第9話 紫の霧 ――霧 VS 獣――
僕のヒゲが意気揚々と池に背を向けて帰ろうとしていたマヌケなパンダの身体を捕らえる。
確信する。
完全に、殺った。
パンダは反応出来ていない・・・!!
僕は事前に植物ナマズ状態のオオナマズの身体を、池の縁のすぐ下に隠しておいた。
身体が浮かんでこないように半ば池の壁に掘った穴に埋め込むように。
かなり水面近くに隠したので、普通ならどんなに気配を消していてもこのパンダには勘付かれること必須。
しかしオオナマズは身体こそ馬鹿デカイがその肉体である器に魂はなく、僕が中に入っていなければ緩やかに死に向かうだけの生きた死体同然。
気配などあろうはずもなし。
事実奴は全く気付かず、あっさりと背後からの強襲を許した。
事前の攻防で僕の手を読みきったと油断していたのもあるだろうが、ここまで綺麗に決まったのは初めてである。
まるで獲物に絡みつく蛇のように4本のヒゲが背後からパンダの四肢を縛り上げる。
そこまでいってパンダはようやく何が起こりつつあるのか理解したようだがもう遅い。
ただでさえ太く丈夫そうなオオナマズのヒゲは僕によって大幅に強化され、たとえ奴でも力で振りほどくことは不可能。
爪で切り裂くことは辛うじて可能かもしれないがその手足をヒゲで封じられていてはやはりこれも不可能。
残る選択肢は歯で食いちぎることぐらいだが――
――バリバリッ!!
「ガアアッッ!?」
紫電の閃光がパンダを口内から蹂躙してそれを阻む。
当然口内以外からもパンダに電流が流されるが、どうやら身体外からでは毛皮に遮られて効果が薄いようだ。
周囲の霧の視点からパンダを観察し、僕はそう結論付ける。
僅かな焦げ目が付いてはいるがそれだけ。中まで浸透してない。
しかしそれもたいして問題ない、奴が僕のヒゲから抜け出せない限り、僕の勝利は揺るがないのだから。
パンダのほうが筋肉量の問題で体重があるかもしれないが、僕が今のようにほとんど水中にいる状態では水中に引き込むことも可能だ。
自分の身体後ろ半分ほどをを先ほどまで隠れていた穴に差込み引っ掛けて、全身を固定することによって魚ながらに大地に根を張ったような安定感を得ることができる。
僕を池から引っ張り出そうというのならパンダ自身が立っている地面ごと持ち上げなくてはならない。
いくら規格外のパンダでも、それは流石に無理というものだ。
それにもちろんそんな隙も与えない。反撃は許さない。ここからはずっと僕のターン。
電撃で硬直したパンダを四肢を掴んだまま空中に持ち上げ天を仰ぐ、そして僕の頭ごとヒゲを振り下ろし、パンダの顔面が地面にディープキスするように叩き付ける。
何度も何度も叩き付ける。
全くもって痛快だ。僕を圧倒していたあのパンダが、手も足も出ずに一方的に蹂躙されているなんて!
もはや戦いは僕の圧倒的有利。
なす術もなく玩具のように弄ばれるかつての強者。
僕は心を突き動かす衝動に身を任せ、夢中でヘッドバンギングをする。
自分が力に酔っていて、なおかつ頭をふりたくるオオナマズの格好がかなり滑稽なのを自覚できるが、別に止める気もない。
パンダを今までの恨みを倍返しする勢いでボッコボコにする、し続ける。
そうして数分間が経ち、僕も大分満足してきた。
まあ鬱憤も晴れたしそろそろ池に沈めて――
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
瞬間、パンダの全身に信じられないような力が漲り、強引に振るわれた右腕によって僕のヒゲの一本が引き千切られる。
「!?」
いきなりヒゲを失くして重心がずれた僕が体勢を崩し、パンダが地面に落下する。
そして一瞬で開放された右手で地面を掴んで立ち上がり、此方に向き直ると、足を地面にどっしりと下ろし怒涛の勢いで殴りかかってきた。
野生動物の生存本能とでもいうのだろうか。
それは昨日殺したこのオオナマズよりも苛烈で凄まじかった。
肉体は電流でボロボロのはずなのに今まで以上の力で僕に拳を叩き込み続けるパンダ。
僕もまだ両足と左手に巻きついているヒゲで、全力でパンダを池に引き込もうとするがビクともしない。
小癪なことに、どうも足の爪を地面にめり込ませて引きずられないように踏ん張っているようだ。
左腕のヒゲまでもが千切れ飛ぶ。
その手足を戒めていた強靭なはずの枷は、既にその数を2本まで減らしていた。
なんという馬鹿力。
足は地面に固定されてるから、下のヒゲは千切れてないが、そうでなければどうなっていたか分からない。
パンダは理性が飛んでいるのか、その動きにいつもの精細さはなく、咆哮を上げながら真正面から狂ったように僕を殴りつけてくる。
身体が破壊されたそばから修復するが間に合わない、このまま続けば先に此方が倒されるだろう。
しかしこのような勢い、いつまでも続くとも思えない。
山を越えれば僕の勝利だ。
ここで諦めるわけにはいかない!
