連続首切り殺人
二〇一四年 七月 日本 東京都
「あつい。暑いじゃなくて、もはや熱い」
神田優也はリビングの床に寝転がり、足だけをソファーに上げた状態でつぶやいた。高校生になって、二回目の夏休みに突入していた。
最初こそ喜んでいたが、日が過ぎるにつれ所属している陸上部の活動以外に、やることがないと気付いた。誰かと遊ぼうにも親しい友人も皆同様に部活をやっているため、なかなか予定が合わない。なので、部活のない今日のような日は、無為に過ごしてしまっている。自分でも本当に贅沢というか勿体ない時間の使い方だと思う。
「ああ、なんか面白いことないものかね」
独り呟きながら、テレビをだらだらと見ていた。
いつの間にか夕方になっていて、テレビではニュース番組がはじまっていた。どうやらサッカーの特集のようで、ニュースキャスターがしきりにボールを蹴る真似をしている。
有名な芸能人も何人か出演していて、皆が活発に話し合っていた。 いいなあ。楽しく話しているだけで金がもらえるなんて、うらやましい限りだ。 あ、でも売れるまでは苦労してきたのか。いやいや、意外となんかのコネとかで・・・。
急にテレビ画面に速報の文字が映し出された。少しざわついた後に、出演者の表情が真面目になり、番組の雰囲気が変わった。速報の内容をニュースキャスターが話し始める。
「いま入ってきたニュースです。東京都世田谷区で首を切断された女性の遺体が発見されました。発見した通行人はすぐに一一〇番通報し、警察が駆け付けました。その後、遺体の状況は半年前から発生している連続首切り殺人事件の被害者と全く同じであることが判明しました」
うわぁ、やっぱりまた起こったか。
連続首切り殺人事件とは、被害者の遺体がすべて首を切断されているために、そう呼ばれはじめた事件だ。発端は半年前のことである。東京都の、とある公園で四人が殺された。それだけでも大事件なのに、その殺害方法が『首の切断』であったので世間は大騒ぎした。連日、ニュースで取り上げられた。それぞれの事件の被害者に共通点はなく、凶器も犯人の動機も不明なために警察の捜査は難航していた。そのまま現在に至るまで、事件は終わっていない。そのせいか、新興宗教団体の仕業だとか宇宙人の来襲だとか根も葉もない噂が広まっていた。
ぼくも興味は持ったが、事件についての情報が少なく進展もないので、ニュースも毎回同じことの繰り返しだから、少々飽きはじめていた。だが、このニュースには驚いた。ぼくが住んでいる家も世田谷区にあるのだ。
「ちょっと嫌だ。これ家のすぐ近くじゃん!」
いつの間に帰ってきたのか、妹の華が顔をしかめながら言った。
「おかえり。友達と遊んでたんだろ?帰り早いな」
「明日、大会で早いんだよ。だから今日はちゃちゃっと寝るの」
中学二年生の華も陸上部であり、一年生の頃から大会で好成績を残し、レギュラーとして活躍している。ただ、同じ陸上部といってもぼくのほうは、部というよりは同好会に近く顧問もいるようでいない弱小チームなのである。さらに、ぼく自身も中学までは「陸上部じゃないにしては速い」という評価だったが、高校で陸上部に入った途端、「陸上部にしては遅い」に評価が下がってしまった。こんな具合なので兄としては、優秀な妹をもって嬉しいようで悔しいような複雑な気持ちである。
「へぇ、そりゃ大変だね」
「そうなんだよ。しかも周りはかなり期待してくるから、プレッシャーやばいし・・・じゃなくて!このニュース!近所だよ!」
妹はテレビを指さして、寝転がるぼくの尻を軽く蹴りながら騒ぐ。
