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14 近くて、 遠い。

「送るよ。もう帰ろう」

「うん」

 嬉しい余韻のまま、私達は立ち上がった。

 玄関に向かう。

 靴を履こうとした空良の前にある玄関のドアの向こうから、カチャカチャと音が聞こえた。

 何の音かと確かめる間もなく、立ち上がった空良がいきなり、鍵をかけて、ドアチェーンもかけた。

「親父だ」

 私は、驚きで咄嗟に動けなかった。

 空良は私の靴を掴むと、私を部屋へと引き戻した。

 直後にガンガンとドアが引かれてドアチェーンが嫌な音を立てる。

「隠れてろ」

 私に靴を渡すと、空良は部屋の明かりを消したまま、玄関に向かった。

 部屋の向こうで、ドアが大きく閉まる音がした。

 近づいてくる足音。

「チェーンかけるなって言っただろうが!!」

 怒鳴り声がするけれど、聞き取れたのは最初のほうだけで、それ以上は何を言っているのかまではわからない。

 床に、何かが倒れる音がする。

 そうして、何かがぶつかるような音。


 怖い。

 殴られているの?

 蹴られているの?


 それでも、私は動けなかった。

 目を閉じて、靴を抱きしめたまま、嫌な音がしなくなるのを待った。

 空良が殴られているかもしれない音を頭の中から消すために、必死で、今日空良が弾いていたメロディを反芻していた。

 それは、長かったのか。

 それとも、短かったのか。

「花音」

 空良の小さな声がした。

 目を開けても、暗かった。

 ドアが少し開いていて、暗がりの中、空良が立っていた。

「ごめんな、親父、寝たから。行こう」

 空良が手を伸ばしてきた。

 私は、暗がりの中、空良の手を掴んだ。

 常夜灯がついた居間を横切って、玄関に向かう。

 家の中には、お酒の匂いが強く漂っていた。

 靴を履いた空良が、私が履くのを確認してからドアを開ける。

 外に出て、急いで階段を下りる。

 アパートの脇にある電柱の水銀灯が、空良の顔をようやく見せてくれた時、私は空良の左頬が腫れていて、唇の端が切れているのを見た。

「空良、血が」

 私の表情を見て、空良は手の甲で唇の端を拭った。

「平気だ。慣れてる」

 短くそういう空良が、哀しかった。

 静かな夜道を二人で歩く。

 けれど、さっきまでの静かで、完璧だった私達の世界はもうどこにもなかった。

「ごめんな」

 ぽつりと、空良が呟く。

 私は空良の方を向いた。

「怖い思いさせて。親父が帰ってくるって思わなくて」

 私は、慌てて首を横に振った。

「私こそ、ごめんね。家に行きたいって、我が儘言ったから」

 私は後悔していた。

 私が外に出なければ、空良は家に帰ってそのまま休んで、帰ってきたお父さんに怒鳴られることも殴られることもなかったのだ。

「違う」

「え?」

「花音がいてもいなくても、親父には殴られてた。変わりない。いつものことだから」

「――」

「だから、花音が気にすることない」

 どうして、と聞くことはできなかった。

 その答えを、一番に探しているのは、空良だったから。

 それでも、思うことは止められなかった。


 どうしてお父さんは空良を殴るの?

 こんなに優しい空良を殴ることで何を求めているの?