ようやくクソ忌々しいパンダの超反応をすり抜けたのだ。
こんな機会はもう二度とあるまい。
ここは、押し切らせてもらう。
周囲に漂っていた紫の霧が渦を巻くように収束し、凄まじい勢いで僕の身体に吸い込まれていく。
霧爪では威力が足りない。故に肉体を使うことに専念すべきだ。
僕は回収した霧をオオナマズの身体に押し込めてその肉体を更に強化していく。
千切れていたヒゲが瞬時に再生し、再びパンダの剛腕を戒めようとするが殴る速度が速すぎて捕らえられない。どころか再び千切れかける。
まだだ、まだ足りない。
オオナマズの体表から吹き出ていた紫のオーラが沈み込むようにその身体の中に消える。
ぬめる体表を彩っていた紫の模様も薄れて消える。
代わりにその無機質な瞳が深い菫色に染まって鈍く輝く。
今の自分できる最大限の強化。
僕はパンダの拳を捕らえることを諦めると2本のヒゲを鞭のように使い、攻撃を再開した。
下の2本も使いたいが、万が一逃走されてもかなわない。
両者共に防御を捨て、真っ向から殺しあう。
破壊されても再生を繰り返す僕に対し、どんなに叩かれ、衝撃を受けても怯まないパンダ。
持久戦ならば此方が勝つが、先ほどからパンダの打撃の威力が段々と上がっている気がする。
徐々に威力が増加する拳打の嵐が強化されたはずの身体を削る。
・・・まだ力が上がるというのか。どこまで耐え忍べばいいというのだ。
・・・このままでは、まずい。非常にまずい。
なにか、なにか手を・・・!
そうだ!今パンダは明らかに理性を失っている、今ならば――。
僕はパンダを鞭打っていた2本のヒゲの力を抜くと、だらりと垂れさげたそれらを差し出すようにパンダへ向け、ゆっくりと顔の前に置く。
この間滅多打ちにされるがそれはしょうがない。
ただ成功しないと本当に――
パンダが片方のヒゲに思いっきり噛み付く。
――ズバンッッ!!!