「痛い痛い。わかってるっての。気を付けろよ。お前はどこか危なっかしいからな」
「一番気を付ける必要があるのは兄ちゃんだよ!どこかぬけてるんだから」
そう言うと、二階に上がっていった。テレビでは、この半年間ですでに何回も聞いたようなことばかりだった。やはり今回も目新しい情報はないらしい。
気を付けると言っても、特別なことをするつもりもない。たまたま近くで事件が起こっただけで、被害者には申し訳ないがぼくには関係ないことだ。 この時は、その程度にしか考えていなかった。まさか自分が、この事件に巻き込まれていくなんて思いもしなかった。
その日は、事件のニュース以外に特に語るべきこともなかった。自室で学校の課題を少しやって、両親が帰宅して、夕食をとり、風呂に入り、日課のストレッチをして、ゲームをやったりしているうちに、一時を回っていた。
「そろそろ寝るか」
ベッドに入り、天井を見つめながらぼんやりしているうちに、眠りについていた。
気が付くと森の中に立っていた。周りは、巨大な植物や樹木で埋め尽くされている。見たこともないような鳥や、昆虫がたくさんいる。森というよりはジャングルである。
またこの夢だ。今年に入ってから、何回も見ている。
呆けて突っ立っていると、目の前を奇妙な生物が駆け抜けていく。なにかに追われているようだ。ぼくは追いかけたいと思う。しかし、夢の中にありがちな自分の主観視点なのに、自分の思い通りに動けない状態なので、追いかけることができない。
ああ、なんだかじれったい!
この夢はいつもこうだ。興味深い風景を見せてくるくせに、自由にはさせてくれないのだ。ぼくは叫びたい気持ちになる。
唐突だった。心臓をつかまれたとでも言おうか、背筋がゾッとし、体が固まってしまう感覚を味わった。これは、初めての体験ではない。今までに何回か見た夢の中でもあった。そして、こうなると決まって、何者かが近くにいる若しくは、話しかけてくるのだ。今回は、後者のパターンだった。
「よう、なにを呆けてるのさ。どこかやられたか?」
その男は、まるで古くからの友人のように喋る。もちろん知らない人物だ。そうであるはずなのに、ぼくは、そいつと平然と会話し始めた。
「別にそういうわけではない。少し考え事をしていただけだ」
僕の声ではない。ぼくはこの人物の視点を借りているだけだ。
うーん、この二人は誰なのだろう。親戚や友人など、様々な顔を思い浮かべるが、どれにも該当しない。ふと笑いそうになる。
なにを夢の出来事について本気で考えいるのだ。何回も見てるとはいえ、所詮は夢だ。意味不明なのは当然だ。それにぼくは心理学者ではない。考えたって、大した結論は出ない。フレディが現れて、ぼくを八つ裂きにするわけでもないし、気楽に見ていようじゃないか。
「おい、きたぜ」
男がぼくの(正確には僕が視点を借りている人物の)肩をたたく。目の前には、先ほど通り過ぎていった生物がいた。奇妙だとは思ったが、落ち着いてよく見てみると、もはや化け物と呼んだほうが相応しい生物だ。
その化け物については、ヒレの部分が人間の腕のようになった人間サイズのアンコウを想像してもらえればいい。鋭利な牙が口の中から見え隠れしている。さらに、不気味なことに、頭部にあるアンテナ状の突起物の先端に、目玉がついているのである。これが飾りでなければ、顔面にある二つの眼を合わせて、その化け物は三つの眼を持つ。
その三つの眼で、こちらを睨み付け、低いうなり声をだし、今にも飛びかかろうとしている。
うひぃ~。気楽に見ていようと決意したばかりだが、怖いし気持ち悪い!