 答えのでない問いを、私もまた、考え続けた。

 家が見えてきて、私は立ち止まった。

「花音?」

 空良も気づいて立ち止まる。

「月曜日も、学校に来るよね」

「うん」

「水曜日も、会えるよね」

「うん。雨が降ったら、小屋にいる」

 それを聞いて、私はようやく安心した。

「ここでいいよ。帰ったら、冷やしてね」

「うん。またな」

 私が家に入るまで動こうとしない空良に後ろ髪を引かれながら、歩き出す。

 その夜、最後に見た空良はどこか遠く、寂しく感じて、私の胸を痛ませた。





 月曜日、火曜日と日は過ぎて、ようやく水曜日。

 それまでがすごく待ち遠しかった。

 久々に顔に殴られた痕を残して登校した空良は、月曜からみんなの噂の的だった。

 たくさんの憶測が囁かれたが、誰も本当のことは知らなかった。

 私と、空良以外は。

 それでも、空良は静かだった。

 黙って、ただ一日をやり過ごした。

 いつもそうだったのだ。

 黙って、耐えて、一日一日をやり過ごす。

 それしか、なかったから。

 私には、音楽室でピアノを弾く以外何もできなかった。

 それが余計に、哀しくて、苦しかった。


 空良に近づきたいのに、できない。


 そう思い知らされた三日間だった。





「花音ちゃん、今日、音が少しだけ乱れてたわ」


 美園先生に言われて、どきりとした。

「あ、ダメってわけじゃないのよ。何かね、いつも花音ちゃんって、きっちり弾くから、その乱れがちょっとアンバランスな感じでかえって良かった」

 言われて、私はちょっと複雑な気分になった。

「私の演奏って、音大に行くにはどうですか」

「ここ最近の音を聞いてると、実技では、音大は十分に狙えると思うよ。何か悩んでる?」

「――ピアノを弾いていて、いいのかなあって」

 その言葉に、美園先生はきょとんとした。

「ピアノ弾くなって、また言われたの?」

「いえ、そうじゃないんです。この間の中間テスト、結果すごく良かったから、親も何も言わなくなりました」

「じゃあ、なんで?」

「私がピアノ弾いても、無駄なのかなって考えちゃって……」

 だって、私がピアノを弾いているのは、結局は自己満足でしかない。

 好きなだけでは、駄目なのかもしれない。

 誰も、何も、変えられない。

「お父さんやお母さんは、花音ちゃんの音大行き、反対なの?」

「いえ。そもそも、言ってませんから――」

「言ってないの? どうして?」

「――反対されそうだったから」

 否定されるのが怖くて、言えなかった。

 受験のためにピアノを休んだらと言われたことだけでもショックだったのに、音大まで否定されたらと、怖くて言葉にできなかった。

 空良の時もそう。

 空良を、助けたかったのに、私はあの時ただ隠れていた。

 怖くて、何もできなかった。

 いつも、何もできない。

 いつも、何も言えない。

 それが、悔しくて、辛い。

「――」

 私の沈黙に、美園先生が溜息をついた。

「そっか。それでか」

 私は、顔を上げて美園先生を見た。

「始めたばかりの頃、花音ちゃんって、ホント楽しそうにピアノ弾いてた。でも、中学に入ってからかな、何か、花音ちゃんの音が、変わってきてた。以前ほど、楽しそうじゃなくなってた」

「――」

 きっと、それは進路のことを意識しだしたからだ。

 現実的じゃない夢を、否定されたくなくて、私は親に何も言えなくなっていた。

 ピアノを弾くことで、逃げていたのだ。

 ピアノを弾いている時だけは、そんな現実と向き合わなくてすむから。

 ピアノを弾いてさえいれば、譜面通りに弾くことができれば、自由になれると思ったから。

「迷ってたのね」

 そうだ。

 私はずっと、迷子のように心細かった。

 どうしていいかわからずに、迷いながら、でも、誰にも言えずに。

 そして、空良に出会ったのだ。

 同じように、迷っていた空良と。

 私なんかより、もっとずっと、たった独りでさまよっていた彼と。

「花音ちゃん」

 美園先生の声が、私を現実に引き戻す。

「もっと、自信持って」

「え?」

「最初から諦めちゃ駄目よ。お父さんとお母さんに話してみるの。正直な自分の気持ちを」

「――」

「ここ最近で、花音ちゃんの音は、ずっと良くなった。花音ちゃんの音をもっと聞きたいと思った。花音ちゃんは、そんな音を出せる人よ」

「――」

 美園先生の言葉に、空良の声が思い出された。


――音楽の時間に聴く曲とか、そんな風に思ったこと一度もないけど、高森が弾くピアノは、もしかしたら、ホントに神様がいるんじゃないかなって思う時がある。


 ピアノや音楽のことを知らない空良は、私の祈りを、願いを、聞き取ってくれる。

 私の心を、聞き取ってくれる。

 そんな人には、きっともう、一生出会えないかもしれない。

「先生、私、言ってみます。自分の正直な気持ち」

 親にも、空良にも。

 美園先生は、にっこり笑ってくれた。

「花音ちゃんの、本当の音が見つかるといいと思う。花音ちゃんの目指すものが、それでわかるはずだから」

 美園先生の教室を出て、私は空良のところへ向かう。


 早く会いたい。


 私は走った。

 それが、私と空良をもっと遠ざけることになるとは思いもせずに。






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