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13 二人だけの世界


 祈りが届いたのか、金曜日の朝から降り出した雨は、夜中には止んだ。

 本当は、時々ぱらぱらと降ったり止んだりしているけれど、外に出ても、きっと傘は必要ないだろう。

 ここからあの神社までは、早足で行けば五分ぐらいで着くし。

 うん。私には、これは『雨が降っている』とは思えない。

 心の中で自分を正当化して無理に納得させる。

 パーカーのフードを被って、私はまた勝手口から家を出た。

 外に出ると、

「あ……」

 空良が、立っていた。

 帽子をかぶって、ちょっと困ったような顔で。

「やっぱり出てきた」

「どうしたの? もしかして、ずっとここにいたの?」

「違うよ。着いたの三分くらい前。微妙な天気だったから、もしかしたら出て来るかもしれないと思ってさ」

「――」

 ばれてる。

 歩き出した空良について、私も神社に向かう。

「ごめんね。ここまで来させちゃって」

「それはいいけど、キーボードは持ってきてないんだ。濡らすのやだからさ」

「うん。私もそれはいいよ。水曜日まで待つから」

「天気予報見たら、水曜日も微妙な天気だった」

「そうなの?」

 がっかりした。

 空良は、きっと借り物だからすごく気を遣っているのだろう。

 横長のバッグでは、傘に入りきらないだろうし。

 どうしたものかと私が頭の中でぐるぐる考えていると。

「うち来る?」

 空良が唐突に言った。

「え?」

「親父、今日いないんだ。この時間までいないなら、今日はきっと帰ってこないからさ」

「行く」

 私は即答した。あんまり速かったのか、空良は聞き取れなかったようだ。

「え?」

「行きたい。空良のうち」





 空良の家は、神社から五分とかからないところにあった。

 きっと私の家と同じくらいの距離だろう。

 ちょっと古いアパートの二階だった。

 コンクリートの階段を上がるとすぐの部屋。

 鍵を開けて、空良が先に入って明かりをつけた。

「入って」

 静かにドアを閉めてから、

「おじゃまします」

 小さくそう言って、靴を脱ぐ。

 廊下を過ぎてすぐリビング、右手前にはキッチン、リビングから真っすぐ奥にはドアが一つ。常夜灯だけだったから、うすぼんやりだったけど、大体の間取りは分かった。

「こっち」

 空良はリビングの左手前側にあるドアを開けた。

 ついていくと、明かりのついた六畳の部屋にベッドと机が置かれていた。

 ドアのすぐ脇にはクローゼットがあった。

 机の上には、キーボードが置かれていた。

「座布団とかないから、ベッドに座って」

「う、うん」

 ドアが閉まる音で、私は緊張していることに気が付いた。

 こんな時間に、空良と二人きりで部屋の中にいるなんて。

 これよりも狭い小屋の中でずっと二人でいたこともあるのに。

 夜だからなのかな、こんなにドキドキするのは。

 でも、私の緊張をよそに、空良は帽子を取ってすぐにキーボードの置いてある机に向かった。私も慌てて近づく。

 ベッドに座ると、ピアノに向かう空良が横から見えた。

「なんかさ、机に置いたら弾き辛かったから、椅子を高くしてみた」

「あ、それは正解。ピアノの椅子も高さを調節するから」

 確かに、机についている椅子がぎりぎりまで高くなっていた。

「とりあえず右手からな」

「うん」

「間違っても笑うなよ」

「笑わないよ」

 キーボードを貸してから、まだ三日も経ってない。

 そんなに上達するはずがないのは、私にだってわかる。

 だが。

 予想に反して、空良は手の形を崩すことなく、ミスタッチもなく、さらりと弾いてしまったのだ。

 さらには、左手も。


「上手いよ……」


 私には、それしか言えなかった。

 俯き加減の私の隣に座って、空良が覗き込む。

「褒めてんのに、何で不満そうなの?」

「だって、私が教えることないじゃない」

「?」

「空良の数学の教え方、すごく上手かったから。ずるいよ。私も上手に教えたかったな」

 数学がわかった時の、あの感動を空良にも感じて欲しかったのに。

 不満と言うよりがっかりした私を、空良は不思議そうに見ていた。

「花音が教えんの上手だから、俺、今、上手く弾けてんじゃないの?」

「え? あ、そうかな?」

 上手と言われてあからさまに声の調子が上がった。

「私の教え方、上手だった? 目が覚めるくらい?」

 空良が笑う。


「ホント、変なやつ」


 空良が笑ってくれたので、私も笑い返した。