「何度見ても気色悪いな。さっさと消そう」
男は、特に怖がる様子も見せず、空中に右手をかざす。
うわ、なんだあれ。鎌?初めて見るぞ。
男のかざした右手の先に出現したのは、大きな鎌だった。と言っても、実物の鎌ではない。
例えるなら、黒板にチョークで描いた鎌が、立体になり空中に飛び出てきたような感じだ。
その大鎌が、化け物に向かっていく。化け物はかわす素振りをみせるが、大鎌はそれを許さず、化け物を真っ二つに切断する。一瞬の出来事だった。化け物は、見た目の割にあっけなく死んでいった。
「一匹発見したら、三、四匹はいると思えってやつだな。近くにいるぜ」
男は、表情を変えないまま言った。その言葉が合図だったかのように、四方から全く同じ化け物が襲い掛かってくる。
ぼくの視界いっぱいに、化け物が映り込んだ瞬間!
「いつまで寝てるの!夏休みだからってダラけない!」
化け物ではなく、母の顔が視界いっぱいに映り込んでいた。
「・・・今、何時?」
「もうお昼近いわよ。私は、今から仕事行くけど、あんた今日は部活あるんじゃなかったの?」
母の言葉で、ハッと目が覚める。
「やばい、完全に遅刻だ!」
母は呆れた様子で、行ってきますとだけ言って家を出た。
ぼくも、急いで学校へ行く仕度をはじめる。別に顧問もいないのであれば、遅刻しようが休もうが構わないのでは?と思うかもしれないが、そういうわけにもいかない。いや、一時期そういう考えでサボりもした。だが、他の部員も同じようにサボる奴が出てきて、陸上部崩壊の危機に陥ったというアホな事件がある。
この経験からわが部は、ひとつのルールを作り上げた。そのルールとは、[正当な理由なしに、部活を欠席又は遅刻した者は、罰金刑(百二十円)に処す]である。つまり、部員全員に缶ジュースを奢れということだ。
「バイトしてないぼくには、痛い出費になるんだよな」
独り言ちながら、学校へ向かう。ひたすら走って、丁度やってきた電車に駆け込む。節電のためか冷房が弱く、汗が噴き出てくる。
よし、このまま全力で走り続ければ間に合うぞ。
学校の最寄り駅に到着する。車両のドアが開くまでの時間すら惜しい。開いてから、すぐに飛び降りる。そこで、電車を待っていたであろう人とぶつかってしまい、勢いよくこけた。
「す、すいません!」
まるでぼくが、タックルをしたみたいにぶつかったので、相手が悲惨なことになっていると思い、必死で謝罪する。しかし、相手は上手く転倒を回避したのか、平然と立っていた。
ありゃ、結構かわいい人だな。
自分からぶつかっておいて、そんなヨコシマなことを考えてしまう。でも、そう思ったのだから仕方ない。身長が女子にしては、高い。日本男性の平均身長程のぼくと、そんなに変わらない。うちの高校ではないが、その女の子も制服を着ていた。
「あの、大丈夫ですか?」
相手がなにも答えないので、不安になる。ぼくのことを見て、少し驚いた表情をしている。そして、思い出したようにハッとして、頭を下げてくる。
「ごめんなさい。ぼーっとしてて・・」
「いえいえ、ぼくからぶつかったんだし。えっと、怪我してたりしません?」
「はい。転ばずに済んだから」
お互いに高校生ではあるが、同学年かまではわからないので、敬語とタメ口の混じった少し変な話し方になる。
当然ながら時間は、このやりとりの間も止まりはしない。腕時計を見て、思わず「げっ」と声を出す。
「そ、それじゃ、ぼくは行きます!すいませんでした!」
そう告げると同時に、駆け出した。背中越しに視線を感じながら。
「神田くん!ごちそうさまでーす!」
笑顔で部員たちが、缶ジュースで乾杯する。
ちっくしょー、結局間に合わなかった。
女子部員たちは、どこか申し訳なさを出してる者もいたが、男子部員は一人残らず、憎たらしい笑顔であった。
ぼくの参加しない乾杯を終えて、練習がはじまった。学校のグラウンドは、野球部やサッカー部に占領されているため、校舎の外で走る。ウォーミングアップとして軽く走っていると、隣にいた友人の淀橋に、声を掛けられた。