その瞬間僕は渾身の力で電流を流した。
電気は毛皮の上からだと効果が薄い。
今まで無駄に身体力を消耗したくなくて最初の一回以外使えなかったが、理性を失って噛み付いてきてくれたおかげでまた体内から電流を流せた。
噛み付いた勢いでそのまま食い千切られたので一瞬しか流れなかったが、一瞬、パンダの身体が硬直する。
その瞬間に残った三本のヒゲをフル動員してパンダを池に引きずり込む。
水中に入ってしまえばこっちのものだ。
陸上でどんなに強くても、水の中では世界が違う。
ただそこにいるだけで呼吸という重要な生命活動を封じられ、死へのカウントダウンが始る世界。
硬直から開放されたパンダが、池に引きずりこまれながらも辛うじて片手で池のふちを掴み、踏ん張ろうとする。
ここを離したら死だ。溺死だ。確実な死。
パンダは地面を掴んで何とか池から出ようとする。
だが地面はナマズとの戦いの衝撃で飛び散った水で濡れて泥状になっており、無慈悲にもその手を滑らせてパンダを死へと追いやってしまう。
そして毎日変わりなく昇る朝日がその細い陽光の最初の一筋で小池を照らした時、小池の水面にあったのは大きな波紋だけだった。
★★★
池の中。
とうとう奴を引きずり込むことに成功。
パンダはそれでも暴れまわったが、流石に分が悪い。
たまらず空気を吐き出した口に既に再生した分も含める四本のヒゲが殺到し、顎が外れんばかりに無理やりに口を押し広げると中に入り込み電撃を見舞う。
再び硬直し、痙攣するパンダの身体を浮き上がらないように池の底に沈めつつ、間断なく電流を流し続ける。
水中にも関わらず陸に上がった魚のように痙攣し続けるパンダ。
もはや自分の意思では動かせない身体が大量の空気を吐き出し、代わりに水で肺を満たす。
苦しいだろうパンダよ。
酸欠の苦しみで全身が引き裂かれるようだろう、電撃は脳味噌が焼き切れるようだろう。
しかし容赦はしない、情けもかけない。
このまま冥府に落ちるがいい。
僕のヒゲの内、一本は身体に絡み付いてパンダを池の底へ押し込み続け、一本は口から体内に深く突き入れられて電流でその身を焼き続け、残る二本がパンダの口を開いたままに固定する。
その状態で、数分。
既に痙攣も止まり、力なく池の底に横たわるパンダ。
僕はその身体からヒゲを離し、パンダの目から生気が消えゆく様を見つめる。
こいつは強かった。
僕は今日2回、こいつを殺した確信を得ながらも殺しきれず、3回目だってギリギリだった。
最後には勝てたが本当に危なかった。
それでも今度こそサヨウナラだ。
貴様の遺体と魂は僕の糧とさせて頂こう、グッバイパンダ。
お前は手ごわい相手だったよ。
僕は霧になってオオナマズの身体から抜け出し、パンダを乗っ取るために近づく。
そしてとうとうパンダの目から光が消える―――直前。
パンダがとうに力を失ったはずの右手が、ゆっくりと持ち上がった。
まだそんなことができたのかと驚く、が、慌てはしない。もうあと数秒で完全に死ぬだろう。
そもそも池の底は暗いのでパンダに僕は見えていないはずだ。
最後に身体が無意識に空気を求めたのか、もしくは僕に攻撃でもしようとしたのか。どちらにせよ無駄ではあるが。
パンダの手が目の前にいた僕に触れ、再び力なく下ろされる。
結局こいつは何がしたかったのだろうか。
ふとパンダの顔を覗く。
すると―――
目に映ったのは赤だった。
狂おしいほどの赤。
鮮紅の瞳。
赤い、赤い、紅い瞳。
爛々と輝く、鮮やかな血色の瞳。
まぶたが閉じられた。
代わりに薄らと浮かび上がる光の靄。
パンダは死んでいた。
・・・充血、にしては変だったな。
おそらく戦闘中に目を軽く怪我して出血したのだろう。
太陽が出てきて、朝日がおぼろげながら池の中にも差し込んでいる。
パンダの目が光に反射して光ったのだろうが、さっきのはなかなか綺麗だった。
僕は目の前の魂を取り込むと、パンダの身体に入り込み、乗っ取る。
身体が熱くなり、冷たくなり、オオナマズの時よりも強い爽快感が身を包む。
僕の身体に力が漲り、強い全能感が全身を支配する。
今、僕は確実に強くなった。
早速この身体を動かしてみたいけど、オオナマズやカエルの時と違い、水中だと少し落ち着かない。
とりあえずここから出ないとだな。
池底を、蹴る。
★★★
暗い・・・。
もう何も見えない・・・。
先ほどまであった興奮も・・・高揚感も今はもうない・・・。
その代わり、心地よい充足感が身体をやさしく包み込む・・・。
ああ・・・、楽しかった・・・。最後はまるで夢を見ているかのようだったよ・・・。
こんなにもすぐに終わってしまったことだけが心残りだけど・・・、感謝を・・・、君に感謝を・・・・。
本当にありがとう・・・・・・。
手を伸ばし、君を探す。
もう視界には何も見えない、そのはずなのに、その時ボクは確かに観た。
魂に染渡るほどに濃く深く――黒よりも黒く揺蕩う深淵の紫。
暗闇の中にあってなお色鮮やかに浮び上がる――光りを遮る絶大な濃霧を。
・・・・・・どこからかカラスの鳴き声が聞えた気がした。