地が間近に迫っている。
―――あの、ガキィイ!
ともすれば血管が破裂しそうなほどの怒りがザノバの脳裏を駆け巡る。
―――殺す。絶対殺してやる!!
だが、そのザノバの思いが叶えられることはない。
ザノバが怒りに身を焦がすなか、その身は地へと近づいていき、やがてひとつの結末をもたらした。
ザノバの胸が地に触れる寸前、刺さった剣先が無残にも体を貫いた。ザノバはそのままぴくりとも動かない。
「はぁ、はぁ……」
あらい息遣いのまま立ち上がり、ザノバの持っていた剣をむしりとる。
そのまま刃の半分ほどが欠けた剣の柄を力任せに握り締め、ザノバの首へと突きたてた。
折れた刀身がぐじゅり、ぐじゅりとザノバの首に幾度もいくども突きささる。
―――死んでいるのか? こいつは死んでいるのかっ!
分からぬまま、ザノバが立ち上がる恐怖に怯え、ラビシュは幾度も突きたてた。その様を闘技場にいるだれもが、言葉を発することもなく眺めている。
幾百という人が集まったにもかからず物音ひとつ立たぬ異様な静けさのなか、ぐっじゅ、ぐっじゅと肉のつぶれる音が鳴る。
その音は、ザノバの首がでろりと離れ、ラビシュがザノバの死を完全に把握するまで続いた。