「で、その駅での女の子は可愛かったのか?」
「ああ、なかなか。けど、やたらと僕のことを見てきてさ。もしかして恰好いい人!とか思われちゃったかな?」
ぼくは冗談交じりに言ってみた。すると、淀橋は憐れむような、それでいて蔑むような顔をした。
「神田もついに、暑さにやられたか。この前の夢の話といい、病院に行っとけ?頭のな」
これでもか、というくらい失礼なことを言われた。ちなみに夢の話とは、何回も見ている今日のような謎の夢のことである。
そうだった。一度、こいつにだけは話してみたんだった。
淀橋は、最初笑いながら聞いていたが、だんだんと危ないやつを見るような眼になったところで、ぼくは話を切り上げたのだ。
人通りの多い場所は、避けたコースを選んで走っているが、さすがに東京なので、どこにでも人がいる。上手くかわしつつ、学校に戻ってきた。汗を拭き、一息つく。
みんなの話題は、昨日のニュースでもちきりだった。中でも、部員の石丸が一番、興奮して話していた。
「はい来た、来ましたよ。首切り事件!俺の言った通り、また起こった!」
こいつは、未解決事件や心霊現象など、怪しげなものばかり好む癖がある。そのため、連続首切り殺人事件については、ぼくらの中で最も詳しかった。
「別にみんなが簡単に予想できたことだろうに」
部員の誰かが、呆れたように言った。
「いやいや、お前らは何も知らないだろ?俺が懇切丁寧に教えてやるよ」
誰も望んでないのに、石丸は語りだした。ぼくらが座っていて、石丸だけが立っているので、なんだか政治家の演説みたいだ。
「まず被害者について。これは最初の事件で、いかにもな不良少年が四人。第二の事件で、デート中だったらしい男女が二人。第三の事件で、大学生が三人。そして、今回ので、計十人が首を切断されて殺されてるのよ」
石丸は、みんなわかってる?といった感じで、ぼくらを見回す。
「で、ここですごいというか、怖いことがある。それはすべての被害者が、一発でスパッと首を切断されてることだ。その辺で売ってる刃物なんかじゃ、こんなことできない。え?できるかもしれないって?・・・お前、相手は動いてる人間なんだぞ。あ、なに?まず、殴ったりしたんじゃないかって?・・・いやいや、遺体に殴打なんかの痕は無かったらしい。とにかく、黙って話を・・・ん、なんだよ?・・・お前の顔が馬鹿みたい?・・・おい、誰だ!質問に紛れて俺を罵倒した奴は!」
周りから茶々が入り始める。
「ええい、黙って聞け!ここからがすごいんだよ。ニュースでは、この被害者たちに共通点はないと言っている。だが!なんと、ひとつだけあったんだよ。それは『夢』だ」
急に、話が胡散臭くなり、みんなが立ち上がり始める。石丸は、めげることなく語り続ける。
「待て、行くな。まだ、話は終わってない!その夢は、殺された全員が見ていたわけではない。ただ、四回の首切り事件で、それぞれ一人ずつが見ているそうなんだ」
ぼくは、少し引きつった笑い顔になりながら、石丸に質問する。
「なぁ、ちなみにその夢の内容ってどんなのなんだ?」
「あー、やっぱりそこが気になるよな。ただ遺族の人も、妙な夢を見てるんだ、と本人から聞いただけで、詳しい内容はわからないんだって。まぁ、とにかく!このことから、導き出される結論はひとつ!その妙な夢を見た人物が狙われているのだ!」
石丸も、途中からは冗談なのが、まるわかりな口調だった。冗談とわかっていながらも、妙な夢を見ているぼくはつい反論してしまう。
「いやいや、だとしたら、その夢を見てないのに殺された人たちは、なんだったのさ」
「んー、単なる巻き添えなんじゃん?たまたま、一緒にいました的な。かわいそうだけど」
「あり得るけど。そもそも、夢の話自体、信憑性が低いような。と、いうより、お前は、どこでそんな情報を仕入れてるんだよ」