 だって、嬉しいのだ。

 空良とこうしていられる時間が。





 次までの簡単な練習法を教えたら、空良は真剣に聞いてくれた。

 右手と左手がこんなに早く弾けるなら、来週あたりから、両手での弾き方も教えてもいいのかもしれない。

 そういうと、空良は嬉しそうに笑った。

「練習した甲斐があった。家で練習する時間たくさんあったんだ。親父、一昨日から帰って来てないんだ。仕事か何かだと思うけど」

 曖昧に答えるのは、きっと空良自身何も言われていないからなんだろう。

 でも、私は正直ほっとした。

 お父さんが帰ってきて、また空良が殴られるのは嫌だった。

「お父さんいないんでしょ。ごめんね。今日ぐらいは外に出ないで家でゆっくりしてればよかったね」

 私のために、わざわざ小雨の中、家まで来させてしまった。

 申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 でも。

「やだよ」

 空良は即答した。

「え?」

「だって、そしたら花音と会えないじゃん」

 思いがけない空良の言葉に、私は嬉しいより先に驚いてしまった。

 でも、空良はそれを別の意味にとったらしい。

「俺と会うの、めんどくさい?」

 その言葉に、私は慌てて否定する。

「違うよ。私は――毎日会いたいけど、空良が外で一人でいるのが嫌。ゆっくり休んでほしいんだよ」

 私といられる時間は、ほんの少ししかない。

 それ以外の時間は、空良は一人ぼっちで過ごさなければならないのだ。

「一人じゃないよ。花音がいるじゃん」

「空良……」

「花音がいるから、一人じゃない。あんたといるの、楽しいから」

 心が、震える。

 どうしよう、泣き出したい。

「親父といても、ただそこにあるだけの置物みたいな気分だった。食費も俺が催促しなきゃ出してもらえなかったし、家にいても酔ってる時のほうが多いから部屋に籠ってるしかないし。こういうのを、寂しいって言うんだな。いつも寂しかったのかな。でも、今はそんな気持ち感じないんだ」

 空良が、静かに笑って言う。

 その顔を、私は食い入るように見つめてた。

 何一つ聞き逃さないように。

 そうしないと、泣いてしまいそうだったから。

 独り言みたいに話していた空良が、私の視線に気づく。

「ガン見しすぎ」

 言われて、私は慌てて視線を逸らした。

 同時にほっとした。

 溢れそうだった気持ちが、静まっていく。

 もう一度視線を戻した時、今度は、空良が私を見つめていたことに気づいた。

「なんか、俺ばっかしゃべってるけど、俺のこんな話、聞いてて楽しい?」

 正直、楽しいとは思えなかったが、彼が話すことなら何でも聞きたかった。

 私の微妙な表情を見て、彼は小さく笑った。

 私は、空良自身のことを知りたいけれど、それ以上に、空良の声を聞いているのが好きだった。

「花音は、ピアノのこと話す以外は、あんまりしゃべんないんだな」


 それは違う。

 私は空良の声を聞いていたいのだ。


 やわらかで優しい、ちょっと低い響きを、私は音楽を愛するようにずっと聞いていたいと思っていた。

 私がそう言うと。

「変なやつ」

 彼はそう言うが、言葉どおりの響きはなかった。

 いつもみたいに照れたような、困ったような、温かな感じがした。

 空良の左手が、私の右手に触れている。

 重なっているわけじゃない。

 ただ、ベッドについた互いの手の両端が、触れているだけ。

 わずかなぬくもりが、確かにそこにある。


 それを感じることが、どれ程幸せか、空良は知っているだろうか。


 それは、私の中にしみこむようにゆっくりと伝わる感情だった。

 ほのかに香る花のような、けむる霧雨のような、音もなく静かな、そんな感情だった。

 そっと触れる指の端が、ただ嬉しかった。

 この想いだけで、他には何もいらないとさえ思った。


 こんな想いを、私はずっと知らなかった。


 空良を知って初めて、私は音楽以外に、こんなにも温かく美しい世界があることを知った。

 一瞬一瞬が大切で、触れていたいのに、見逃したくないのに、壊してしまうことに戸惑って、それ以上は踏み込めない。

 それでも、諦めることはできなくて、そっと、静かに、近づいていく。

 きっと空良もそうだろう。

 私達は宝物をそっとしまいこんでいるように、ただ互いを互いに自分の世界へ閉じこめた。


 この想いを恋と呼ぶなら、恋とはなんて純粋で汚れなく、幼いのだろう。







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