「俺の親父が新聞記者やってんだよ。普通なら、ぺらぺら喋っちゃくれないが、酔っ払てるときなら、なんでも聞けるぜ。まぁ、他人に話すなよ、とは言われてるけどな」
話してんじゃねぇか!と、全員からツッコミが入る。
石丸は、涼しい顔で「お前らは、他人なんて冷たい関係じゃなくて、友達だろ?だから、話してもオッケーなのよ」と、都合の良いことを言った。
ぱんぱん、と手を叩く音がする。顔を向けると、部長の南さんだった。
「はい、練習再開。せっかくの休憩時間を無駄にした感じだわ。あ、あと、忘れないうちに連絡事項を。明日の部活は、昼からでしたが、朝の九時からに変更です」
「なんで、わざわざ早くするのさー?」「いっそ、休みにしようぜー」と、ブーイングが起こる。
「これは、決定事項よ。クレームは受け付けないわ。なんてたって、明日の昼からは、私の家族旅行のための買い物という重大な用事があるのだからね」
完全に私用じゃねぇか!と、全員からツッコミが入る。しかし、こんな部活をまとめあげ、大会の手続きなどを、いつもこなしてくれる部長の権限は強い。結局はみんな、部長の指示に従うことになるのだ。
部活を終えて、それぞれが帰路につく。ぼくは駅まで淀橋と一緒だった。
「神田さぁ、石丸の話で夢が出てきたとき、ちょっと焦ってたろ?」
「そんなことはない」
「次に狙われるのは、ぼくかもしれない?って感じで気になったか?」
「このやろう。もし本当に、それでぼくが殺されたら一生後悔するぞ」
「ははは。冗談冗談。だけど、お前だって本気にしてないだろ」
「まぁね」
淀橋と別れてからの帰り道、ぼくは石丸の夢の話を、ずっと思い返していた。
もしも、だ。殺された人たちが、夢を見ていたとする。そうすると、その夢の内容は、何だったのだろう。今となっては、知ることは不可能だ。
遺族に聞けば少しは分かる?
いや、石丸も言っていた。詳細は知らないらしい、と。それに、ぼく自身そこまではする気もない。結局、なにもわからないか。
そんな風に考え込んでいるうちに、自宅の前にたどり着いていた。
玄関で靴を脱いでいると、ダダダーッとものすごい勢いで、階段を降りる音が聞こえてきた。
「兄ちゃん!ほら見て。賞状とった!すごいっしょ?あ、練習おつかれさん」
「ついでみたいに言うな。二位か。さすがだな」
「でっしょー。兄ちゃんも私を見習って、精進しなさいな」
「へいへい。精進しますよ」僕は適当に相槌と称賛を妹に与えつつ、自室に行く。
そういえば、ぼくって実績みたいなのがないよな。
華の興奮した様子を見て、思った。
勉強にしても、スポーツにしても、良くもなければ悪くもない。本当に『普通』だ。普通なら良いではないか、と思う人間もいるだろう。しかし、このまま平坦な道をひたすら歩くような人生は、嫌だった。
ただ、このことはすでに何回も感じていることだった。その度に、変わらなければと思う。しかし、いざというときに、ぼくは逃げてしまう。
例えば、去年の体育祭でリレーの選手を任せられそうになったとき(単に陸上部だからという理由だけだったが)。
友達が「テストで賭けをしよう!」と肩を叩いてきたとき。
高校受験で先生に「ワンランク上も頑張れば狙えるぞ」と言われたとき。
いつだって恥をかきたくない思いが、リスクを避ける性格が、失敗したら?という恐怖が、ぼくを臆病にさせる。
どうすれば変わるのだろう。みんなも、こんな考えを抱いているのだろうか。
「いでっ!」
物思いに耽っていたら尻を蹴られた。振り返ると幼馴染が笑いながら、ファイティングポーズをしていた。
「いつの間に来たんだよ。春」
「今来たばっかよ。あんたがぼけーっとしてるから、気合入れてやったのよ」
こいつは、大崎春香。リスクを恐れるなんてものとは、まるで無縁な大胆で豪快な性格の持ち主である。
お互いの母親同士が友人だったので、子供のころから会う機会が多かった。それで、仲が良くなり、一緒に遊ぶようになった。
春は、ぼくより少し頭のいい高校に通っている。受験が終わり、互いの進路が確定したときに、春から「優は実力あるんだから、あたしと同じとこ受験してみれば良かったのに」と呆れた顔をされた。
それまでぼくは、堅実に生きていると思い込んでいた。ただ、それは現状維持に必死で、変わることを恐れてただけだったと、春の一言で気付いた。
それでも、春はぼくの家によく来た。むしろ高校が別々になった分、その頻度は、中学の頃より増えた気がした。「優に会いに来てんじゃない。華ちゃんに会いに来てるのよ」は、彼女の口癖となっていた。
「あんたねぇ。そんな風だと首切られて、おっ死んじゃうわよ」
「うわ。でたでた。首切り事件の話。今日の部活で飽きるほどしたよ」
「あ、やっぱみんなそうなんだね。でもでも、あたしの方は新ネタを仕入れたのだよ。優也君」
春は、得意気に話し始める。なんか嫌な予感がした。
「殺されちゃった人たちは、似たような夢を見てたんだって!」
やっぱりだった。
「それも今日、聞いたよ」
しかも石田の方が、もう少し詳しかった。
「知ってたのか、つまんないなぁ」
「そんなことより、この話って有名なの?」
「さぁ?所詮は噂だけどね。なに、あんた本気にしてんの」
「へっ、そんなわけないだろ」
ぼくは鼻で笑うが、そんなわけあった。本気とまではいかないが、気にしている自分がいるのを否定できない。
「で、お前はいつまでいる気なんだよ」
すでに夜の十時を過ぎている。
「え?もちろん泊まるけど?」
春は、華と二人でソファに座りながら、キャッキャッウフフとゲームをしている。
「はぁ、さいですか。お好きにどうぞ」
泊まるのが当然だという態度にも、特に何も思わなくなった。
「じゃ、ぼくは明日早いので寝ますよ」
適当な返事だけで、二人はこちらを見向きもしない。
うっ、なんだこの疎外感は!ちくしょー。
半べそかきながら、ベッドにダイブする。そのまま眠りについた。
その日の夜は、春がきたこともあって賑やかになり、『妙な夢』についてすっかり忘れていた。そして、実際に夢を見ることなく、朝を迎えていた。
「こんなに早く起きたのって、いつ以来だっけ」
時刻は朝六時二十分。
部活に行くための支度をする。その最中に、起床してきた両親から「すごいな。お前、こんな早くに起きることができたのか」「えらいじゃない。成長したわね」と、何度も褒め言葉で馬鹿にされた。
七時を若干過ぎたころに、家を出た。本来、ここまで早く出る必要もないのだが、昨日の駅での出来事がある。何が起こるかわからない。早めに出るに越したことはない。また全員にジュースを奢るのは嫌だった。
「まぁ、二日続けて何かあるとは思えないけど」
まるでこのセリフがフラグだったかのように、奇妙な体験をすることになる。
昨日とは違い時間は存分にあるため、ぼくは優雅に歩いて駅に向かい、到着する。
ぎゃー、さすが通勤ラッシュ。人間の群れだ。
嫌々ながらも、乗車する。普段は駅に着くまでの間、小説や漫画を読んだりして過ごす。しかし、今は身動きが取れない程ではないにしても、そういったことをする余裕はなかった。なので、ぼくはぼけーっと窓の外を眺める。
ふと車内に目を移してみると、少し先で嫌な光景が視界に入った。
うわっ、あれは痴漢ってやつだろ。
話ではよく聞くが、実際に目撃するのは初めてだった。痴漢をしているのは、サラリーマン風の男だ。これでもか!というくらいに鼻の下を伸ばしている。
そんな顔してれば、すぐに周りにばれるだろうと思うが、誰も気づく気配がない。
痴漢をされてる方は、おとなしい雰囲気の出ている少し地味な制服姿の女の子だ。可哀想に肩を震わしている。とてもじゃないが、「この人、痴漢です!」なんて言い出せそうにない。
あっ、となると僕が言うのか?必殺「この人、痴漢です!」を、ぼくが言わなければならないのか。よーし、やってやるぞ、この痴漢野郎!
「・・・・こっ・・・・」
声が出ない。
「こっ・・・の・・・」
まったく声が出ない。
理由はすぐにわかった。恥をかくのが嫌なのだ。
恥?なにも恥ずかしいことなんて、あるもんか!
それでも、もし自分の勘違いだったら?と考えると、どうしても声が出ない。どう考えても勘違いなんかではないのに。
こうしている間も女の子はおびえている。
そこで気づく。これはチャンスなんだ、と。昨日、ぼくの臆病さについて考えたりしたから、それを挽回するチャンスが来たのだ。
拳を握りしめ、腹に力を入れる。だが、ぼくがしたのはそれだけだった。情けないことに駄目だった。声を出したとき、視線が集まるのを想像すると、声は喉までで止まってしまう。
かといって見捨てるのはひどすぎる。だからぼくは、不自然ではあるものの、強引にあの二人の間に割り込むことにした。とはいえ、この車内状況。動くたびに人にぶつかる。そして、ぶつかるたびに「なんだ、こいつ」といった目を向けられる。
なんだか腹が立ってきた。なにに対してと聞かれれば、痴漢と情けない自分に対してだ。
なんで、ぼくがこんな思いをしなきゃいけないんだ。あの野郎!
睨み付けてみるが、ぼくのことなど気にも留めない。鼻の下を伸ばし続けている。「フヒヒ」なんてセリフが似合いそうな顔だ。女の子のお尻で手がもぞもぞしている
ああ、ぼくにいかつい腕でもあれば、あいつの手をひねり上げてやれるのに!そんなことを考えたときだった。
「あぎゃ、いでででっ!」
痴漢が、叫び声をあげた。周囲の人は、怪訝な表情で痴漢を見つめる。
なんだ、あれ。
肘から先部分の腕が浮いていた。その腕は痴漢に対し、関節技を極めている。しかも、人間の腕ではない。
例えるなら、黒板にチョークで描いた腕が、立体になり空中に飛び出てきたような・・・・って、あれ?こんなこと前にも考えたような。
あぁ、夢だ。夢の中に出てきた大鎌と同じだ。
「いって、あああいでで」
痴漢が叫べば叫ぶほど、人々の視線は集中する。そうこうしているうちに、電車は駅に止まっていた。ドアが開いても、その腕は関節技を極め続けている。
女の子は逃げるように降りて行った。何が起こったかわからないが、あの子が助かってよかったと安心する。
さすがにおかしいと「だ、大丈夫ですか」「どうしました」と、声を掛ける人が現れ始める。その頃にはすでに腕は消えていて、痴漢はただただ困惑している。そして、周囲の視線に堪えられなくなったのか、電車を降りようとする。だが、タイミング良く(痴漢にとっては悪く)ドアは閉まり、電車が動き出す。ほんのちょっとだけかわいそうに思えたが、まぁ、因果応報だろう。
それにしても、あの腕に気付いたのは、ぼくだけなのかな。他の人も驚いてはいた。でもそれは、叫びだした痴漢にだ。誰もが、突然現れた腕には注目していなかった。ぼくは幻覚でも見たのかと、首を傾げた。